あなたの名前は
その日、私の目の前には懐かしい人がいた。
彼はかつて一緒に働いていた仲間で、私が別の場所へ旅立ってからも変わらずにそこで働いている。
私と彼がいるのは通路の端に椅子とテーブルが置かれただけの簡素な休憩スペースで、そこはちょうど宇宙船の端っこに位置する。
完全にその世界のことを忘れていた私は、観光気分で周りを見渡していた。
私たちの横をいろいろな人種が通り過ぎる。
「人種」という表現で合っているのかはわからない。彼らはそれぞれ個性的な姿をした、宇宙存在だからだ。
その中でもかなり珍しい宇宙存在が通りかかった時、あまりの久しぶりの遭遇に私のテンションはマックスになった。
目の前の元同僚は、そんな私を呆れて見ていた。
彼はスキンヘッドで、少しだけブルース・ウィリスに似ている。
若い頃のブルース・ウィリスがシュッとしたような感じだ。だけど膨大な時間の歳を重ねているようにも見える。
あらゆることを忘れきって「観光客」に成り下がっている私を、彼は頬杖をつきながら呆れた顔で見ていた。
だけどその目の深みは、昔から変わらない。
私は時々ただの夢とは違う世界に行くのだが、そこには知り合いがたくさんいる。
友達、ご近所さん、顔見知りの夫婦。
よく知ってる人達ばかりだけど、その中に3次元世界での知り合いはひとりもいない。
本当にそちらの世界だけの知り合いなのだ。
私はその世界でバイトをしている時もあり、バイト先の飲み会に行くことだってある。そちらの世界でも人間関係には恵まれていると思う。
ただの夢とは違うそこへ行くと、不思議なことに「日常」という感覚を味わう。
そう、ここはここで、私にとって「日常」の場所なのだ。
だけど、ひとつだけ気をつけなくてはいけないことがある。
懐かしい顔ぶれに会うと嬉しくてついつい相手の名前を呼びたくなるものだが、それはやってはいけない。
笑顔の知り合いの名前を呼ぼうとする。
お世話になってる人の名前を口に出そうとする。
その瞬間、名前を知らないことに愕然として、
すべてが遠のいてしまうのだ。
本当に知らないわけじゃない。なぜなら一秒前には呼ぼうとしていたのだから。
だけど一秒後にはもう、私はその人の名前を知らない。
そして笑顔の知り合いたちが薄くなり、遠のいていき、私はベッドで目が醒める。
ここでは名前を口に出してはいけない。
そして名前を聞いてはいけない。
名前にフォーカスすると、元の世界に戻されるから...。
「ここを出てからうまく進めたのか。順調に任務は進んでいるのか」
目の前でブルース・ウィリス似の元同僚が聞いてくる。私たちがいるのは宇宙船の通路にある、簡素な休憩スペースだ。
その質問に私は一生懸命答える。
「大丈夫。たくさん失敗はしたけど、ちゃんと目的地には進んでる。任務のことも忘れてない!」
忘れてないと言ったそばから、記憶が消えていく。
それに彼は気づいてる。
私は落ち着こうとするけど、どんどん消えていく記憶を繋ぎ止めたくて泣きそうになり、冷静になることができない。
憶えてる。ちゃんと大丈夫だって証明したい。
彼は慈悲深い目で私を見ている。見ているだけで言葉を投げかけてこないのは、もう私が言葉を吐けば吐くほど、ここから遠のいてしまうとわかっているからだ。
だけど私はここに留まりたくて、まだ話していたくて、何より「ちゃんと憶えている」と伝えたくて...
そして、してはいけないことをしてしまう。
「大丈夫だから安心して。本当に憶えてるから。あなたの名前だって言えるよ。あなたの名前は...」
あなたの名前は。
あなたの名前は。
悲しそうな笑顔の元同僚の顔が遠ざかっていく。
私は、その人の名前を知らない。
「君の名は。」という映画は、明らかに宇宙から作らされたものだと思う。
映像・ストーリー・歌、すべてにウェイクアップ・コールが散りばめられていて、向こうの世界のエネルギーが込められているからだ。
名前を憶えていられない。次の瞬間には、名前を知らない。
記憶自体も遠のいてしまい、それすら忘れて生きていく。
だけど、忘れてしまう「瀧くん」側の人がいれば、憶えていられる「三葉」側の人もいるのだと思う。
そんな人達がそろそろ報われる時代へと変わりつつある。
真実を浮き彫りにするために現れたコロナはまるで「最後の審判」だ。
タロットカード大アルカナの「20.審判(Judgement)」は、覚醒や再スタートを意味する。
これまで囚われていたトラウマから解放され、晴れやかに進んで行ける励ましのカードだ。
そして次なる最後のカード「21.世界(World)」でひとつの世界が完成し、統合される。
「君の名は。」がウェイクアップ・コールなら、コロナはタイムリミットが近づいてる合図かもしれない。
今は現実を動かせなくても、どうか決意だけは明確にして欲しい。
その決意が、この先を歩く上での羅針盤になるから。