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シリーズ日本の冤罪《特別編》西成女医変死事件 大阪・釜ヶ崎に集う人々が真相を追う〝逆冤罪事件〞◉尾﨑美代子(紙の爆弾2024年8・9月号掲載)

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 2009年11月16日未明、大阪・木津川河口の千本松渡船場で釣りをしていた男性2人が、女性の遺体を引き上げた。女性は14日早朝、同区内の診療所から行方不明になっていた矢島祥子(さちこ)さん(当時34歳)で、釜ヶ崎の日雇労働者や生活保護者、野宿者らに「さっちゃん先生」と呼ばれ親しまれていた女医だった。西成署は遺体発見からまもなく祥子さんの死を、過労を理由とする自死と断定していたが、遺族は遺体の状況などから殺害ではと疑った。しかし、その後も関係者の間では祥子さん自死説が強まっていく。
 そんな時、釜ヶ崎に通い事件を知った桜井昌司さん(布川事件冤罪被害者・2023年逝去)は、これを「逆冤罪事件」と呼び始めた。

あの日、矢島祥子さんに何があったのか?

 行方不明になる前日の11月13日、祥子さんが最後の患者を診終えたのは19時45分頃のことだった。20時過ぎにB看護師が、22時頃にA所長と職員Cさんが診療所を退出。Cさんによれば、祥子さんは奥の部屋のパソコンで作業をしていたという。
 その後、23時18分から37分の間に祥子さんが退出・入室していることが、彼女名義の警備会社のセキュリティカードの履歴から判明している。日をまたいだ14日の4時15分頃に電子カルテがバックアップされ、同16分に退出が記録されている。
 最後にカードを使用した際、誤作動が生じてアラームが鳴り始め、警備会社が祥子さんに電話をかけていた。それまでも祥子さんは誤作動が生じると、自ら警備会社に連絡したり、警備会社からの電話に出ていた。しかし、その日、祥子さんが電話に出ることはなかった。そのため警備会社が緊急出動してアラームを止めたが、診療所には誰もおらず、すでに30分が経過していたため、問題なしと報告されている。
 同じ頃、祥子さんの携帯電話から、翌日会う約束だった友人Xさんに予定をキャンセルするメールが送られていた。のちに、実際のメールの着信時刻と、Xさんが遺族と診療所へ報告した時刻が違っていたため、遺族が正確な時刻を確認したいとXさんに申し出た。しかし、携帯が壊れたとの理由で確認は出来なかった。
 14日の朝10時過ぎ、出勤しない祥子さんを心配して、看護師Dさんが徒歩10分ほどの祥子さんの自宅を訪ねた。祥子さんは不在で、施錠されていなかったため中を覗くと、室内は整然としていたという。
 その後も職員らが何度か祥子さんの携帯に連絡をいれたものの繋がらず、13時10分過ぎに、A所長とD看護師が再び祥子さんの部屋を訪ねたが変わりはなかった。
 翌15日になっても祥子さんが出勤しなかったため、彼女の身に何かあったのではと危惧し、A所長らが西成署に相談する。その際、捜索願は親族から提出する必要があるといわれたのを受けて、A所長は初めて群馬の実家に電話をかけた。
 両親は地元の警察署に捜索願を出し、次男の洋さんを大阪へ向かわせた。洋さんは西成に到着後、診療所でA所長と面談し、その後ホテルで警察の連絡を待ちながら、16日の深夜には長男の敏さんに電話で報告を行なった。
 敏さんの携帯に再び洋さんからの連絡が入ったのは、それから一時間ほどだった。その時の心境を敏さんはこう振り返る。
「洋との電話を切り、少し横になっていたら電話が鳴った。いつでもとれるように着信音を最大にしていたんです。もう嫌な予感しかありませんでした」電話は祥子さんらしき遺体が見つかったことを知らせるものだった。
 事態を伝えた洋さんは、西成署に向かい霊安室で遺体と対面した。昼前には両親と敏さんも西成署に到着。その際、祥子さんの首に赤黒い傷(圧迫痕)があるのを敏さんが見つけ、医師である母・晶子さんに告げた。
 一方、祥子さんの遺体を司法解剖した大阪市立大学(当時)の結果報告を受けた西成署は、死因を「溺死」とし、「自殺の可能性が高い」と遺族に説明した。
 16日夜、釜ヶ崎の「社会福祉法人聖フランシスコ会ふるさとの家」で「お別れの会」が催された。敬虔なクリスチャンだった祥子さんがミサに通っていた場所で、彼女を知る多くの人が集まった。その場にいた多くが祥子さんの死を自死と認識し、それを遺族に告げる人までいた。
 西成署が「自死の可能性が高い」と判断した背景には、のちに祥子さんの交際相手と名乗り出た元患者の男性Yさん(当時62歳)のもとに、祥子さんから届いた絵葉書の存在がある。消印は祥子さんが失踪した14日。そこには「出会えたことを心から感謝します。釜のおじさんたちのために元気で長生きしてください」と書かれていた。晶子さんによれば、祥子さんは友人や患者さんに、よくそのような絵葉書を書いて渡していたという。
 しかし遺族は、祥子さんの自死説に到底納得いかなかった。

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