Revenant Doll 第10話
第2部
3 侵入者
校舎内に侵入する前、改めてその全体像を見渡した。
逆L字型をした三階建て本校舎が直角に曲がったその先には、校庭にせり出すように厚みのある四階建て棟が接合している。ひときわ存在感のあるこの部分は、本校舎完成から二十数年後に増設されたもので、防音パネルに覆われて闇に浮かび上がるその形は巨大な墓石を思わせる。この四階建て棟に理科室や音楽室といった各種特別教室が入っていることは、生徒会長から渡された資料で確認済みだった。
まずは、児童が日常を過ごす三階建て校舎から調べるのが定石だろう。「そろそろ行きますか」とエドを促し、体育館に繋がる渡り廊下を抜けた先の校舎入口から侵入した。
入ったすぐの場所に「エンカレッジルーム」(特別支援教室)があり、そこから廊下に沿って一年生の教室が並んでいる。三つの教室のうち、一番奥の一室が「多目的室」になっているのは、もともと三つあったクラスが児童数減少によって二つに減ったためだろう。その先の階段の向かい側にトイレと手洗い場があった。
学校を代表する心霊スポットといえばまずトイレである。俺はエドを外に待たせて、男子用から女子用の順でチェックした。
女子トイレへの耐性は五カ月前に確立済みだ。個室の一つ一つまで入念に調べたが、何一つ異常は感じられない。長らく使われていないせいか、人の気配はすっかり消えていた。外に出ると、エドが手洗い場の前に「伏せ」の姿勢で待っていた。
「随分と念入りにお調べでしたな」
「そうでしたか? さすがに全部洋式便器に切り替わってましたが」
「それが何か?」
「いえ。別に意味はありませんよ」
「トイレは他にもございます。物ごとは初めに力を入れ過ぎると後の方がおろそかになりがちですからな」
階段の隣には生徒たちが出入りする正面玄関と、各種記念品や卒業生作品が展示されているホールが向かい合っている。さらにその奥は保健室、職員室へと続く。
ホールの奥に胸像が一つ、闇に溶け入るように佇んでいた。瘦せ型で丸い眼鏡を掛け、口髭を生やした紳士は、胸部をやや斜めにしながら顔を正面に向けていて、どことなく確固たる信念のようなものを感じさせる。台座に貼られたプレートには「第七代校長 中尾喜一先生」と記され、その下に諸々の事績が細かい字でびっしりと書き連ねてあるが、今は確認する気になれない。保健室と職員室は後回しにして、俺たちは階段を上がった。
学校の種別を問わず、この国では学年が上がるにつれてクラス別教室は上の階へ移っていく。児童らが残した気配の肌触りも、階を上がるにつれて違うものになった。この違いは、様々な意味で六年間の成長の軌跡と言っていいだろう。
三年生のフロアを探索後、屋上まで上がってみて、消火用水槽や屋上緑化周辺を回った後、六年生の教室に足を向けた。ここまで霊の痕跡も感じられなかった。
ひと気が絶えた夜間の校舎だけに薄気味悪さは申し分ないのだが、そういう誰もが感じる「雰囲気」と、特殊な能力者だけが感知できる霊の兆候は全く違う。それが皆無なのであれば、水際のレクチャーを受けた時から感じていた疑念にどうしても立ち返らざるを得ない。すなわち「霊障に擬装した政治的思惑による茶番」。俺たちはまんまとそれに利用されているのではないか。
「どう考えても筋が悪いですよね」
エドは六年三組の横でいったん立ち止まってから、すぐに歩き始めた。この教室にも問題なし。
「霊障を確認済みかどうかは『特に関係ない』って親父は言ってたけど、実際どうなんです?」
「それはまあ、大人の事情というやつです。当家を招くこと自体が目的になってるようなクライアントもおりまして」
「ええ? 初めから『お客』(滅霊のターゲットを指す座光寺家の符丁)なんかいなくてもですか?」
驚くべきことを聞かされたわけだが、エドの口調は至極淡々としていた。
