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Revenant Doll 第5話

第1部

5 飛び降り自殺、失踪、荒ぶる重機様、その他いろいろ


「あら。早かったのね」
 
 水際佳恵の風貌は一変していた。

 長かった髪を短めのミディアムボブにまでバッサリ落とし、漆黒のカーテンのように均等に切り揃えたその先端は、不注意に触れば出血するかと思えるほどに鋭い。そして無表情にこちらを見返す眼光が尋常でなくきつい。全体的に、学校当局者に喜ばれる模範生特有の野暮ったさは微塵も認められず、近寄りがたいエッジを感じさせる。すっかり気圧された俺は、彼女から「タメぐち」を許されていたことも失念していた。
 
「学校を出たばかりでしたから。それより」
 
 水際が窓際から離れ、棒立ちしている俺の体のすぐ横──ほとんど触れそうで触れないぎりぎりの間隔──を通って入口のところまで行き、ガチャリと音をさせて施錠する。そこから窓辺に戻ると、今度はカーテンを引き始めた。俺は額に汗が浮くのを感じた。
 
「ここ数日休んでたって聞きました。どこか具合でも」
「ああ、そのこと。別にどこも悪くはないの」
「ならよかった」
「心配だった? ちょっと用事があって出掛けてたりしたもんだから。掛けて」
 
 女王様の指示に従い、会議用テーブル前のいつものパイプ椅子に座った。窓のカーテンを閉ざし終えた生徒会長が冷蔵庫を開けて何かをしている間、俺の目は自然に、自分の位置から左手にある小ステージの方へ向く。いつもならステージ右奥のスタンドに立ててある生徒会旗が目に入るのだが、なぜかこの日は紫色の分厚い緞帳が降ろされていた。
 その奥行き五メートルほどの舞台上で、俺と水際がおよそ考え付く限りの「あれやこれや」を演じたのはほんの六日前のことだ。緞帳の濃い紫色は、俺たちが繰り広げた神話的痴態の名残をその内側に永遠にとどめ置こうとするかのような、一種の厳粛さを漂わせていた。
 
 水際が麦茶のグラスを二つ載せたトレーを手に戻ってきて、俺の前にその一つを置く。ぎこちなく頭を下げた俺の正面に彼女は座った。
 
「冷房入れる?」
「いえ、結構です」
「まあ暑いけど我慢して」
 
 以前なら「髪切ったんですか」と躊躇なく聞けただろうに、今はとてもじゃないが口に出せない。前日に俺が電話を入れたことを、彼女は着信履歴で当然承知しているはずだ。とはいえ、折り返しの連絡を寄越さなかった理由を詰問しようとはさすがに思わなかった。それはあまりにも間抜け過ぎる。

 校庭では運動部の練習が始まっており、硬球を打つ金属バットの響きやホイッスル、部員の掛け声といった夕暮れ時の喧噪がこの部屋にも届いていた。
 
「早速なんだけど……本題に入っていい?」
「どうぞ」
「あなたにひと働きしてもらいたいの。久し振りにちょっとヘヴィーな案件なのよね」
「ヘヴィー……ですか」
「気が進まない?」
 
 なんてこった。
 この一週間、散々気を揉んだ自分の間抜けさ加減を呪いたくもなる。あるいはこれこそが「めんどくさい女」の真骨頂なわけか。
 「めんどくさい」を全然違う意味に解釈していたところは、DT童貞卒業で心ここにあらずな少年の面目躍如とでもいうべきなのか。どっちにしろ、数日にわたる煩悶から解放された安堵も手伝ってか「これも貴重な経験値」と前向きにとらえることはできた。軽口を叩く余裕も生まれた。
 
ヘヴィーってひと口にいってもピンキリですからね。陰陽師が使役するような小ぶりなやつから、何メートルもの大蛇まで。俺としてはウナギくらいがサイズ的にもありがたみの点でも期待感がありますが」
「ウナギはあり得ないよ」
 
