なぜミサワホームなのか。2011年3月11日にその答えがある。
こんにちは!ファーロスター代表の星でございます。今回は、ミサワホームと協業するに至った経緯についてご説明させていただきます。
2011年3月11日(金)
当時のお話になります。私は航空自衛官として、東京市ヶ谷にある防衛省の航空幕僚監部(18階)に勤務していたころです。
金曜日でしたが予算要求の仕事が佳境に入っており、PCに向かって作業を進めていました。
「今日は、ビールを飲みたい。」
それだけを考えていました。
14時46分 東日本大震災発生
みなさまもご存じのとおり、未曾有の災害が発生しました。防衛省の建物が左右に揺れ、椅子に座っているのがやっとでした。すぐに指揮所が開設され、地下にある指揮所へ詰めることに。そこには全自衛隊からの情報が寄せられます。
そこで見たものは...。想像も絶する光景でした。
「津波が….」
私には何もできませんでした。
在日米空軍への異動命令
すぐに命令が下りました。
「在日米空軍第5空軍司令部へ異動せよ。」
私は在日米空軍のある横田基地へ異動することになりました。任務は米空軍の立場で自衛隊をサポートすることでした。
トモダチ作戦
在日米空軍は自衛隊と連携して支援する「トモダチ作戦」を日本政府に申し入れており、日本政府の要請で支援が開始されることになりました。
私は、捜索支援、輸送支援を担当することになりました。
被災地で見たもの
捜索支援で福島県と宮城県に赴きました。そこには生活の跡はあるものの、ほとんどは津波に流されており言葉で表現するには忍びないくらいとてつもない惨劇が広がっていました…。
「あ、家が残ってる…。」
捜索中にポツンと建っている家がありました。その周りの家はすべて津波で流されていました。1階は少し破壊されていましたが、2階には人が逃げ込んだ形跡も確認できました。
「生きてる人がいた!」
その家はミサワホームの家だとわかりました。
未曾有の災害で残ったミサワホームの建物
その後、再度被災地支援で現地に赴きました。その時にも流されずに建っている家があり、確認することに。
「またミサワホームだ。」
あれだけの災害でも残っている住宅があることに、心から驚きました。
更に、後に流されなかったミサワホームの建物の壁に「2011.3.11 お家ありがとう。守ってくれてありがとう」というメッセージが見つかりました。
涙がこぼれて止まりませんでした。
災害支援経験から思うこと
この時の経験から、たくさんの反省と学びがありました。自分が無力であることも強烈に痛感しました。
「空から救助できたなら…。」
「事前に備えることはできなかったのか…。」
結論は出ませんでした。
けれど、「一つでも多くの命を救うために努力し続けるしかない」と思い、ファーロスター設立後も継続して考えています。
なぜミサワホームなのか。
このようにミサワホームと出会い、協力関係まで取り付けることができました。ミサワホームの技術力はこのような災害に強いことが証明されています。それだけでなく、社員の方もとても熱く、また安全な家づくりを目指されていて、敬意をもって接したいと思っています。
ミサワホームとの協業の前にはこのようなストーリーがあったことをたくさんの方に知っていただきたいと思い投稿することとしました。