医療人という言葉が嫌い
医療人という言葉が嫌い。
そんなことを言おうものなら、臨床系の先生たちは目を三角にして詰めてきそうなものだが、いったん落ち着いてほしい。
文部科学省の審議会情報「21世紀の命と健康を守る医療人の育成を目指して(21世紀医学・医療懇談会第1次報告)平成8年12月」において、「期待される医療人の育成方策」という項目がある。
一部抜粋すると、次のような内容が含まれている。
患者一人一人に対して全人的な医療が求められているため、医療人には、幅広い教養を持った感性豊かな人間性、人間性への深い洞察力、社会ルールについての理解、論理的思考力、コミュニケーション能力、自己問題提起能力や自己問題解決能力などを持つことが求められている。
医療人を育成するためには、人間的な成熟を促し、幅広い教養を身に付けさせるための教育を行った後に、医療に関する専門的な学習を行うことが望まれる。
もちろんこれらの内容はぐうの音も出ないほどの正論であって、諸手を挙げて賛同するところであるのだが、下級大学において話は変わってくる。
私の経験したカリキュラムにおいて、リベラルアーツは蔑ろにされた。それは人文科学や社会科学、語学といった分野にとどまることなく、薬学部であるにもかからず自然科学もがぞんざいに扱われた。(一部の良心を残した先生方を除き、)シラバス通りに進まない講義、論理性を欠いたいい加減な内容、茶番のような定期試験など、浅薄で退屈なものだった。幅広い教養なくしては、感性豊かな人間性も、人間性への深い洞察力も、社会ルールについての理解も、論理的思考力も、コミュニケーション能力も、自己問題提起能力や自己問題解決能力も育まれるはずがない。人間的な成熟が果たせないのは自明だ。
「こんなことのために大学と名のつくところに進学したわけではない。」
と、チューターの教員に相談したのだが、返ってきた答えは当時の私にとっては意外なものだった。曰く、「医療人」になるのに必要のないことだから敢えてやらないのだそうだ。加えて、そういうことをしたいのならさっさと退学してお望みの学部にでも行けという趣旨のことまで言われた。今になって振り返ると、これはある意味で的を射たアドバイスだったのだが、当時の私にそこまで見通す力はなかった。
学年が上がって薬学専門科目が増えると、教員たちはことあるごとに「医療人」というワードを多用し、崇高なる医療の担い手の貴さを語った。辟易する私と対照的に、盲目的な学生は目を輝かせた。
そうして、「医療人」という言葉は、高い倫理観を持って患者様に寄り添うという部分のみが独り歩きし、その実、物事の根底にあるものを蔑ろにするために都合の良い口実となってしまった。
あるとき唐突に、英語での服薬指導の実習を行うと知らされた。それまで蔑ろにしてきた英語で一体何ができるというのだろうか。別段何の自慢にもならないが、TOEIC公開テストで730点を取得する程度に英語学習をしていた私は、アホらしくなってその実習を欠席することにした。(なにせ、学内のIPテストの平均スコアは300にも満たないのだ。)医療系の学部・学科を経験した人であれば、実習をサボることがどれほどのギルティであるかはなんとなく想像がつくと思うが、後日私は、担当教員からのお呼び出しをくらうこととなった。
「医療人になるんだよね?」
予期せぬ切り口に私は拍子抜けしてしまい、少し間が空いて答えた。
「(あなた方が言うような)イリョージンとやらにはならないです。」