え!?牧場ってできるの?
先に「牧場をやりたかった、やりたくなかったという話の前に、そんな事をやれるとは思っていなかった」と書きましたが、それにはいくつかの理由があります。
1.制度的に「やれない」ものだった
2.「うわ〜〜無理だああ!」って体力的に死にそうな経験をした自分(^_^;)
3.「こりゃどうやってもかなわない」っていう既存の農家の凄さ
1.制度的に「やれない」ものだったということ
みなさんは「農業者」という資格があるのをご存知ですか?
特に試験がある資格ではないんですが、農地を買うにはこの「農業者」で有ることが必須条件なんです。家庭菜園のようにいわゆる「宅地」の一部を農地にして使う分には誰も何も文句を言いません。宅地は農地よりも税金が高いのでそこだけ気にしなければひろーーーい住宅地を買って農業をやっても全然構いません。(逆に農地を宅地にするのにはちゃんとした理由と非常に難しい審査を要求されます。)
農業者と認められるにはいろいろな法律上の条件がありますが、大雑把に言えば
本州では50アール以上、北海道では2ヘクタール以上の耕地を持ち、年間150以上農業に従事していること、という条件が課されます。50アールは50m☓100m、2ヘクタールは100m☓200mです。けっっっっっこう広いですね。そういう土地を耕し(土地は自分のものでなくても構わない)年間を通してある一定以上の日数農業に従事して、農産物販売収入がちゃんとある、という人でないと農業者になれません。なので、一般の人が農地を買うことができないんです。この時点で農家には簡単にはなれないんですよね。だって農地なんて最初は持ってないじゃん、となりますが、このあたりなんか卵が先か鶏が先かみたいな話になってしまいます。私にとってもその話を聞いたときは取り付く島がないなと、農家に生まれて最初から農地を持ってないと、農家になるなんて無理じゃん、と感じたものです。農業委員会の承認が必要、たって、私、北海道で最年少の農業委員もやってたことがあるんでわかりますが、農業委員というのは主に地元の農家の人がなっています。なので、どこの馬の骨ともわからない若造が、その地域の農地を買うなんてことをそんなに簡単に許すことはありません。一般の人にとって農家になる道というのはほとんど不可能に近い状態だったのです。(今も一部を除いてそんな状態です)
しかしそうこうするうちにあまりに進む離農、耕作放棄地に焦り始めた国が、そこに歯止めをかけるべく、北海道で「リース牧場制度」というのを試験的にスタートさせたのです。
なんじゃ?牧場をリースって?と思うでしょうが、こういう仕組みです。
まず離農した牧場を国が(北海道の場合農業開発公社が)買い上げます。
それを牧場を始めたい若者に5年間貸し(リース)ます。
5年の間、牧場を運営することによってその若者は「農業者」の資格を得ます。
5年たってうまく経営をしているようだったら、その時点で若者に牧場を売り渡します。(農業者の資格ができてるので農地を買える)
晴れて牧場主! という仕組みです。
うまい仕組みを考えてくれたものです。ただ5年たったら牧場を買う、といっても北海道でも農地、牛舎、機械、そして乳牛と揃えると7000万円〜1億円近くになります。お金持ちでもない限りそんなお金は用意できませんから、リース期間中に農協との取引も含め信用を作っていき、買取の時に国や農協から農業関連の融資制度を利用して資金を借り、購入するわけです。リース期間中は農業者としての資格を得る期間とともに、地域の信用を作っていき、地域にすんなり溶け込んでいけるようにする研修期間、でもあるのです。どこの馬の骨ともわからないやつを入れてしまって、途中で投げ出され、農地も地域の信頼もボロボロにしていなくなる、という危険もある程度回避できるという仕組みです。これなら受け入れる地域の人にも少しは安心して貰える仕組みでもあります。
軽く7000万円〜1億円と言ってましたけど!!!!!?????って驚かれるかもしれませんが、農業関連の国の融資は20年返済と長期なのと、金利が安く押さえられています。でもまあ、そうはいっても20年という長期で返済するわけですから、総返済額(その20年で返す金額の合計)は利子も含めると倍の1億5千万円〜2億円位にはなってしまいます。20〜30代の若者が決断するにはなかなかのギャンブルなんですが・・・(^_^;)