「はい。そのような場合でも型通りの手順を踏んで儀式を行います。成果に関係なく、当家の提示額を一括払いしていただく約束ですので、無下に断るわけにもゆかぬのです。実際その手の依頼が入った際、支払いをめぐって揉めたことは私の知る限り一度もございません」
「なるほど」
つまり万事は金払いが基準なわけだ。そして現金一括払いのできるような「太客」となれば、大体は絞られてくる。
「実を申しますと、『お客』に何の科もないような場合が一番始末が悪うございまして……。ところで、本日の請求書はどちらに回されますか」
たった今、とんでもない何かが耳を通り抜けていった。「何の科もないような場合」? 何だそりゃ。
エドにしては珍しく口を滑らせたのか、あるいはそろそろ次期当主に申し送りのタイミングと判断したのか。俺はすっかり上の空で、エドに聞かれたことも満足に理解していなかった。
「請求書? それは、二日分の標準的な時給に交通費や諸雑費を加えて提出しようかなと」
「ですから、どちらへ?」
「生徒会長に」
「承知いたしました。くれぐれも『友情』で払うなどと言われて誤魔化されませんように」
「それはあり得ません。あくまでビジネスライクに」
三階の曲がり角にある教材格納室に入った。古いプリントや実技用の物品をぎっしり詰め込んだスチール製の棚がところ狭しと並べられ、埃っぽさやカビ臭さによってムードだけは濃厚なのだが、相変わらず霊体の反応も痕跡も皆無だった。
ここで逆L字の角を曲がった先は、やはり六年生の教室から一階まで学年順に下りていくことになる。さらにその先には三階の空中回廊で繋がった四階建て校舎があるのだが、そちらは後回しにし、クラス別教室を優先した。
一階の四年生クラスまで全部回り終えた。四階建て棟には回廊伝いに入ることにし、再び三階まで上がる。上級生クラスの階でもトイレは特に念を入れて霊の感触を探ったが、何も手ごたえは感じられなかった。
空中回廊の前に立った時にふと思った。たぶん今、この校舎内をうろついているのは霊能者の生霊である俺と、大型犬の霊体に変身した吸血鬼だけだ。考えてみればこれ以上に怪しい存在がいるだろうか?
もしここに突如、未知の強力な霊能者が光臨したら、正義の名のもとに討伐されるのは俺たちということに? いや、最初からそういう計画だったならば?
「おや」
回廊に踏み込んだ時、エドが立ち止まった。怪訝そうに背後を振り返っている。
「どうしました?」
「一階の職員室に誰か来たようです」
「え」
「霊ではありません。生きた人間の、男です。戸棚を開けて、書類を……そんなものがまだ残ってたのですな。何か調べるつもりなのか」
エドが「どうする?」というように犬の鼻面を俺の顔に向ける。吸血鬼イチ推しの霊的腕時計を確認すると、既に二十三時に近い。こんな深夜に校内を訪れるのは人目を忍ぶ理由があるからだろう。
後ろめたいのはお互い様だ。そして先方が生身の人間であれば、霊体である俺たちの姿が見えるはずはない。何ごとであれ、自分に有利な状況は最大限に活用すべし。俺とエドは「侵入者」の行動を確かめるべく階下へと足を進めた。
廊下側から見て、職員室の中は灯りが点いていないのが分かった。恐らく校舎全体の電源は切られているのだろう。エドと視線を交わしてから、入口の戸を音もなく通過し、中に入った。
闇の中に一カ所、淡い光の塊が浮かんでいた。
所狭しと並べられた事務机の一つに、白い半袖ワイシャツ姿の男が陣取って背を向けている。小型のハンディーライトで照らしながら書類に見入っているようだった。顔を確かめようと思い、背後から彼の横へ回ろうとした。
「誰だ」
声とともに、ライトの光を浴びせられた。視界が失われて男の姿が見えなくなった。
「そこにいるんだろ? 分かってるよ」
思わず「怪しいものではありません、失礼しました」と口走ったが、返事はない。男の方向から物音がして、彼が椅子から立ち上がったらしいのが分かった。続いて「おかしいな……」という呟きが聞こえた。