 中年女のような苦笑とともに右手を振り、生徒会長は麦茶のグラスを口へ運ぶ。
 
「ウナギだったら君を呼んだりしないよ。私がいただく」
「じゃあ、大蛇なんですね?」
「まあそうだね」
 
 拍子抜けするほどあっさりと生徒会長は認め、隣の椅子に置いてあったアルミのアタッシュケース(俺の親父も愛用するゼロハリバートンだった。そんなものを普段持ち歩くJKがこの国にもう一人存在するならお目に掛かりたいくらいだ)をテーブルに引っ張り上げた。ロックを解除して蓋を開け、中から通販カタログほどの厚みがあるペーパーを挟んだクリアファイルを取り出し、俺の方へ滑らせた。
 
 書類一枚目に角ゴシック横書きで「ヒカリヶ丘市立嬉野小学校改築基本構想・基本計画」と表題がついていた。
 この表紙を含め、A4判のOA用紙が二十枚ほどクリップで綴じてある。ざっとめくってみると、箇条書きの多い文章の中に平面図や航空写真、罫線で囲った表などが配置されている。エンタメ性とは無縁の代物だった。普通の高校生が読んで内容がすんなり頭に入るとも思えない。
 ただ、「ヒカリヶ丘」という市名には覚えがあった。何年か前、市町村合併後にカタカナ名を採用した斬新さがTVニュースで取り上げられ、北関東のどこかにそういう市があった程度のことは記憶していた。
 
「『嬉しい』に野原の『野』。何て読むんですか」
「そのまま『うれしの』だって」
いわれは、昔何か嬉しいことがあった野原ってことですかね」
「さあね。とにかく、私の話を聞いた方が早いっちゃ早いよ。資料は他にもあるけど後で目を通しておいて」
 
 生徒会長の説明はざっと三十分続いた。
 俺は特段口を挟まず、渡された資料の該当箇所に必要に応じてメモ書きを入れていった。要するに、老朽化した小学校校舎を全面改築するに当たって着工後に「異変」が頻発し、現在は工事がストップしているというのが大まかな内容だった。
 異変は、旧校舎解体を担当する共同企業体(JV)の現場代理人が飛び降り自殺するという形で始まった。そこから身を躍らせたとみられる都内のマンション最上階に本人のブリーフケースが残され、『今までの人生が大きな過ちであったことを知りました。これ以上罪を重ねるのに耐えられません』とノートの切れ端にサインペンで書かれた遺書が見つかった。
 彼は国立大学の理工学部大学院を修了して入社五年目で、結婚を前提に交際中の恋人もいた。勤務状況は良好で悩みごとがある様子も窺えず、家族や友人、同僚たちの話は「自死するような理由は全く思い当たらない」という点で一致していた。
 
 その二週間後には、新校舎を設計した事務所の代表者が失踪した。それでも解体工事は始まったが、養生ようじょう足場が崩落したり、火の気のない場所で出火したりといった事故が頻発。原因不明の体調不良に悩まされる作業員が増え、現場の人員確保にも支障が出始める。そして現場に導入されたばかりの解体用重機が無人のまま突然クレーンを振り回し、接触した作業員二人が重傷を負ったところで、工事は中断した。
 現段階で解体作業はほとんど着手できておらず、既にJVが市に受注の返上を打診しているとも噂されている。
 
「在校生はどうしてるんですか?」
「市の中心部にある中学校の校庭に仮設校舎を作って、そこに入ってる」
「仮設校舎を建てた際は何も起きなかったと」
「そう。問題は旧校舎の解体ってわけよ」
「で、この話はどこが俺を名指しして来たんです」
「理事会だけど?」
「そりゃ理事会でしょうよ」
 
