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紫陽花の季節になりました

気がつくと六月になっていた。
紫陽花があちこちで綺麗に咲いている。

私の生活は相変わらず。

でも、いろんなことは起きる。
そのいろんなことにどう対処するかは私が決めること。

ずいぶんマシにはなった私だけど、なかなか難しい。

それでも前ほど振り回されてヘトヘトになることは減った。

私はずっと恐ろしかったのだとやっと気がついた。
幼い頃からこんな歳になるまでずっと
ただ恐ろしくて、人の機嫌や意向ばかりみて平和なところを探していた。
そんなところはなかった。

誰も気がつきもしなかった。
私はしっかりしていて、なんでも出来て当たり前だから。
どんなことも出来る。
頼めばすぐやってくれる。

それが私の求められている事だから必死だった。

やっとそんな事あるはずないと諦められた。
やっと本当に嫌なことに嫌といえるようになった。

それはそれは恐ろしいことだった。
見捨てられる。捨てられる。
誰もいなくなる。
そんな風に恐怖に襲われてただ自分を責めることしかできなかった。

やっと落ち着いて周りを見れるようになった。
見てみたら、何もなかった。
大事にしたいものも。
大事にされたことも。
この手の中には何もなかった。

信頼できる人も頼れる人もいなかった。

私が信頼できると思っていた夫は親と同じ恐ろしい人に見えたし、助けてくれていたはずの子どもは遠くにいた。

誰もいなくなった私。
そして本当に私が私を助けるしか無いんだと心の底から思った。

もう誰かなんて当てにしない。
そんな人は存在しない。
人はまず自分が一番なんだ。
それが当たり前なんだと肝に命じる。
そんなことは全くわからなかった。
そんなことを認められたり許されたりしたことなどないからわからなかった。

やっと最近になって嫌が言えるようになった。
ふつうに。
こんなことさえ言えなくてただ我慢して譲っていたのだと思うとバカだと思えるくらいにはなった。

他の人にならきっと簡単に言えたはず。

何それ?おかしいよ!
どうしてそんなことさえ言えないの?
あなたは誰かのために生きてるの?
そんなはずないでしょ!

笑えるような馬鹿げた話に見える。
でも本当だ。
離れて眺めることができなければわからない。
そのおかしさには。

やっと少しだけ眺められるようになった。

些細なことが大事で途轍もなく大変なことに思える 可哀想な子ども。
ハリボテみたいな空疎な殻で大きく見せて必死で頑張ってた。
中身はないから空洞でたまらない不安と恐怖が渦巻くだけ。
でも助けてなんて口が裂けても言えない。

哀れとはこんな事をいうのだろう。

そんな哀れな私には私しかいない。
この哀れな子どもの私を私が守るしかない。
そのためには、もう誰のこともみないし察したりしない。

私のためにだけ私を使う。

コロコロと変わる今どきの天気みたいに 上がったり下がったりする気温みたいに変わる自分の気持ちに寄り添う。
大丈夫。私が何があってもいるのだから。
そう安心させてあげる。
 
だいぶ慣れてきた。
夫も子どもも もう私がどうにかできるものなんかじゃない。
誰かをコントロールできるなんてありえない。
そんな出来もしないはずのことをずっとやれと 当たり前に言い続けてきた人たちとはもう離れる。

きっとわかるはずもないことだから話したりしない。
ただ 離れるだけ。
もう無駄なことに自分を使わなくていいと許可する。

疲れるし悲しいし 自分が傷つくだけ。

今でも人との距離感はわからない。
でもなんとかなっていくだろう。
私のことを私が信じていられるなら。
なんでも慣れていくしかない。

どんな気分や気持ちの時も私は私のことを助けて寄り添い守ろう。
何かあったら慰めよう。
私だけは決して変わらず私を守る。

そうして時間をかけて慣れていこう。

来年の紫陽花の頃には今よりもっと楽になってるはず。

大丈夫。なるようになっていく。
そうなるようにできている。
できるだけのことをやったらあとはお任せ。
空を見上げながらそう呟きながらやっていく。

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