尾州産地のお話
世界三大毛織物産地「尾州」
愛知県一宮市を中心に、津島市、稲沢市、江南市、岐阜県羽島市など、愛知県尾張西部エリアから岐阜県西濃エリアが「尾州」と呼ばれており、イタリアのビエラ、イギリスのハダースフィールドと並ぶ、毛織物の世界三大産地です。
産地の最大の特徴としては、糸から織物を作るまでの全工程がこの地域でなされ、分業体制が整っていることです。まず、企画、織り・編みを行う企業があり(親機)、その協力工場である、紡績・染色・補修・整理加工などといった、それぞれの工程を専門で請け負う工場(子機)が産地に点在しています。産地内で全工程を完結することにより、多品種・少量・短サイクルの生産を可能にしているのです。
このようにして日本の毛織物生地の約70%のシェアを占める尾州産地ですが、明治時代以前までは絹や綿の生産が中心でした。どのようにして尾州がウールの産地になっていったのか。歴史を少し掘り下げてみましょう。
尾州の繊維業の始まりは奈良時代以前から
尾州産地は、木曽川流域の豊かな自然環境に恵まれていたため、昔から織物生産が盛んに行われてきた土地です。1200年以上前から、麻、絹、綿と時代にあわせて生地を生産してきました。
古くは弥生式遺跡から発見された土器の底面につけられていた布の痕跡、1200~1300年前とされる現存する最古の布片などから麻織物がこの地方で作られていたようです。
また、正倉院に現存する尾張国正税帳(天平6年(734年))によれば、当時すでに綾及び錦などが盛んに織られ、また江戸・元禄期(1688~1704年)には「春雨や桑の香に酔う美濃尾張」(其角)という句が詠まれるなど、美濃・尾張一帯では桑が栽培され、絹織物が盛んであったと知られています。
1540年代になると、琉球から薩摩を経て、内地に綿栽培が伝わり、江戸時代には盛んになりました。戦国時代以来、木綿は実用向きとして絹布を凌ぎ、その栽培が進み、江戸・藩政時代の尾張平野は秋祭りの頃になると見渡す限りの綿の白で溢れ、住家と納屋も生綿の山となったそうです。
1842年の尾張国産品のうち織物類に桟留縞(さんとめじま)、結城縞、繰綿、さなぎ糸、絹、かぴ丹、糸類、羽二重が挙げられているのをみると、相当生産されていたのが窺えます。
明治以降の尾州の織物
明治維新以降も、綿・絹織物の生産に盛んでしたが、明治24年(1891年)10月28日の濃尾大震災により、綿花の栽培が困難になり、機業家だけでなく一般住民にも致命的打撃を与え、復旧には大変な費用と労力を強いられました。一方で安価なインド綿花の輸入が始まり、大企業が安い綿布を大量生産し市場進出を始めます。これに対抗できなくなり尾州地域での綿織物業は衰退していきました。「綿織物に変わるものを、、、」模索の中で、時代の流れをいち早く読み、羊毛工業へ着目しました。明治25年(1892年)以降、輸入毛糸で試織を試みるも整理技術が未熟であったため商品化には至りませんでしたが、その後も研究と試織を重ね、着実に毛織物の生産体制を作っていきました。
当初は英米ドイツからの輸入であった毛織物ですが、大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発。軍服を作るために毛織物の需要が高まり、輸入が途絶えてしまいます。日本では和服から洋服化への需要量は激増したにもかかわらず、その在庫は底をつき服地業者は窮地に立たされました。その一方で国産品愛用が唱えられるようにもなりました。これを機に、尾州が毛糸を用いて織った和服用織物が全国的な特産地として名声を博することとなりました。こうして、尾州の毛織物の生産量は僅か5年で20倍に激増、全国生産の約70%を占めるまでに至りました。
大正期以降も、洋服地用の毛織物の研究・生産に取り組み始め、昭和60年代前半、天然繊維ブームや婦人子供服の普及により、毛織物の生産量が更に増大しました。
これからの尾州
長い歴史の中で、素晴らしい技術を発展させてきた尾州ですが、景気の低迷や各国との競合により厳しい状況を迎えています。また、尾州の毛織物を支える職人さんたちの高齢化による後継者問題も深刻な課題となっています。
コスト削減により、質が良い国産生地よりも安価な海外生地が使われてしまう現状の日本のアパレル事情ですが、その結果、工場の廃業といった日本の技術の衰退を促すことになっています。それを回避するためにも尾州の生地の素晴らしさをアパレルに関わる人たちやその先の消費者の方たちに伝え続けなければいけないと思います。
尾州の技術は海外で簡単に真似できるものではなく、日本が世界に誇れる高い技術です。今後もそれらを失わないためにどうしていくかがこれからの尾州の大きな課題になっていくでしょう。
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