 さすがにイラっときた。こんな誤魔化しが通じると思い込ませるのは、彼女の後々のためにも良くないだろう。
 
「北関東の小学校で起きた問題が、神奈川県の私立学校理事会に持ち込まれる必然性って何なんですか?」
「やっぱり気になる?」
 
 軽く肩を揺すりながら眼だけ笑っていないその顔を見て、ようやく閃いた。もしやこれは、噂に聞く「子供じゃないんだし、何をすればいいかぐらい分かるでしょ?」のサインなのでは?
 つまりこの女は、互いが共有する秘密を拠りどころにして、俺がどこまで無理を受け入れるか探りを入れているのでは? さらにゾっとさせられるのは、彼女が、生徒会長でもある自分のリスクを承知の上で俺に話を持ち掛けている可能性だ。もしそうだとすると、それだけの理由が存在することになる。
 「めんどくさい」以前に「胡散臭い」女であることを、目の前で見せつけられるのは決していい気分ではないし、俺としては座光寺の看板もろとも火ダルマになるわけにはいかない。こういう場面では気後れした方が負けだ。
 
「気になるに決まってるでしょ!」
「ごめん怒った?」
「分かりやすく話してくれればいいだけですよ」
「失礼しました。えーと、つまり、まず**県教育委員会から理事長に『お宅に座光寺の跡取りがいるそうだけど』って話があって、それじゃあ本人に打診してみます、という流れになったの」
「ちょっと安請け合い過ぎませんか。よその県の小学校の話だってのに」
「それは、実際には神奈川の教育局が間に入ったからよ。そうなると断りにくくなるでしょ?」
 
 得心がいかない。先方の県教委は、どうやって秘密のベールに覆われた座光寺家の存在を知ったのだろう。実際は本格的な依頼をする前に、県レベルより上のどこかが理事長に根回しをしたのではないだろうか。もっとも、生徒会長が内実を知っていようといまいとどうでもいいことではあった。
 
「根本的なことなんですけど、そもそもこれって俺の出る幕なんですか?」
「どういう意味?」
「だって、どこに悪霊がいるんです? 誰か見た人がいるんですか? 事故が起きたり人が自殺したりって話は俺らが扱う事案と違うでしょ。誰かが工事を邪魔してるって思うなら警察に相談するのが先じゃないですか?」
「いやあ、そうかしらね」
「そうですよ! ほとんど十中八九、自殺や事故には現実的な理由があるでしょう? 仮に俺が出張って行っても『また変なのが出てきた』とか騒がれるのがオチじゃないですかね? こっちの身にも……っていうか、そうなったら取り返しがつかないですよ」
「分かったわよ」
 
 生徒会長の片頬がピクリと動き、不快そうな表情になったのを見て、こちらも無闇に勢いに任せたことを反省した。彼女なりに苦しい立場なのは確かなようだ。
 
「失礼しました。つい興奮してしまって」
「いいの。本当は私も、あなたに相談するのは時期尚早だと思ったのよ」
「そうかもですね。それに実際どうなんです……」
 
 その先は言い淀んだ。現時点で俺が尋ねるのは不用心に思えたからだが、「早く言え」と促す水際の尋常でない目力めぢからに負けた。
 
「……どうなんでしょうかね、この学校改築は。関係者の全員に歓迎されてることなんですか」
 
 水際の視線はいったんテーブルに落ちてから、何か決意したように再び俺に向けられた。俺は目の前のグラスを手にし、すっかりぬるくなった麦茶を一口飲んで、彼女の言葉を待った。
 
「実はこの嬉野小学校、もともとは児童数減少で廃校が取り沙汰されてたのよ」
「はあー?」
「学校としてどの方向に進むかの道は三つあって、近くの小学校と統廃合するか、『長寿命化』っていって今の老朽校舎を補修しながら使っていくか──現実的にはこの二つがメイン。全面改築で校舎一新っていうのは、コスト面のハードルが高すぎて一番望み薄な選択肢だったのよね」
「それが急転直下、新校舎建設に決まったと」
「そう。学校の歴史は百何十年にもなるし、災害時の避難場所とかも含めて、地域の柱になる施設だから残してっていう地元の声は強かったんだけど、国は採算に合わない学校はどんどん潰したいから、統廃合一択で攻めてくるわけ。『長寿命化でも施設維持コストが何倍にもなる』とか言ってね」
 
