野村祐輔選手の引退に際して
カープの19番が引退する。
ニュースを見た時、まじか、とも思ったし、そうだろうなとも思った。
マエケンが抜けた後のカープを支え、かつ優勝に導いた功労者の一人ではあるものの、ここ数年の成績は芳しくない。中継ぎに転向するならばまだしも、登板した210試合は全て先発。ここまで来たら、引退試合も先発で終わってくれたら嬉しいが、どうなっただろうか。
ところで野村選手と言えば、広島県民や甲子園ファンには忘れられない記憶があると思う。
言わずもがな、広陵対佐賀北の名勝負である。
まさしくその時、自分は甲子園球場の、野村選手とバッテリーを組んでいた小林選手の真後ろの席に座っていた。
4点リードの八回裏、逆転満塁打。あの時の顔も衝撃も、水を打ったようなとはまさしくこのことかと言うような観客席の戸惑いも未だに忘れられない記憶だ。当時がばい旋風とも呼ばれた応援の渦は凄まじく、広陵応援団の声はかき消されてしまうほどだった。
その後、野村選手はカープに、バッテリーを組んでいた小林選手は巨人に入団するのだが、自分の周りでも一つ、大きな変化が起きた。
ちょうど広陵高校が地方大会を勝ち進んでいた頃、自分の母は更年期から来るうつ状態になっていた。それまでバラエティ番組が好きだったのに、騒がしい音が苦手になって、静かなNHK番組を観るようになった。野球中継なんて、とてもじゃないが観れたものではない。
そんな時、転機になったのが広陵高校の甲子園進出である。
実はその頃、歳の離れた兄が広陵高校に入学していた。野球強豪校あるあるかもしれないが、広陵生は野球部応援が出席日数としてカウントされていたのだ。
そのため、兄は広島から甲子園球場遠征も何度か経験する事となるのだが、これに乗じて突如、母が「自分たちも甲子園行こう!」と言い出したのである。
我が家は元々、頻繁に旅行をしていたし、父が大阪で仕事をしていたこともある。突発的な旅行は以前よくあったものの、母がうつになってからはご無沙汰だった。
だからこそ、父も自分もびっくりしたが、しかし久しぶりに母から何かしようと言うのである。それはもう嬉しかったし、大急ぎでみどりの窓口に駆け込んで新幹線のチケットを取って朝早くの新幹線で関西まで駆けつけた。
その後も広陵は順調に決勝戦へと進むわけだが、それまでもやはり何度か足を運んだし、いつの間にか母の顔から笑顔や笑い声が出るようになった。
決勝戦の敗北は悔しかったし泣いたが、それから大学、プロと、母は野村選手の姿を追うようになった。
冷えきった親子間の会話も、彼のおかげですっかり以前のように軽快なものになっていた。
野球を応援するというと、勝敗しか見てないように思う人もいるかもしれない。実際、勝負の世界であるから、それは一理ある。
しかし、少なくとも自分は、我が家は、野村祐輔という一人の選手の勇姿にずっとずっと支えられ、元気をもらってきた。
どうか、これからの人生も明るいものであってほしいと願うし、欲を言うならば何かしら実況なり育成なり、広島や野球に関わってほしいと願う。
間違いなく、誇れる名選手として自分は彼の名前を挙げたい。
野村祐輔選手、ありがとう。お疲れ様でした。