自然に溶ける共時性を生きた、夏。
こんにちは、タケルです。
いやあ、暑いですねえ。8月は涼しい高原地帯に避難していたんですが、9月になって街に降りてきたら、かえって夏が戻ってきたみたいな変な感じです。
それにしても高原は良かった。親戚が古民家を借りてるので、そこでしばらくのんびり過ごしてました。というのも、その家を借りてるいとこが、職場で色々あってPTSDになり、療養のため休職中だったんですね。
俺はそれを知らずに遊びに行ったんですが、いとこ的にも誰か住人がいてくれるとありがたいってことで、自宅から作業グッズを宅配してもらって、なんだか不思議な時間を過ごしていたわけであります。まあ、おっさん同士のひと夏のシェア生活って感じですね。
なんだかいい夏でしたね。いとことじっくり過ごすのは多分中学生ぶりだったんだけど(うちは夏休みになると親戚皆でばーちゃんちに入り浸る)、大人になってから一緒に過ごすことってなかったし。
それにいとこって、兄弟ってほど近くもなければ友人ほど他人でもなく、かと言って友人ほど距離も近くない、すごい他人ぽいのに血は繋がっているという、謎の距離感だったりしますよね。
その距離感が、なんだか良かった。俺は涼しい窓辺に机を持って行って、ひたすら仕事して。今時は田舎でもしっかり電波が届くからズームもサクサクだし。いとこはいとこで、古民家の修繕をしたり、周辺のちょっとした土木作業を淡々とこなしたり、近所づきあいを楽しんだりして。俺らも、たまに台所で会うと自然な会話が生まれたりしてね。
俺は、最初に「職場で色々あった」と聞いたきり、それ以上何があったとか踏み込むことはなかった。彼も、これと言って話したそうではなかったし。ただ一度だけ、俺が持ってきた映画でも見ようか、となった時に、ふと「あ、こういう時のコンテンツ選びって案外むずいな」とちょっと思った。何かのシーンで、フラッシュバックさせたりしないかなあと心配になったりして。
でもああいう時って不思議で、自然と見始めた映画が、結果的に彼にとっては自分を俯瞰するような視点を提供するものであったり、相手側の事情を垣間見る機会になったりして、思いがけず、何か暖かな涙が流れるような瞬間があったりして。俺は黙って隣で映画を見てるだけなんだけどね。
それでも半月も一緒にいると、彼の方でも気分が変わってくるのか、たまに何か話したそうなそぶりを見せることが増えてきて。そんな時に、禅タロットで遊んでみたりもした。占い的に使うっていうより、出てきたカードで連想ゲームをしていくような感じで。
なかなかアラフォーにもなってくると、特に男同士で向き合って話すのはハードルが高いけど、こういうカード的なものを挟んでみると、お互いに矢印を向け合うことなく話せてちょうど良かったりするんだよね。これもまた、ふとみた映画が沁みた、みたいな感じで、ふとでたカードによって、新たな視点が生まれるみたいな、そんな作用があったんじゃないかなと思う。
俺は彼と時間を共に過ごしながら、毎日の中でふとした時に現れる、ささやかな共時性が、思いがげず彼を癒していく事の流れを、しみじみ感じていた。なんだか、目に見えないものに守られた空間というか、優しい磁場がそこにある感じで、俺はただその磁場でくつろいでいるだけでいい、みたいな安心感。
結果的に、彼はずいぶん元気になったように思う。もちろん精神科医の判断では、まだまだ休みなさいって感じだったし、俺もまだまだ復職する時期じゃないんだろうな、と思って見てた。それでも、きた時よりはずっと顔色が良くなったのを感じた。
今こうして振り返ると、あの夏、不思議なくらい彼と俺がうまく行ったのは、あの家を豊かな自然が取り囲んでいたからだと思うんだよね。さっき「共時性」と書いたけど、思うに、何かをコントロールしようとするんじゃなくって、その場の流れにただ委ねながら過ごす時に起きてくる共時性は、言い換えると自然の有機的なつながりによる作用、という感じがするんだよね。
なんていうか、彼と俺以外にも、あの家には蛇とか鳶とか草木とかいろんな生き物たちがいて、それらが絶妙につながり合って、不意に温かな偶然が生まれる。例えば、何気ない風が吹き込むことが、自然と会話を育み、そこから生まれたアイデアが、彼を、もしかしたら俺の何かを、癒していた、そんな繋がりを感じていた。そういう、本来自然と人との有機的な繋がりを表すのが共時性であって、その「自然とのつながり」は、言い換えると「愛」なんだと思う。
だから、ただそこにいて、自然を感じて、そこにある自然のリズムに沿って生きてるだけで、そのつながりそのものである「愛」が、自然や人を通じて作用し合う。その気持ちよさ、不思議を、感じた夏でした。
今日も読んでくれてありがとう!