プロポーズを食い気味に断った日
今年で結婚9年目になる私たち夫婦だが
私は一度夫のプロポーズを断っている。
付き合って1年目くらいに
夫から結婚したいと言われたのだが
「ちょっと無理」と食い気味に断った。
大学へ復学したかったからだ。
私は大学3年生のときに免疫異常の病気になり大学を退学している。
病名がつくまでに半年かかった。
検査入院をしても、高熱と節々の痛みの原因が分からなかった。
先生たちもお手上げ状態で、あなたが明るいのが唯一の救いだと言われた。
救われたいのはこっちだったので別の病院へ紹介状を書いてもらった。
そこでやっと病名が確定した。カタカナが入った聞いたこともない名前だった。
おまけに難病指定されているという。
薬を飲めば日常生活は送れると言われたが、回復するどころかどんどん動けなくなり、大学を休学した。
1年休めば回復すると思っていたが、さすが難病指定されているだけのことはある。元気になったと見せかけて、翌日は寝込むなど、体調のコントロールが難しく、休学後一度も大学へ通うことなく退学届けを出した。
大学へ戻ることを目標に、検査も治療も頑張ってきたので私は荒れ狂った。
友人たちとの楽しい時間も、ゼミでの勉強時間も、全てがなくなってしまった。
悲しくて、苦しくて、体を丸くして何日も泣いた。
そんな私をみかねた母があることを教えてくれた。その年から私の大学では復学制度というものができたという。
退学した人でも条件を満たせば大学へ入り直すことができる。
元気になったらまた戻れるからという励ましを、素直に受け取ることができず
「うるせええええ、今戻れなければ意味がないだよ」と毒づきながらも、私の心には「復学」という文字ががっつり刻まれた。
分厚い氷がゆっくり溶けていくように、徐々にではあるが、私の体調は回復していった。
薬の量も減り、長時間外出できるようになった。
それでも夢を見るのだ。大学の卒業式に自分だけパジャマを着て出席する夢を。
いかなくちゃ。間にあわない。と焦れば焦るほど私の体は動かず、友人たちが私の前を通り過ぎていく。夢診断をしなくても、私の心理状態は一目瞭然だった。
学歴を聞かれるたびに小声になった。たいした大学ではなかったけれど、そのたいした大学を卒業できなかった自分が恥ずかしかった。
アルバイトの面接で、大学を退学したことを話したら、どんな理由であれ、途中で何かを投げ出す人とは一緒に働けないと採用を断られたことがある。入学するときは一緒なのに、「卒業」と「退学」のあいだには埋めることのできない溝があることを思い知らされた。
時間薬も私には効かなかった。
どんなに大きな困難を抱えても、時間が薬となって解決してくれるという意味だが、大学への想いは、時間がたつにつれ、薄まるどころかどんどん濃くなり、ぱんぱんに膨れ上がった。
これはもう破裂する前に決着をつけるしかない。
働いていた会社に相談し、大学へ通えるよう時短勤務へ変更してもらった。社長も大学を退学していたので応援してくれた。
贅沢をしなければなんとか学費も払えそうだ。
あとは願書を出すだけ。
というところで
夫からプロポーズされたのだ。
彼も私が大学へ復学したいという気持ちは前々から知っていたので、結婚したあと通えばいいと言ってくれたが、私は頑なに断った。
結婚をしたら苗字が変わってしまう。
卒業証書に載る名前は絶対に慣れ親しんだ自分の名前が良い。
その名前で夢破れたのだ。その名前で取り返してやる。
夫はプロポーズを返上し、大学へ通うことを了承してくれた。
了承するしかなかったが正しいかもしれない。
そして29歳の春、私は退学した大学へ舞い戻った。3年生からのリスタートだった。
夢にまで見たキャンパスライフ。
歩いているだけで楽しかった。
授業を受けているだけで胸が弾んだ。
最初のうちは。
段々と仕事と学校の両立のハードさに打ちのめされるのである。
友だちが一人もできなかったのも痛かった。
3年生という中途半端な学年で復帰したので、すでに和ができている中には入れなかったし、18歳の新入生と仲良くなるにはフレッシュさが欠けていた。
友だちがいないので、励ましあうことも、ノートの貸し借りも、情報交換もできない。
だから大事な会議の前日でも、クライアントに怒られた日でも、絶対に授業を休むことはできなかった。
疲れが取れずに大学の図書館ではよく寝ていた。受付の人にまた来たよと思われていたかもしれない。コーヒーを飲みすぎてコーヒー味のゲップが止まらなかった。目の下にはコンシーラーでも隠し切れないクマができた。書いても書いてもレポートが終わらなくて、そっと逃げた出したこともある。
その結果、単位を落とし、2年で卒業するはずが2年半かけて大学を卒業することになった。
最後の授業の日、夫が花束を持って校門の前で待っていてくれた。
よく頑張ったねと言ってくれたが、頑張ったのは夫のほうである。
大学へ通っている最中は、寝ても覚めても、大学が第一優先だったので、デートを頻繁にドタキャンしていた。試験中に夫へ八つ当たりしたこともある。レポートを私の代わりに書いてくれとお願いしたときは、自分でやるべきだと断れた。それな。
どんなに私が傍若無人に振舞おうとも、夫の姿勢は変わらなかった。
「私の大学生活を応援する」
これに尽きた。
今回の卒業は、桜舞い散る中、みんなと和気あいあいと迎えたものではなく、ギリギリのところでむしり取ったようなものだ。
思っていたものとは違った。
もっと感動するはずだった。
それでも、2回目の大学生活が悪くはなかったと思えるのは、夫がいてくれたからだろう。
彼からもらった花束には
ガーベラが入っていた。
花言葉は希望。
大学を卒業してすぐに私たちは結婚した。