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結婚して家を出る前日、私は母と喧嘩をした

テレビで見たことがある。

娘が結婚して家を出る日、玄関先で母親と抱擁するシーンを。
結婚してもあなたは私の娘だからね。
お母さん、今まで大切に育ててくれてありがとう。
娘を抱きしめる母の手にぐっと力が入る。
ふたりの目には大粒の涙が。
なんて素敵なシーンなんだろう。

自分にもこんな日がくるのだろうかとぼーっとしていたら、30歳を過ぎてようやくやってきた。

結婚が決まり、私は家を出ることになった。
産まれた日から結婚するまで、ずっと実家で暮らしていた。

だから全く実感が湧かなかったのだが、家を出る前日、母の作る夕飯がいつもより豪華で、やっとそのことを自覚した。
ちょっと胸が熱くなる。

夕飯を食べ終わったら、母とゆっくり話そう。そう思っていた。

私がトイレへいくまでは。

便器に座った瞬間、足元でなにかがシュッと動いた。
あんなに不気味に動くのは、世界でヤツしかいない。
恐る恐る壁を見たらゴキブリがはりついていた。やっぱりね。
右に左にとゆらゆら揺れる触覚が気持ち悪さを増幅させる。

息を殺しながら用をたし、息を止めながらトイレを出た。かろうじて水は流した。

私はゴキブリが大嫌いだった。
たぶん、あなたも嫌いだと思うが、私も負けてはいない。

あまりの嫌いさに、取り込んだ洗濯物にゴキブリがついていたとき、洗濯物を丸ごと捨てたことがある。母にめちゃくちゃ怒られたが、つまむことも、殺すこともできなかったので、そうするしかなかったのだ。

しかし、今回は母がいる。
私と違って虫は全然いけるクチので、すぐにSOSを出した。

戦闘モードで駆けつけてくれるかと思いきや、母は睡眠モードへ突入していたようで「それぐらい自分で殺しなさい」と言いながら、さっさと寝室へ消えてしまった。
私の騒ぎ方が鬱陶しかったのかもしれない。

突然梯子をはずされた私はパニックになった。
トイレの隣が私の部屋だったので、もしかしたら隙間からゴキブリが侵入してくるかもしれない。脳内で何度もそのシーンを再生させ身震いした。

こうしちゃいられねえ。

私はガムテープを手にトイレへ向かった。
ゴキブリが隙間から出てこないよう、ドア枠に沿ってテープをびっちり貼った。
ゴキブリは出てこられなくなったが、人間も入れなくなった。
正気の沙汰ではない。分かっている。
でもゴキブリが気持ち悪すぎてこうするしかなかった。

「そんなことをしたら誰もトイレにいけないじゃない」
後ろで母の声が聞こえた。

じゃあ、代わりに殺してよ。
と必死に抗議したが、母は静かにまた寝室へ戻っていった。

もうやってられない!!!
こんな家出てってやる!!!
明日すぐにでも出ていってやるよ!!!
私はガムテープを握りしめながら泣き叫んだ。

家を出ていくのが寂しくて泣くことはあっても、トイレの前でこんなに号泣するとは思ってもいなかった。結婚して家を出る前日に。記念すべきその夜に。

自分の部屋に戻っても落ち着かなかった。
生命力の強いゴキブリのことだ。裏技を使って私の部屋へ潜り混んでくるかもしれない。
その瞬間を逃すものかと、ドアの隙間を見続けた。
気が付くと夜が明け、私は眠っていた。

母は仕事があったので、いつも通りに家を出た。
私の部屋をコンコンとノックをし、気を付けてねと声をかけてきたが、昨日の恨みがまだ色濃く残っていたので、私はぶっきらぼうに「うん」とだけ返事をした。

ありがとうも抱擁もない
あっさりとした別れだった。

でも、これで良かったのかもしれない。

我が家は母子家庭だった。
もともと仲の悪い両親だったが、父の借金をきっかけに、さらに関係が悪化した。
離婚こそしていないが、私が中学生のときに父が家を出ていき、長いこと別居生活が続いている。

母は厳しい人だった。
早くに自分の父親を亡くしているせいなのか、ちゃらんぽらんな旦那と結婚したせいなのか、人に隙を見せることを嫌った。できないことは、できるまでやらされた。小さいころにママと呼んだら、お母さんと呼びなさいとすぐに言い直された。泣き言も甘えも許されなかった。

小さい頃はそんな母に従順だった私も、成長するにつれ、真面目さよりも、楽しいことを求めるようになった。でもそれを母が見逃すわけがない。

高校生のころ、バイト終わりに、一緒に働く子たちと楽しく話していたら、バイト先の電話が鳴った。店長から呼び出され、お母さんが心配しているからすぐに家へ帰りなさいと言われた。
恥ずかしかった。他の子の親はそんなことをしないのに、母だけが電話をかけてきたのだ。
確かに時計の針は夜の22時を指していたが、いつもの帰宅時間を20分すぎただけじゃないか。なんでこんなことをするんだ。なんで邪魔ばかりするんだ。泣きながら自転車をこいだ。

母の気迫はとどまることを知らなかった。

あのときもそうだ。
父の借金取りが家に来たとき
母は私たち子どもを呼んだ。
いい?何があっても絶対にリビングから出てこないでね。
そう話す母の顔は見たこともないくらい怖かった。
そしてこちらを振り向くことなく勢いよく外へ出て行った。
もう会えないのではないかという恐怖で震えが止まらなかった。妹も弟も震えていた。

よくグレなかったねと言われたことがある。
借金やらサラ金やら、私の生い立ちに不穏な言葉が出てくるので、友人がびっくりしたのだ。

グレられるわけがないだろう。
母が私たちを包んでいたのだから。
抵抗して反発して噛みついても、絶対にその手を緩めなかった。
愛とは気が付かないくらい強い愛で、いつも私たちを包み込んでいたのだから。

そんな母とどうやって別れることができるだろうか。
面と向かい合ってさようならを言ったら、私は泣き崩れたに違いない。
離れられなかったかもしれない。

だからゴキブリが力を貸してくれたのだろう。スムーズにお別れができるよう、空気を読んで出てきてくれたのかもしれない。

ありがとう、ゴキブリ。

なーんて思うわけないだろう。
ふざけんなまじで。

でも母にはものすごく感謝をしている。


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