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日光東照宮の楽人と「金谷ホテル」のつながり
2024年8月20日
栃木県さくら市(旧氏家町、喜連川町)
夏休み日本伝統文化子ども教室 (文化庁伝統文化親子教室地域展開型) の一環で、雅楽体験教室が開催されました。
その際の保護者様向けコラムとして配布した内容を抜粋してお届けします。
(タイトル写真…夜のJR日光駅舎)
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平調越天楽の管絃演奏
前列に打楽器、中列に絃楽器、後列に管楽器が並ぶお決まりのスタイルで。
はじめに
「日光」といえば、栃木県屈指の観光セールスポイントといったところでしょう。
日光東照宮を中心に、輪王寺、二荒山神社、中禅寺湖、華厳の滝、湯元温泉、戦場ヶ原といった、広大な自然と歴史文化が交錯する、言わずと知れた日本の代表的行楽地です。
そんな日光の老舗ホテル「金谷ホテル」の創業者と雅楽のエピソードを紹介したいと思います。
栃木県と雅楽
そもそもかつての都から程遠い、栃木の地と「雅楽」は深いゆかりがあるのでしょうか?
実は、徳川家初代の宗廟でもある「日光霊場」の創建をきっかけに、近世江戸時代以降、栃木県(ことに日光)では雅楽との結びつきを強めたことが分かっており、
さらに日光から伝播する形で栃木県内各地の郷土芸能として、雅楽を演奏する地域があります。
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母体は宝積寺白鬚神社雅楽部(高根沢町無形民俗文化財)で、
明治末期に日光楽人から手ほどきを受けたとされ、
高根沢町宝積寺地区の白鬚神社の氏子が
代々祭礼に雅楽で奉仕しています。
日光霊場には、当時宮中にて雅楽奏楽を担っていた京都、奈良、四天王寺の各楽人の合同組織である「三方楽所」が、京都から日光まで派遣され、重要な法会の雅楽、舞楽奉納を行っていました。
また、江戸幕府にも都から下向した楽人によって組織された「紅葉山楽所」の楽人がおり、こちらも江戸から日光へ出張して奏楽を行っていました。
寛永14(1637)年。
3代将軍徳川家光は、
三方楽所の楽人をして日光に雅楽を根付かせたいとの希望を示し、その教授のために、辻近元、久保丹後守、上佐兵衛尉を出張させました。
この辻家、久保家、上家は代々雅楽を世襲する「楽家」であり、雅楽伝播に貢献した家系です。
また伝承の受け手である日光の町民から、
由緒のある家を選抜して雅楽の専業とし、代々日光霊場各寺社の法会や祭礼に雅楽を通して奉仕する「楽人の家」を独自に定めることになりました。
こうして以下の日光楽人の家が生まれることになったのです。
◎舞楽 片岡家、青木家、塩沢家
◎笙 関家、黒川家、長沼家、金谷家
◎篳篥 小野家、植木家、大森家、篠原家
◎笛 斎藤家、伴家、新井家、船越家、上松家、柳田家
楽人が暮らした四軒町
日光市本町に村社青龍神社が鎮座しており、
その西隣の街道の両脇は、四軒町と呼ばれていました。
ここはかつて日光楽人が集住していた場所です。
現在の東武日光駅から日光街道を北進し、神橋を左折して田母沢御用邸方面に進みます。
まるひで食堂や日光カステラ本店を右手に見ながら、少し進むと右手に青龍神社、金谷ベーカリー本店がある付近の国道122号線に沿って楽人は居住していたとされています。
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(2023.3 筆者撮影)
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奥が金谷ホテル歴史館。
(2023.3 筆者撮影)
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この通りの両脇にかつて日光楽人が暮らしていた。
(2023.3 筆者撮影)
日光楽人の家の中で、笙(しょう)を伝承する家に「金谷家」と記されていますが、すでにピンときた方も多いことでしょう。
実は「金谷ホテル」創業者の先祖が、この「金谷家」ということになります。
金谷ホテル創業者の先祖、「金谷外記忠雄」は、
天海僧正から御本坊楽職を拝命し、約200年間、9代にわたって、日光霊山寺社の笙の奏楽を担当しました。
そして6代目「金谷帯刀保常」の代に、昇進を受けて屋敷が与えられ、これがのちの武家屋敷の民宿「金谷カテッジイン」となります。
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(2023.3 筆者撮影)
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金谷ホテル創業者の誕生
9代目の「金谷善一郎」は、嘉永5(1852)年に出生し、慶応3(1867)年、15歳にして日光楽人の楽職を世襲します。
ところが、直後から大波乱が…
明治維新を迎えることになったのです。
善一郎自身が奉職したばかりの日光霊山の寺社は、
徳川家との強い結びつきによって成り立っていましたので、その存続さえ危ぶまれる事態となりました。
そして神仏分離によって日光霊山各寺社は、
日光東照宮、二荒山神社、輪王寺に分離されることで辛うじて命脈を保つに至りますが、当然のことながら雅楽奏楽の機会は激減し、善一郎は生活に困り果て…
雅楽奏楽の仕事を縫って、自宅の武家屋敷を開放し民宿を始めたのです。
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下野国一宮 二荒山神社 (2024.6 筆者撮影)
ヘボン博士との出会い
そんな矢先の明治3(1870)年。
アメリカ人宣教師、明治学院の創設者で、ヘボン式ローマ字を伝来させた、ジェームス・ヘップバーン(ヘボン博士)夫妻が来訪し、善一郎の民宿に宿泊したのです。
ヘボン博士の友人で、イギリス駐日公使であったハリー・パークスが、風光明媚な日光の自然や寺社建築の美しさに惚れ込み、日光散策を強く勧めたこともあって、ヘボン博士も観光にやってきたのですが、
さらに民宿での温かいおもてなしに感銘を受けたのです。
「今後、来日する外国人に日光の景観は人気となるだろう。その時のために外国人のためのホテルを創業し、経営してみないか?」
…と持ちかけられた善一郎は一念発起し、
明治6(1873)年に「金谷ホテル」の前身、「金谷カテッジイン」を誕生させたのでした。
当時の善一郎のようすや、(恐らく)外国人が雅楽を聞いて初めて記した雅楽(笙)への雑感は、
のちに宿泊するイザベラ・バード『日本奥地紀行』に簡単に記されているので、
最後に雅楽への雑感を紹介します。
「Kanaya is the chief man in this village,besides being the leader of the dissonant squeaks and discords which represent music at the Shinto festivals…」
【金谷氏は、集落の村長でもあり、東照宮での祭礼に奏される不調和でキーキー音がする耳障りな?音楽の長(代表的な奏者?)なのである】
さて、実際の笙をはじめ、雅楽の音色はいかがでしょうか?
ぜひ感想を伺ってみたいものです。
参考文献、サイト
1東洋文庫840『新訳日本奥地紀行』イザベラ・バード著、金坂清則訳 平凡社 2013.10
2「日光楽職少史」池上宗義(『大日光30号』日光東照宮 1968)
3「宝積寺白鬚神社雅楽」(明治安田クオリティオブライフ文化財団設立20周年記念誌より紹介ページ)
4産経新聞特集記事「日光東照宮外伝・雅楽 宮中の伝統を受け継ぐ」(2022.1.15サイト掲載、2024.1.12閲覧)
5金谷リゾートホームページサイト「ヒストリー」(
2024.1.12閲覧)