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私は「不妊」から何かを学ぶつもりはない
ある人は言った。
あなたが経験した苦しい出来事は
次のステップへいくために
意味があったんだと。
別の人も言った。
あなたの辛い経験は
これからの人生に必要なことだったんだと。
確かに苦しい経験も
そこに意味を見いだせれば
前に進みやすくなるのかもしれない。
私は20歳の時に免疫異常の病気になった。
激しい身体の痛みと高熱が続いて
病院を受診するも
すぐには原因が分からなかった。
MRIも受けた。胃カメラもした。
髄液検査もした。のたうちまわった。
それでも分からず
3件の病院をハシゴしたあと
やっと病名がついた。
聞いたこともないその名前を聞いたのは
発症してから半年後のことだった。
さっそく治療ができると喜んだのもつかのま
今度は薬の副作用に苦しめられた。
髪の毛が抜けた。顔中に吹き出物ができた。
生理が止まった。10キロ太った。
鏡にうつる私はいったい誰なのだろう。
体調が安定せず通っていた大学を辞めた。
復帰することを目標に治療していたので
目の前が真っ暗になった。
もう右も左も分からない。
ときどき聞こえてくる
同級生の声には耳をふさいだ。
彼らの就活の「大変さ」さえも
うらやましくて聞いていられなかった。
でも心のどこかで信じていた。
この経験は次のステップへいくために
意味があったんだと。
しかし
退院しても
何年経っても
何十年経っても
元気になっても
私はそう思えなかった。
「生きる意味」とか「命のありがたさ」とか「家族の絆」とか「友情の大切さ」とか
そういった熱いものを飛び越えて
「あの時病気になんてなりたくなかったな」
という思いだけがあふれた。
辛い経験から何かを学ばなかった私は
馬鹿なのだろうか
と自分を責めることもあったが
どんなに宥めすかしても揺り動かしても
私の答えは変わらなかった。
辛いものは辛い。
それで十分ではないだろうか。
ここまでくるのだって大変だった。
それをわざわざ引き返してこねくりまわして
「意味のあるもの」に変換しなくても
辛い経験は辛い経験として
しまっておけば良いのでないか。
だって人の気持ちに
賞味期限なんてないのだから。
私は「病気」から「病気」以上のことを学ぶのはやめた。
不妊もそうだ。
我が家には子どもがいない。
不妊治療しても授からないので
この先もずっと夫とふたり暮らしだ。
私たち夫婦に子どもがいないことに
なにか意味があるのかもしれない。
でも意味があったとして
それがどうしたというのだ。
そんなものは慰めにもお守りにもならない。
私にとって「不妊」は「不妊」。
そこにあるのは夫とのふたり暮らし。
ただそれだけ。
ただそれだけを
力いっぱい抱きしめる。