体育の悪口
今は体育の悪口を言うと人気者になれるらしいので、体育の悪口を言おうと思う。
平均的なTwitter民と同じく運動神経の接続が絶望的である私にとって、当然ながら体育は天敵であった。体力も筋力も晴天下のゾンビとタメを張れる程度の我々に、義務教育は何を求めているのだろう。
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我が小学校には、器械体操発表会なる行事があった。父兄観覧の下で、器械体操を一人ひとり披露するというもので、これは現代まで残った中世の処刑の一種である。
毎年冬に我々は、鉄棒、跳び箱、マット運動のうちいずれか一つを選び、その分野の練習をさせられた。二年連続同じ分野を選ぶことはできない。継続による進歩を巧妙に防ぎ、自信の喪失に繋げるための采配であった。
練習の成果は、発表会当日のパフォーマンスに結実する。パフォーマンスの内容は生徒に委ねられていて、上級者は目を見張るような超絶技巧をお披露目し、我々ヌーブは死体遺棄現場とでも言うべき醜態を晒すのである。
一年生の頃は、マット運動を選んだはずだ。当時、運動神経の悪さと引き換えに関節が異常に柔らかかった私には、これしか無いものと思われた。(あの軟体ぶりがなければ、五体が離散して死んでいたであろう場面が体育にはいくらでもあった。)
前述の通り、パフォーマンスの内容は各々でカスタム可能である。私は「前転」「V字バランス」「開脚前転」あたりを無難にこなした。地面から片時も離れない姿勢から、『天空の城ラピュタ』と全く同じ教訓を得られる演目と言えよう。
ちなみに、後転はできなかった。どうしても、「セルフ被ジャーマン」とでも言うような体勢で静止するのである。
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翌年は、確か鉄棒を選んだ。鉄棒とは、冷たさ、摩擦の痛み、錆臭さを皮膚に付与するための道具で、江戸時代の拷問器具が手違いで教育現場に導入されたまま定着してしまったものである。
私は、逆上がりの実在を未だに信じていない。かのニュートンもアインシュタインも、逆上がりに係る力学を解明していない。あれには何かトリックがあるはずで、逆上がりができると嘯く連中は一人残らずペテン師だ。
「逆上がり器」などと呼ばれる器具があったが、何の効果もなかった。二、三歩駆ける歩数を増やす程度で、その道のプロフェッショナルみたいな名前をしないで欲しい。お前の名前は「カラフル急斜面」でよい。
担任には「身体を鉄棒に引き寄せるイメージで」などとアドバイスされるが、私のことを愛して止まない重力が私を引き寄せる力の方が遥かに強大で、ついぞ叶わなかった。
その年の私の演目は、確か「ツバメ」「前回り下り」「豚の丸焼き」であった。まるで輪廻のようである。畜生から畜生への転生、然るのちの死。重力に愛されやすい体型だった私を「リアル豚の丸焼き」などと揶揄った同級生は、ヴィーガンに食い殺されればいい。
いつだったか、中高学年の頃に、私は「こうもり」を体得した。「ツバメ」も「前回り」も演技というよりは腹部への拷問であったし、「豚の丸焼き」は悪ふざけ以外の何物でもないため、ここにきてようやく私は鉄棒技らしい鉄棒技ができるようになったのである。
馬鹿の一つ覚えとはあのことだろう。その年の私は「こうもり」とその体勢のままスイングする運動ばかりやっていた。ちなみに、「こうもり振り下り」はできなかった。怖いから。
逆さ吊りになってぶらぶらするだけの動きに、何の意味があるのかと問われると分からない。しかしその頃の私は、天敵たる鉄棒が初めて私に居場所を与えてくれたようで、どうしようもなく嬉しかったのである。
したり顔の「こうもり」を繰り返すうち、調子に乗ってホームではない公園の鉄棒でも「こうもり」をするようになった。
何事も調子に乗ってはならないということは、古今東西に普遍的な教訓である。誤って顔面から着地してしまった私は、初めて買った眼鏡に傷を創り、鼻の下にちょび髭のような擦り傷を創り、思春期の自尊心にも致命的な傷を創った。しばらくぶりの重力からのラブコールは、とても痛かった。
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私の器械体操史上、最後にして最大のトラウマは、六年生の頃の跳び箱であった。
私はそれまで、徹底して跳び箱を避けてきた。重力に愛されていたからである。しかし、鉄棒には痛い目に遭わされたし、一年時から大して成長していない超安定志向マットではいい加減決まりが悪い。
この頃になると、鉄棒とマットの上級者はいよいよ技巧を凝らすようになり、鉄棒演技者へはタービンのヘッジファンドに電力会社の関係者が訪れ、マット演技者へは統一場理論の完成を志す物理学者が取材していた。
しかし、跳び箱には上限があった。上級者向けに十段越えの跳び箱もあったが、通常は八段跳べれば免許皆伝である。上級者と我々の間で文字通り雲泥の差が生まれる鉄棒・マットに比べ、跳び箱は比較的穏当にしか巧拙が現れないのであった。
また、跳び箱に必要とされる技能は、そう高度なものではない。跳ぶための勢いは助走で得られるし、ジャンプ力は自前のものというより、むしろロイター板によるものである。要するに、鉄棒・マットに比べて、要求される自力が遥かに軽微なのだ。