 とにかく国庫負担は一円でも減らす。それが国としては至上命題だという話は分かる。
 
「で、結論が出ず延び延びになっているうちに市町村合併があって、新校舎建設を公約にしてた人が市長に当選して……」
「なら、地元には悪い話じゃなかったでしょ」
「ところがそう簡単でもないの」
 
 現在三十五歳のその市長は、地元政界が必死で候補者探しをした結果の典型的な金看板キャラらしかった。
 米国の名門大を卒業してMBAを取得、外資の金融機関勤務というまばゆい経歴ながら、地元とは縁もゆかりもない九州出身で、小学校の改築などにはもともと何の興味もない。周囲の甘言に乗せられて中央政界入りを目指す彼には、人口六万人足らずの市長など腰掛け程度でしかなく、早ければ一期目途中での国政転身もあり得る──それが地元ではもっぱらの噂なのだそうだ。
 
「当選すれば公約なんて空証文っていう、いつものパターンですね」
「うん。だけど『廃校だけはあり得ない』っていうのが、県と市の──特に県がそうなんだけど──譲れない主張なの。県内の他の地域でも似たような事情を抱えてるところがいくらでもあるから、一カ所で前例を作られたらドミノ倒し的に国に押し込まれかねない。それで『嬉野は絶対死守』が合言葉になってるとか」
「何ですかそれ」
 
 児童そっちのけで戦国時代さながらの「城=学校」の攻防戦を繰り広げているわけだが、「大きな子供たち」にしてみれば血がたぎるのだろう。高校生にはうかがい知れぬ領域とはいえ、これも彼らにすれば、自分の存在理由に疑念が生じるのを防ぐための一つの方法なのかもしれない。
 
「何なんだろうね。とにかく県や市は工事中断を受けて、現時点で築五十数年になる校舎を補修しながらあと三十年くらい使っていく延命措置、つまり長寿命化への方針転換を考え始めたわけ。『統廃合=嬉野落城』よりはマシでしょ? 落下傘市長の支持者も『いろいろあったし仕方ない』って納得するし。今のところはそういう流れ」
「つまりは『長寿命化』に落ち着く方向で固まりつつあると」
「そう考えてもらっていい」
「じゃあ、もう終わった話じゃないですか?」
「終わりならいいんだけどね。でも改築するしないに関係なく、在校生はいずれ仮設校舎を出なきゃなんないのよ?」
「なるほど」
 
 現校舎に「よくないモノ」が憑いているとの噂は広まってしまったに違いない。暫定的な補修を施しただけのその校舎へ、子供たちを戻してもいいのか。保護者はそれを素直に受け入れるのか。
 話を聞く限り、政治的思惑が裏にあることを、霊障とか祟りで躍起になって擬装しようとしている疑いは拭えない。俺などが下手に首を突っ込むのはどう考えても悪手だが、気の毒なのは児童たちだ。
 
「百歩譲って、霊障が起きているとしましょう。さっき『時期尚早』っておっしゃいましたけど、俺より適任な人に頼むというのはどうです。順序から言ったら、慰霊なり除霊が先でしょう」
「それはもうやってる。騒ぎが大きくなってから名の知れた祈祷師さんを呼んで、護摩法会っていうの? 二日間通しでやってもらったけど全然効き目なし」
「何度でもやればいいじゃないですか」
 
 ここはとことん粘らなければいけない。「筋が悪い」案件と分かれば親父なら間違いなくそうするはずだ。
 
「一度で収まってくれるなんて考えが甘いですよ。おおかたみみっちい費用計算でもしてたんでしょう」
「どうしてもあなたじゃだめ?」
 
 眉間に皺を寄せる生徒会長の顔を見ていると、不吉な疑いが抗いようもなく頭をもたげる。やはり小学校改築をめぐる異変は口実に過ぎず、俺をその現場に引っ張り出すことが本当の目的じゃないのだろうか?
 