ただ、まあ、ちょっと考えてみてください。日本のサラリーマンの平均的な生涯年収は約2億円と言われています。順調に大学を卒業して22歳〜60歳定年まで、38年間働いて2億円かもう少し。冷静に考えて自分の「領地」をもて、「家」もあり、「職業」もついてきて、生活費とはべつに、20年で2億円返せれば、サラリーマンよりいいじゃん、ということになりませか?とんでもねえリスクはつきまといますが(笑)さああなたもギャンブラーの仲間入り!?(笑)
大学を卒業する段になってなああんにも考えてなかった私は(^_^;)(というかやりたい職業が見つからないでいた・・・・)さしたる就職活動もせず「どっしよーかなー」なんてのんきなことを言っていたので、研究室の教授が見かねて日立のソフトウェア関連会社の就職口を持ってきてくれてたんです。大学の後半に所属した研究室は小野先生の「肉畜増殖学研究室」。そう乳牛ではなく、肉牛関係の研究をするところです(^_^;)。そこではいまでは当たり前となっている「受精卵移植」や「雌雄産み分け技術」などの基礎研究などが行われ、私も顕微鏡の下で卵胞から卵細胞を取り出したりのお手伝いをしていました。ちなみに私の卒論のテーマは「乳牛の繁殖成績に対する疾病の影響」っていうものなんですが、近隣の獣医さんのところを回り、カルテから疾病記録を拾い出し、数万件のデータをコンピュータで計算処理し、この疾病を起こした場合次の繁殖(受胎)にどのような影響があるのかをシミュレーションする、というもので(いま書いてもややこしいなあ・・・)ま、単純に言ってしまえば「これやってみない?」って助教授に言われたまんまやった研究です(^_^;)
あの頃のコンピューターってそりゃあすごくてですね(笑)、今ではスマホでできるようなことが、大きな部屋いっぱい全部機械!っていう大きさのコンピューターで必死こいてやるわけです。しかもソフトウェアなんてありませんから、全部自分でプログラムしなきゃならない・・・。研究に入る前にコンピューター言語をイチから勉強です。ようやっと作ったプログラムを走らせて、データを入力しても計算結果が出るまで2日、とか普通にありましたからね。パソコンの黎明期から見てきた者にとって、この30年ほどは驚異の進歩と言わざるを得ません。
まあそんなこんなでコンピューターと悪戦苦闘しているうちに、「電子計算室」(コンピューターがおかれていた部屋はたしかそんな名前の部屋でした(^_^;))に行くのももどかしくなり、自分であの頃で始めていたホームコンピューター、いわゆる「パソコン」を買い、毎日コンピューターとにらめっこしていたんです。それをみて教授が「こいつはこういう事が好きなのか」と勘違いしたんでしょうね。「こういうところ、取ってきたぞ、行ってみないか?」と日立のソフトウェア会社の就職口を紹介してくれたんです。私はコンピューターはただ卒論の研究のために必死でやっていただけなので、「あ〜〜〜〜いや、いいです」って断っちゃったんですよね・・・・・・・・「お、おま!、日立けるってか!?」ってめちゃ怒られました。(笑)(ちなみにその会社、つい先日M&Aされてしまってなくなりました(^_^;)。そこに行ってたら50代の働き盛りの時にリストラされてたなあ・・・あぶない!!!)
で、2番めに持ってきてくれたのが(小野先生、ホントにすみません・・・・)滋賀県の農協への就職口でした。漠然と「就職するのは食料関係かなあ」と思っていた私はとりあえず面接へ。即採用・・・・・
というわけで、卒業後、私は滋賀県の農協職員となりました。ただ、滋賀県の本部に行ったのは研修のための1週間だけで、あとは北海道の、しかももといた大学の近くにある、農協が保有する和牛の繁殖牧場勤務だったので、そのまま北海道でずっと過ごすことになりました。でも、1年が過ぎようとした頃、このままでいいのかな?という疑問が湧き起こるようになります。ああだこうだと悩み始めた頃、先の「リース牧場制度」というのができたという話が舞い込んできたのです。
「やれない」と思っていたことが「やれるかも」っていうことなので、それなら、そりゃあやりたいよ、って急に独立への道を模索していくことになります。この国の「リース牧場制度」というものがなかったら、今頃は独立など考えず農協の職員をしていたかもしれません。でもね、実はその後、その農協は近隣の大きな農協と合併することになったんです。そしてその後も、農協大合併の音頭に乗って、さらに合併していったという・・・・。わたし、将来の幹部候補として採用されてましたから、そのまま残っていたら確実にリストラにあってましたね・・・?あぶない!!あぶない!!
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