そういう訳で、最後の器械体操発表会の演目に跳び箱を選んだ私であったが、練習開始時点での実力は「三段に馬乗り」が関の山であった。上級者と比べて普通に巧拙が現れている。
しかしこれには理由があった。前述の通り、跳び箱にとって筋力は大した問題ではない。私は、着地が怖くて跳べなかったのである。
着地に失敗して、尻餅をついたり、腕を折ったり、頭を跳び箱の縁にぶつけたりしたらどうしよう、という恐怖が、私にブレーキをかけさせたのだった。
着地点に申し訳程度においてあるマットには、まるで安心感を抱けない。その固さをセルフ被ジャーマンする頭で知っているから。着地に対する恐怖が問題であったので、柔らかい素材でできた跳び箱では、何の効果も上がらなかった。
ヌーブ向けエリアで三段~五段の跳び箱相手に悪戦苦闘しながら、数少ない同志達とどうすれば良いか話し合った。我々の演目は跳び箱ではない。「ジャンピング馬乗り」である。
試行錯誤するうち、鉄棒エリアで使われている、極厚ふわふわのマットに目が行った。高所からの落下による怪我を防ぐための、棒高跳びなどにも用いられるあのふわふわである。
私は担任に頼んで、鉄棒の一ヵ所からそのふわふわマットを借り、跳び箱の着地点に置いてみた。これで、着地の恐怖を軽減できるのではないかと考えたのである。
果たして、ふわふわマットの効果は絶大であった。「どれだけ勢い良く跳んでも、着地失敗で五体が爆散することはない」という安心感から、私は五段の跳び箱を軽々飛び越えられるようになった。
ふわふわマットの庇護下に、私の跳び箱は六段、七段と次々に高度を上げていき、ついに私は八段を悠々跳べるようになってしまった。
その感覚を握ったまま、気がつけばふわふわマットなしでも八段を跳べるようになった私は、このとき初めて、体育が好きな連中の気持ちを理解した。「できない劣等感」「理不尽な罵倒」「苦痛」ではなく、「できた達成感」「手放しの称賛」「快感」を味わいながら、彼らは体育をしていたのか、と。私達は同じ人間でありながら、こんなにも違う景色を見ていたのか、と。
体育が与える成功体験というものには、凄まじいものがあると思う。それはまるで劇薬のようだった。こんなものを常時摂取している体育会系やその極北である体育教師達が、加害性ブリブリのキマッた目をしているのも当然である。
私は中級~上級のエリアに移った。かつての同志達(ふわふわマットの導入でも状況は改善されなかった)は四段・五段を跳ぶのに燻っていたが、私はそれを今や高みの見物といった思いで見つめた。
要するに私は、調子に乗ってしまった。何事も調子に乗ってはならないということは、古今東西に普遍的な教訓である。
器械体操発表会を明日に控えた前日、私は突然、八段を跳べなくなった。昨日まで九段を跳べていて、「安定をとって本番は八段」などと嘯いていた私が、その八段を跳べなくなったのである。
あれはイップスだったのかもしれないし、ふわふわマットで手にした安心感が切れたのかもしれない。今となっては分からない。
しかし、八段が跳べなかったことをきっかけに、七段、六段、五段と、私は跳べなくなっていったのだった。跳べなければ跳べないほど、跳べなくなった。面白いくらいの転落劇である。
ふわふわマットの再導入を図ったが、その日は本番前日である。担任は許してくれず、跳べないなりに肚を決めた同志達は本番と同じコンディション(四・五段)の練習を望んでいた。
私は本番を八段で申請していた。このままだと、私は明日、イキッた挙げ句に八段の跳び箱にジャンピング馬乗りする痴態を演じてしまう。それだけは、何としても避けたかった。
ふわふわマットでの成功体験から、私は「こんなものはただの心理的な問題に過ぎない」と自分に言い聞かせるようになった。今となっては、ふわふわマットのことは「心理的な問題はこれほど大きく作用する」という逆説であったと分かるが、とにかく当時の私は焦っていた。
「一度は跳べた高さだ。こんなものは心理的な問題に過ぎない。ふわふわマットがなくても大丈夫」
私は、そう自分に言い聞かせながら八段の跳び箱に向かって走った。繰り返して言い聞かせる言葉は、私の足からブレーキと共に慎重さを奪った。自暴自棄な跳躍が、ロイター板を蹴る。力任せの腕がざらついた布地を撫で、私の身体はやけっぱちに放り出された。
劇薬はとっくに切れていた。
景色がスローモーションになったりはしなかったが、あの瞬間の「やっちまった」という絶望感は深く深く脳髄に刻まれている。
私は左腕から固いマットに着地した。しばらくぶりの重力からのラブコールは、本当に、とてもとても痛かった。
こうして私は保健室で応急処置を受け、熱を持った左腕を三角巾で吊るして母の迎えを待った。保険の先生は「まぁ大丈夫でしょ」という態度だった。
明日、八段跳べる勇姿を見せるはずだった私は、母の前に無様を晒した。
病院でレントゲンを撮って貰ったら、がっつり折れていた。人の骨ってくの字に曲がるんだ、と思った。
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思い返すにつれて、体育にはろくな思い出がない。この手の話を放流すれば、皆の共感と同情と嘲笑を買えると信ずる。