虐待を受けてる子の味方にはなりたいけど虐待をうけてる場面を想像したくはない
(後編)
『母という呪縛 娘という牢獄』を読んで。
この本で一番救いようがなくて辛かった部分は、あかりが大学1.2年の頃、「母が喜んでくれるのが嬉しくて撮った、2人の笑顔の写真が・・・」だ。読んだとき、強く目を瞑ると後頭部からおでこにかけて血が逆流するような苦しさが巡った。自分の所有物のように扱われ、思い出しくもないだろうことをされてもなお、お母さんが喜んでくれるのが嬉しいのが何よりも救いがないというか残酷だった。
この事件は、殺人だからこんなにも取り沙汰されて話題になってるけど、自殺だったら多分だけどこんなに話題にならないしこういう子今までにいたと思う。それが一番怖い
妙子はもしかしたら叱責や罵倒でしか相手を繋ぎ止められないと思っていたのかもしれない。(あかりに、アメばあに)放置されることからの恐怖からここまで酷いことをずっと続けていたのかもしれない、
少なくとも(医学部に行くこと、助産師になって欲しいと思うことは)本当の本心ではない(と私が思いたいだけかもしれない)。
妙子の一歩か二歩手前はきっと今もたくさんいる。親が子供を「じゃあ完全放任します」っていうのもやっぱり難しいんだとは思うけど、子供のこうしたいと親のこうして欲しいを一旦ちゃんと対等に協議にかけないと。
まだ子供しか経験してないから言えるだけなのかな。
前youtubeで見た「子供が欲しいものがあったらプレゼンして家族を説得してみて」ってやつ。まじで親になったらやろ。
お母さん(妙子)は「おばあちゃん(アメばあ)に申し開きができない」、だから医学部医学科...と考えていたけどそれは、自分がそういう風に(高い教育費を払ったのに「受かりませんでした」、と)言われたら「はあ?」って思うから、他の人(妙子の場合アメばあ)もきっと、間違いなく「はあ?」って思うって思って嘘をつき続けた。自分はこう思うけど他人はそう思わないかもしれないっていう発想が大事なのかもしれない。
「他人を下に見る、卑下することができるのはそういう価値観を持ってるから、逆に持ってないとできない。そして持ってる人は必ず自分に対してもその価値観が向く、だから他人を卑下することイコール自分を卑下することでもあるのかも知れない」
これは私が『グロテスク』を読んだときに考えたことだが、まさにこれは妙子、ひいては私含め人類全員に当てはまることだとも思う。