男の様子を見守っていたエドが、「どうもあの方には、私どもが見えていないようです」と俺に告げた。
「気配だけ感じてるってこと?」
「そのようです。しかしそれだけでもただ者とは思えません。ここはお互い自己紹介した方がよろしいでしょう」
「どうやって?」
目の前では、男が室内のあちこちにライトの光を当てて探り始めた。他にも霊が侵入していないか確認したいらしい。ライトの反射で顔が見分けられた。年の頃は四十前後といったところで、髪をオールバックにし、目つきが鋭い。固い職種ながらも小学校教員というタイプではなさそうに見える。
「先ほど、『ウロボロス』のスイッチを三日月の位置にセットしましたな。それを太陽の位置にお戻しください」
「この状態で、ですか」
確かにウロボロスは「霊的状態」で俺の左手首にあるが、そのスイッチを操作して何が起きるというのだろう。「そのまま操作できます」というエドの指示に従い、スライドボタンを「太陽」の位置に戻すと、優れものアイテムがその本領を発揮した。
俺とエドの霊体が真珠色の光に包まれ、ホログラムのように闇の中に浮かび上がった。職員室の隅へ移動していた男が弾かれたように振り向いてライトを向ける。俺より先にエドが言葉を発した。
「お忙しいところお邪魔いたしました。決して怪しい者ではありません」
「おやおや」
普通であれば聞こえるはずもない如鬼神の言葉に、男が反応した。ライトを手近な机に置き、こちらを向いて表情を緩めている。俺たちの姿と声が感知できるようになったらしい。そしてどういうわけか男は、「突発的状況」に慌てた様子もない。妙に場慣れしている。
「日本語を話すハスキー犬とは驚いた。それから……変わった格好の若い人。あなたは?」
虚を突かれて「失礼しました」と口ごもる俺を落ち着かせるかのように、男は軽く頷いた。普通の人間なら幽霊相手にこうはいかない。
「人に頼まれて、この学校を調べに来た者です」
「調べに?」
目を細めて怪訝そうな表情になった男は、射貫くような視線を向けて「幽霊が『調べ』にねえ。フン。あんた名前は?」と聞いてきた。嫌とは言わせない声音の圧力に逆らえず、鸚鵡返しに答えてしまった。
「座光寺信光といいます」
「座光寺? ほぉー!」
男は大袈裟に驚いた様子を示した。滅霊師・座光寺家を知っているのだろうか。
「こりゃ驚いた。でも『仏さん』って感じが全然しないね……。やっぱり生霊なの?」
「はい」
「なるほど。しかし座光寺さんが出張ってくるとはねえ。事態はそこまで進んだってことか」
「いえ、僕は」
教師相手の受け答えよろしく、一人称が「僕」になってしまう。
「友人に頼まれて様子を見に来ただけです。僕は当主の息子ですが、まだ高校生の見習いなので……」
「ちょっとよろしいですか?」
いつの間にか英国人初老紳士の姿に戻ったエドが、横から割って入った。俺が一方的にしゃべらされている様子が心配になったらしい。
「不躾をどうかお許しください。私は座光寺家の執事を務めております、エドガー・マコーリーと申します」
「なんだ外国の方か。ハスキー犬じゃなかったんですね」
「お戯れを。当家をご存じでいらっしゃるようですが、せっかくの機会ですので、ここはお互いの身上を明らかにした方がよろしいかと存じます。いかがでしょう」
男は少し考える様子を見せてから「まあ、それは異存はありません。何しろ座光寺さんですから」と言って背を向けると、先刻まで書類を調べていた机の方へ歩いて行った。ブリーフケースを持って俺たちの前へ戻り、その中の名刺入れから一枚取り出してこちらに示した。
男は俺とエドの顔を交互に見ながら、頃合いを見計らって「もういいかな?」と名刺を引っ込めた。「警察の方でしたか」とエドが念押しすると「左様です」と抑揚のない口調で応じた。