いや、これは決して強者の理論なんかじゃない。虐げられてきた弱者の、それでもなおと戦っている人たちの、希望をこめた言葉だ。

先日、日韓関係についての記事を投稿した。

じつはこの話には続きがある。
ぼくが釜山でイベントをした夜には、韓国で結婚をされた日本人女性も参加していて、ぼくは彼女と二人で日韓関係の話をしていた。
「どんな過去があったにせよ、今の僕たちにできることは、この先にどんな未来を一緒につくっていきたいか、ということではないでしょうか。その未来への目的を共有したうえで、過去に囚われず、過去に学んで、それを未来に活かしていく。それがぼくたちにできることじゃないでしょうか」。
先の記事にも書いたように、ぼくはそんな話をしていた。

だが、彼女に一言こう言われた。
「うーん、でもそれは結局、強者の理論なんじゃないかな。過去に犯した過ちを無かったことにするのは、あまりにも都合の良い話なんじゃない?」

正直、あぁその通りだな、と思った。
日本に住んでいるぼくにとっては、日韓の問題というのは教科書やテレビのなかの、どこか現実とは離れた場所にあって。
だが、韓国人と結婚し韓国で生活している彼女にとって、ひいては韓国の人々にとっては、日韓の問題はより根強く現実のものとして恨みを持って残っているのかもしれない。
ぼくは日韓の歴史について、韓国ではどのように教育されているのか知らない。だから過去でなくて未来を見よう。などと簡単に言えてしまうのかもしれないな、と。

会話はそのあたりで一区切りがつき、その後のぼくは他の参加者と話をしていて、彼女と再び話すことはなかった。
だが、「いや、いやしかし!」と、言葉にできないひっかかりをぼくはどこかに感じていて、それがぼくのなかにずっと残っていた。

…少し、ぼく個人の話をしたい。
これまでの人生、もちろん今も、ぼくは決して強者でも勝者でもなかった。
不幸自慢をするつもりはないが、小中高とイジられ続け、場合によってはイジメられているような立ち位置の子どもだった。
ひどいときには、気になる女子がいて「あの子かわいいよね」とでも言おうものなら、数日後には全クラスにその話が広がっていた。そして、〇〇(ぼくの本名)ノートなるものがぼくの全く知らないところでつくられ、そこにはその女子に向けた気持ち悪い妄想が、ぼくの名前で綴られていたらしい。
結局なにが書いてあったのかは知らずじまいで国語の先生に没収されていたが、あの時のノートの中身を読んだ先生の、ぼくをみる憐憫の目といえばいいだろうか、あの自分に向けられた目は今でも覚えている。そんなこんなで、気になる女子には仲良くなる前から嫌われるというのが常だった。

部活はバスケ部に入っていたが、どうにも上手くならない。
そもそも頑張り方が下手くそだったんだろう、いくら自分で頑張っているつもりでも上手にならない。中学では顧問に「3年続けても試合に出られるようにはならないだろう」といわれ、絶望して辞めた。
高校でもう一度バスケ部に入り直したが、やはりチームのお荷物。
全体練習の時にひとり壁でパス練習をしたり、2人組でやる練習は誰もぼくと組んでくれようとはしなかった。まぁ、下手だから仕方ないんだけどね。
それで結局耐えられなくなって、また途中で辞めた。

うん。つまりぼくは敗者だった。他人との競い合いで考えると、負けてる側で、劣等者で、弱者で。自分の価値を信じられるような成功体験も、ぼくには無かった。
自分の境遇を悲観して、いじけてひねくれて歪んでしまうことはいくらでもできたと思う。
けれど、自分のつらい過去を理由に歪んでしまって、その先の未来までも操られてしまうのは腹立たしくて仕方なくって。この過去に負けてなるものかと、怒りにも似た感情でどうにか自分を奮い立たせていたのを覚えている。

正直、ぼくの経験なんて程度のしれたことだろう。
もっとつらい他人には絶対に話せないような過去をもつ人が、この世にはごまんといるはずだ。そして往往にして、そういった暗い過去はその人をさらに囚えて、暗がりへとひきづり込んでいく。
そうなってしまうと悲惨だ。いま目の前にあることも、そしてこれから起きる未来も、過去を理由に暗いものにしか見えなくなってくる。
ひねくれて、歪んで、他人の善意も素直に受け取れなくなって。良いことがあっても悪いことがあっても、「自分にはこんなつらい過去があったから」と、過去を理由にして結局は自分を卑下してしまうのだ。

"原因論" という考え方がある。置かれている現状の原因は過去にあり、過去が今を決めている。という考え方だ。
だがその考え方では、人はいつまでも過去に囚われてしまう。私はあの過去のせいで歪んでしまった。だから幸せにはなれない。そんなふうに考えてしまって、結果、未来まで奪われてしまう。

…。アホらしくないか。悔しくないか。ぼくは悔しいと思った。どんな辛い過去があったにせよ、それを理由に歪んでしまえば、その先の未来まで、その辛かった過去に奪われてしまう。悔しい。負けたくない。
過去に囚われ、過去の奴隷に成り下がってはいけない。そう、ぼくは強く思った。

だから、いまのぼくは "目的論" という考え方で世間を見るようにしてる。
目的論では過去と今を明確に分けて考えることになる。如何なる過去があったとしても、それは今の自分を構成する理由にはならない。
ではなにが今の自分を構成するのか。それは未来だ、未来への目的だ。
自分が未来に対してなにを願うのか、そして、その未来のために今の自分のあり方を選択することになる。過去は一切の関係がなく、未来への意思こそが重要であり、その意思に従って今の状況は如何様にでも変えられる。そうやって考えるのが "目的論" だ。
"目的論" では、人は過去から解放される。"原因論" で自分を歪める原因であった過去も、見方を変えれば未来のための学びの教材となってくれるはずだ。

これがきっと、韓国での夜にぼくが感じていたひっかかりなんだろうと思う。
弱者であればあるほど、"原因論" で過去を見てばかりいては、過去に囚われて、果ては未来までもが奪われてしまう。
だから、つらい過去をもつ弱者ほど "目的論" で考え、過去でなく未来に目を向けて生きていかなければならない。過去から解放されるために。

過去ではなく、未来に目を向けて生きること。
それは決して強者の理論なんかじゃない。
虐げられてきた弱者たちの、それでもなおと、次へ進もうと戦う人たちの、必死のファイティングポーズなんだ。きっと。

i hope our life is worth living.

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Keiji Matsubara "Restaurant Izanami Tokyo" Chef
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