せめぎ合う人類と個人
ネアンデルタール人は人類(ホモサピエンス)より、大きな脳を持ち、強いからだを持っていたが、絶滅してしまった。生き残ったのは体が弱く、寒さにも弱いホモサピエンスだった。
人間は生き残るための知恵、道具をうまく使い集団で協力連携することで生き残った。これも、自分より強い肉食動物やライバルであるネアンデルタール人などに打ち勝つ必要があったからだ。
人類はその生存競争の頂点に立った後も、さらに進化し文化的・経済的な基盤を作ることで、その数を増やしていった。
そのような競争は、他の生物との間で行われるだけでなく、人間の間でも行われる。進化して、優れた遺伝子を残すためには必要なことで、人間だけでなく、すべての生物においても、進化するためにそのような競争がある。
そのような「生物としての法」に則って、競争を強いられる。その時、「自」と「他」を区別し、「自」が「他」に相対的に勝つよう、高度な知的活動が生まれたのだと思う。自と他を区別したため、苦楽が生まれ、人間は迷うようになった。
アダムとイブがリンゴを食べたのも、自他の認識が生まれたからで、その途端、苦悩に持ちた生き物になったと言える。
人類という生物は、そのように競争を個々の人間に仕掛けながらも、個々の人間のもつ苦楽にはなにも関与しないし、情けはない。それが、人間が神という絶対的存在を崇めるようになった理由であろう。ちょうど人間が、人間を構成する細胞が生まれようと死にようと全く意識しないのと同じである。
一方で個々の人間は勝手に生きているのではなく、人類という傘の下で、「人類の法」に従って生きている。だから競争から逃れることはできない。人類という生き物の新陳代謝のために、死も免れない。
個人にとっては、競争は必要悪である。人類にとって必要だけれども、個人を疲弊させるものだからだ。結果モチベーションを上げるものであり下げるものであるからだ。モチベーションの上げ下げがなければ、競争は成り立たない。だから人類にとっては必要なものだ。でもそれが極端にあれば、個人を疲弊させてしまう。極端になければ、無気力で自堕落になってしまう。すなわち、進化してゆくという「人類の法」に反してしまう。だから適度の競争とそれを避ける逃避があって、人類と個人の妥協が成立する。
個人が、生きる意味や死ぬを考える時、人類としての生きる意味、死ぬ意味をどうやって個人の生きる意味、死ぬ意味として解釈できるか大事だと思う。