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教育者の人格を疑う小学生。

回想から書きたい。
私は「学校の先生」というものが嫌いだった。
タイトルの「教育者の人格を疑う小学生」というのは、まさに私だった。
小学校3年生。9歳。
初めて円形脱毛症になった年。お姉ちゃんとお風呂に入っていて、「そこ、ハゲてるよ」と見つけた年。自身のハゲを知った9歳の私は絶望した。お母さんが笑いもせず「大丈夫大丈夫」というだけだったから。10円ハゲ=とんでもないことだと思った。

3年生の時の担任は吉田正先生(仮)という男の先生だった。声の大きな男性教諭で私は怖かった。ドキドキワクワクの担任発表の日、「あぁ、今年はハズレだ」と思ったことを今も記憶している。なぜハズレか。怖いと子供の間でウワサされていたのだ。そして10円ハゲの原因は吉田先生だと思っていた。

時制は今に戻す。
今考えてみると、私は「吉田先生」のことを「父」を重ねていたのかもしれない。
父は仕事で疲れて家ではいつも不機嫌だった。声は大きかった。
吉田先生は「叱る」をしていたのかもしれないが、小学3年生の私は、【あの先生は怖い】の前情報が強すぎたこと、なぜ先生が大きい声で怒るのか理由が理解できていなかったこと、先生のことを親と会話をする時間もなかったこと、
それで子供の頭の理解のまま「怒られる」「怖い」「男の先生嫌い」になっていたのかもしれない。

先生の思い出話をもう少し書く。
時は2年前、(私が35歳の時)私の同級生の修くん(仮)が交通事故で亡くなった。修くんは、体の大きな太っている少年だった。
私はお葬式に参列した。私の左の二つ隣にその、「吉田正先生」は座っていた。26年前の教え子のお葬式にきた吉田先生は子供の時に見た先生より小さく感じた。先生は静かに男泣きしていた。先生は、誰とも話すことなく、すぐ帰って行った。

私は学校の先生を嫌って疑っていたのはなぜか。

母親の言葉(教え)、態度からである。

以下は当時の私の母の言葉であるが、
先生も人間だからね、仕方ないよ

両親が先生の〇〇ちゃんは、頭も良くてスポーツもできて、容姿も可愛い(=通信簿が良い)
父親が市役所職員の〇〇ちゃんは、先生に優遇されている
100点をとっても70点と言いなさい、周りの子になんて言われるかわからないから。


私の母は当時、そんなことを言っていた。

だから、
私の母は、「学校の先生」は親の職業で通知表の成績が変わると信じていた人
と思い込んでいた。


また当時の母の態度からも、テストの点数の喜び方の注意からも、
人は本音と建前があり、本音を隠して話すから人を信用してはいけない
と私は学習してしまって、大人になってからも握りしめていた。

我が母は、「仕方ない」は今も口癖で、相手に「確認」という行為をせず、自分に言い聞かせて我慢をする人であるが、

母が「社会の人」をどう捉えてるか、これこそが私自身の生きづらさの原点だった。

私の母は、認知能力、言語能力、子供よりも自分のポジションの安定が第一、子供を見守る余裕(心と時間)もなかったのだ(事実)

母親理解をすすめていくと、
母親🟰
だった。

で、どうするか。
事実を受け入れて、自分はどう生きたいのか、どう死にたいのか。我が子に「社会はこういうもの」「社会の人はこういうもの」を態度と行動でどう伝えるのか。

本ブログで伝えたかったことをまとめる。
生きづらさの原因は「母親」であったこと。
「母親」は完璧でない、「ただのヒト」であったこと。それ以上でもそれ以下でもない。
ヒトは多面的であり、主観の捉え方で世界が変わること。

さて私も2男児の母となったのだが、大人になってから出会ったある「教育者」は、非常に諦めないしつこい教育者だった。
諦めない=一生懸命。
しつこい=信念がありブレない。
彼女は、私が頼んでもないのに教えてくれて、頼んだ時も変わらず教えてくれた。
教え子の死に涙する吉田先生を見かけた時と同じような言葉にならない気持ちが生まれた。

私は今日は、公園で息子たちと遊んだのだが、そこでは、とびきり笑顔のとっても楽しそうな5歳くらいの少女から【ヤミーバリアー】なるものも教えてもらった。(๑・̑◡・̑๑)

おわり。


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