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表現病
初めに熱が出た時、喉の痛さが尋常じゃなかった。
これは体内に入ったウィルスを喉で処理しようと体が闘うからなのだが、まるで刃物で何箇所か切り刻まれたような痛みなのだ。この喉の痛みはコロナの有名な特徴でもあるらしい。痛みは解熱しても数日続いていたと思う。
私たちが“本来の自分に戻る“アセンション時代に現れた新型コロナウィルスは、スピリチュアルな解釈ではまず「表現」に切り込んでいると感じる。
「表現すること」を司るのは喉のチャクラだ。
ハートで感じたことでも、下位チャクラから湧き出てきたことでも、それを表に出す(表現する)かどうかは最終的に喉で決定される。
そしてその最終決定で表に出ることなく内側に帰っていくものは、実はとても多い。
色々な表現活動をしている(ように見えているであろう)私も、「表現しているもの」と「表現していないもの」を比べた時に、おそらく圧倒的に「表現していないもの」の方が多いと思う。
そのくらい私たちは表現することの出力が弱い。でも、それは優しさからでもある。
コロナは人々をパニックに陥れる。そのパニックの扱い方は個人により全然違う。なんとも思わない人もいれば、過剰に怖がる人もいて、まずその時点で人々は分離していく。
ソーシャルディスタンスは、実はもうそこから始まっているのだ。
コロナのスピリチュアルな解釈の二つ目は「境界線」だ。
同時期に感染した友人の話によると「コロナにかかってるかもしれない」と玄関先で伝えても、気にせず家に上がり込む人もいる。
ニュースで見た一人暮らしの女子大生は、コロナの感染がわかった時点で恐怖と心細さに飲まれ実家に帰って感染を広めてしまったらしい。
そして地方では本当に感染者の村八分が行われることもある。
他者と境界線を引くことはただでさえ難しい問題なのに、そこと更に向き合わされる。
感染させたくないから引く線、感染したくないから引く線。
そして医療現場では「防護服」という形で境界線が具現化され、きっと入院された人はその決定的な境界線を思い知るのだろう。
コロナのスピリチュアルな解釈の三つ目は「印象操作」。
商売をする上で「コロナ対策をきちんとしている」という印象をアピールして安心してもらうことはいいとして
メディアによって違う「コロナは恐ろしい」「コロナはただの風邪」という相反する印象操作。どちらなのかわからないところが更にパニックを煽る。
そしてコロナになったことを人に言えない、という気持ち。
私の仕事は遠隔セッションだから気にせずこんな風に綴ったり言えるところはあると思う。もし対面でお客様と密接に関わる仕事だったら、こんな風に書けただろうか。
「ただの風邪だった」と言っている感染者や回復者はきっと少なくないはずだ。
コロナの問題に限らず、私たちは常に印象操作をしている生き物だ。
誰かが仕組んだ流行、SNSの発信、他者に見せる用の世界観、切り取られた真実。
大丈夫なふり、大丈夫じゃないふり。
そうやって現代病のように日々繰り広げられている印象操作はもう、臨界点まで来ている気がする。
表現、境界線、印象操作。
それらを浄化して正常にしようとするのがコロナかもしれない。
実際、私は回復してから些細なことでも本音がするする出てしまうようになった。
前なら当たり前のように表現せずに胸の中にしまっていたような言葉も、勝手に口から飛び出すのである。
コロナの別名は新型肺炎だ。しばらく息苦しさに襲われた後、咳が出まくって痰が出ると少し楽になる。それが何度も何度も繰り返されて少しずつ回復していった。
レントゲンやCTを撮らなくても肺にもやがかかっているのは簡単に想像できるくらい苦しかったのだが、
それは表現されずに飲み込まれて肺に溜まっていたものなのかもしれない。
私たちはどこまでも正直にいることを今、宇宙から求められている気がする。