色即是空 空即是色

般若心経の有名な一説である。諸説あると思うが、こう解釈する。

「色」とは物質のことである。広義でいえば、生き物、人間も含むだろう。そういうモノのことを我々は「有る」と思う。当たり前だ、それぞれに名前がついて呼んでいる。一歳の赤ん坊でも、ママとかブーブとか認識する。

物理では、それが分子や原子で成り立っているとか習った。それももちろん「有る」が前提である。そのことを「自性」すると言う。

「空」とは、空っぽという意味であるが、普通に考えれば「無い」ということになる。でも「無い」では 「無」だから、「無い」ではなく、「有るとも無いとも言えない」という解釈をする。このことを「無自性」と呼ぶ

「色即是空」
有るようの思うものは、実は有るとも無いとも言える。
自性すると見えるものは実は無自性である。

同じ理屈で
無いと思うものは、実は有るとも無いとも言える。
無と見えるものは、実は無自性である。

自分にとって有ると思っても、それは自分の見方であり絶対的な見方ではない。だから客観視すれば、あるとも言えるし無いとも言える。苦が「有る」と思っても、実は、「有る」ともいえるし「無い」ともいえる。

「空即是色」
有るとも無いとも言えるものは、実はあると言える
無自性なものは、幾ばくか自性していると言える

同じ理屈で
有るとも無いとも言えるものは、実は無いと言える
無自性なものは、幾ばくか無いといえる。

客観視して無自性であるなら、自分にとっては、「有る」と解釈できる。あるいは「無い」と解釈できる。
苦は、客観的に見れば有るとも無いとも言えるわけだから、自分にとっては「無い」と解釈可能である。

「色」だけでなく、「一切皆空」であるから、すべて(五蘊すなわち色受想行識)は、無自性であり、あるともないとも言える。無自性なものを把握するということは、無分別に考えるということである。あるとないに分けない、一元論だ。

無分別ということは、0か1かのデジタルな取捨選択ではなく、その中間のメモリを表す。
時にそのメモリを0(無)に近づけたり1(有)に近づずけたり、自分の意図に従って自由に解釈可能である。それが無分別智となる。

色即是空と空即是色を使って、あるとないのメモリを自在に調節できる。刹那刹那で自在に解釈を変えることで、自分にとって生き易くすることができるはずだ。

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