「あのですね、座光寺の仕事ってただごとじゃないんですよ。霊を慰めるとか、しかるべき場所へお帰り願うんじゃなくて、力ずくで滅する、つまり霊としての存在自体を消してしまうんですから。『殺し屋』なんて言われたりもします。軽く考えないでほしいですね」
「二月の女子トイレの件は二つ返事で引き受けてくれたじゃない?」
「あの時からは考えが変わりました。それに──」

 二月の女子トイレの件──四十五年前に自殺した「松田美根子」の出没──は事情が違う。彼女は、末期癌に冒されたかつての恋人が、死後に自分のもとを訪れることをひどく恐れていた。俺はあの時、美根子から「自分を滅ぼしてくれ」と懇願され、それに応じた点では力ずくでの滅霊ではなかった。
 今から思えば深い考えもなく嘱託殺人めいたことを実行したわけだが、俺が座光寺家の当主となれば、持ち込まれる依頼はとてもこんなものでは済まない。現当主である親父自身が「殺し屋」と認めている家業なのだから。
 
「それに?」
「いえ、何でも」
 
 女子トイレだから引き受けたわけじゃありませんので──。口から出かかったそんな戯れ言を、何とか俺は封印した。少しの間を置いて、水際が「確かにあなたの言う通りね」と、くうを見つめながら低く言った。
 
「どっちにしても、今日は即答できません。持ち帰って父と相談します」
「え、私たち二人だけの話にするんじゃないの?」
「そりゃダメですよ!」
 
 油断も隙もあったものではない。視線を宙にさまよわせる生徒会長が、「そうね、そうだよね」と呟きながら小刻みに頷くその様子は、見ていてなかなかに辛いものがあった。
 
「そうしてちょうだい」
 
 時間は十分あるから──。しばらくして水際はそう付け加えた。
 俺を見つめる彼女の目が、赤く充血している。髪の生え際に汗が光っているのをハンカチで拭った時、目元も押さえたように見えて、少なからず心が痛んだ。こんな気分になると、交渉ごととして譲ってはいけない主張の一つ一つもただの片意地のように思えてくるからやりきれない。
 
「ごめんね急な話で。長い時間付き合ってくれてありがとう」
「じゃあ、今日はこれで終わりですか?」
「そうね。もう話すことはないわ」
 
 本当はまだ話すべきことがあるのでは? ……それは聞くだけ野暮というものだろう。水際が立ち上がったので、俺も腰を浮かしかけた。
 
「トイレ行っといで。戻ったら入口に鍵掛けて」
 
 俺は弾かれたように身を翻した。
 
 命じられた通りに用を足し、生徒会室の前に戻った。入口の中は灯りが消えているらしく、曇りガラスの奥が暗い。まさか帰ったわけはあるまい──。ざわつく気持ちを落ち着かせながら、戸口に手を掛けて引いた。
 
 闇の奥で、水際が立ってスマートフォンをいじっていた。
 画面の光に照らされた、うつむき加減の顔が不気味な陰影を刻んでいる。俺が後ろ手に施錠するのと同時に、その顔が持ち上げられ、スマホの画面が暗くなった。
 
「……あんた、トイレはいいの?」
 
 暗がりの中でようやく表情の見分けられる水際の顔が、俺に視線を据えたまま、ゆっくりと左右に動く。その目はどこから「光」を集めているのか、かすかな蛍火のように潤んで見える。右腕を肩の高さまで上げ、手のひらを下に向けて手招きしてから、こちらに背中を向けた。俺はその場に立ち尽くした。
 
「足元、気を付けて」
 
 ステージ上に通じる袖の入口前で、「早くおいで」と促すように彼女が振り向き、俺は抗いきれずに足を踏み出した。操られるままにテーブルを回り、汗の匂う背中の後ろに立つ。膝の高さまで下ろされている黒い帳を抜け、舞台への短い階段を上がる。俺と並んでステージの端に立った水際が、そこにあるものを指差した。
 
 緞帳に閉ざされた舞台上はひときわ濃厚な闇の中にあったが、「それ」の輪郭はどうにか見分けられた。水際が俺の腕を取り、ステージ中央に鎮座するその豪奢な天蓋付きの寝台へ、ゆっくりと足を踏み出す。

 校庭の喧噪は既に途絶えていた。あらゆる物音が消え失せたかのようだった。

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