インフォーマルグループ
あらすじ
平穏な日常を送っていたタクシードライバーの井田は、突如身に覚えのない容疑で警察に連行された。弁護士の浅井と真相を探るうち、醜悪な権力の姿が浮かび上がってきた。
井田が運転するタクシーが、すすきの交差点に近づいてくると、その客は「ここでいいや」と言い、長財布を取り出した。ワンメーターの距離だったが、千円札を出して「釣りはいいから」と降りていった。今日三回目のチップをもらった井田は、晩飯代が浮いたな、そろそろ勤務時間も終わるから帰ろう、と会社に向かった。
会社に着くと、井田は、車を洗い、室内の掃除をして運賃収入の計算をした。
「一万六千円か、まあこんなもんだろ」
チップで千円程度の収入があることは、もちろん会社には言わない。
タクシードライバーは歩合制であるが、井田は、歩合がつくことはほとんどない。入社したてのころは、残業して少しでも収入を増やそうと思ったが、古株のドライバーばかりに長距離の客を配車している実情を知ってからは、クビにならない程度の運賃収入があればいいやと定時で帰ることにしている。
帰社後の処理をすべて終え、自分の荷物をまとめて帰ろうとすると、
「井田さん、ちょっと待って」
と主任にとめられた。
「すすきので降ろしたお客さんが車内に忘れものだってよ」
「えっ、今車内の掃除してきたんですけど何もありませんでしたよ」
「もう一度見てよ。大事なものなんだって。メモリーカードって言ってんだけど小さいから見落としてないか」
「わかりました。もう一回みてきます」
あたりはすっかり暗くなっていた。井田は、自分の使った車両まで行き、後部座席をライトで照らしながら隅々まで探したが何もなかった。念のためマットを外して探したが、それでも何も見つからなかった。
事務所に戻って見つからなかった旨主任に報告すると、
「まあ、お客さんの勘違いだろう。もういいよ。」
と、解放された。
このような客からの申出は毎日のようにあり、勘違いの場合もある。井田はここ一年くらい忘れ物を見落としたことはない。客の勘違いだろうと考え、自宅に戻った。
井田は会社の近くの安アパートで一人暮らしをしている。井田は、高校を出た後、両親のいる石狩市から札幌市へ出てきた。特に何か能があるわけでもない井田は、札幌でも仕事が少なく、アルバイトを転々としていた。そのうちに三十代も半ばになり、仕事の選択肢もさらに少なくなってきた。そこで、常時ドライバーを募集していた今の会社に入ったのである。待遇がいいわけではないが、ノルマもなく、38歳でも若手として扱ってくれるので居心地がよく、手取りが15万円に満たなくても何となく仕事を続けているのである。家ではテレビを見るか、スマホでマンガを読むことくらいしかすることがない。その日も発泡酒とカップラーメンで腹を満たし、スマホのマンガを見ながら寝落ちした。
翌日、遅番の井田は、ゆっくりと朝食をとり、自転車で会社に向かった。会社に着くと、事務所の真ん前に見慣れない車がとめられていた。中に入ると、主任が手招きして
「井田さん、ちょっとこっちに来て。警察の方が話を聞きたいそうだ」
と物置部屋兼会議室まで連れていかれた。中には、綿パンにジャンパー姿の男が二人座っていた。井田が入っていくと、主任が外へ出てドアを閉めた。
「井田さんですか。警察です。昨日のことで聞きたいことがあるんですが、そこに座ってください。」
と丸刈りが少し伸びた感じの男が申し向けた。井田が机を挟んで座ると、
「昨日ね、すすきので降りた方がね、財布をあなたのタクシーに忘れたんですよ。あなたそれをどうしました。」
丸刈りが井田の目を見据えて尋ねる。横にいる、細いメガネをかけた横分けの男も井田を見下ろすように見ている。
「えっ、財布って何ですか。メモリーカードじゃないんですか。あの、忘れ物なんてありませんでしたよ」
「あのね、そこしか忘れる場所がないんですよ。今返せばその方も処罰を求めるつもりはないし、警察としても被害者がそう言っている以上、一応窃盗に該当するんだけど、特に処分の必要はないと考えてるんですけどね」
丸刈りが強い口調で話す。
「えっ、おれが取ったっていうんですか。そんなことするわけないじゃないですか。あっ、そうだ、ドライブレコーダーを見てもらえば分かりますよ。あれは車内も写りますから」
井田がこたえると、丸刈りが鼻息をフンと出して、
「もう見たよ。でもエンジン切った後だったら何も写らないでしょ。そのときに取ったんじゃないか。とにかく返してくれれば大ごとにするつもりはないんだよ」
「でも本当に忘れ物なんかなかったんですよ」
これを聞いた丸刈りが、
「ああ、もうここじゃ話にならんな。ちょっと警察まで来てもらおうか」
と立ち上がって外へ出て主任を呼んでくる。主任は、
「井田さん、頼むよ。警察に協力してよ。今日は休みでいいからさ」
「おい、こっち来て。車に乗って」
丸刈りが顎で玄関を指す。細いメガネも立ち上がって、ポケットに手を突っ込んだままこちらを睨みつけている。警察と会社、双方からの申出というより命令には逆らうことができなかった。
「はい、わかりました」
井田は警察車両に乗り込んだ。
警察署に着くと、すぐに取調室に連れていかれた。持ち物を出せ、というので、ポケットを探ってスマホを見ると、
「おい、コラ、お前、何スマホ触ってんだ。手を放せ」
丸刈りが突然大声を出してスマホを取り上げた。
「ほら、荷物全部出せ」
持ち物を全部提出させられたうえ、一人部屋に残され、外からドアを閉められた。ドアの外では丸刈りと上司と思われる警察官が話しているのが聞こえる。
「はい、こいつですよ。井田です。取ったのは。間違いないですよ」
「ほんとに、なめた野郎ですよ。さっきもスマホで何かしようとしてましたよ」
「会社は警察に協力するって言ってますよ」
などと話しているのが聞こえた。五分ほどして、ガチャンと大きな音を立ててドアが開かれ、丸刈りが、
「おい、写真と指紋とるからこっちこい」
といい、別室へ連れていかれた。
別室では若い女性警察官と人相の悪い警察官が指紋を採取する準備をしていた。女性警察官は、
「ここに手をおけ」
などと命令口調で次々と指図を始めた。その女性警察官は、小柄でとても柔道や剣道をやっているようには見えない。口のきき方も賢そうとは思えなかった。こんな人が暴れる犯人を捕まえられるようには見えない。後ろにヤクザモンみたいな警察官が控えていないと何にもできないのではないか。警察は縁故採用ばかりだと聞いていたが、この女性警察官を見ると何となくそれがわかる気がする。
写真、指紋さらにはDNAまで取られて、何の説明もせず、訳の分からないまま、いくつかの書類に署名させられた。その後、また取調室に連れていかれた。
取調室に入ると、床に固定されたパイプ椅子に座らせられ、これまでよりさらにひどい口調で丸刈りが話し始めた。
「取ったのはお前しかいねえんだよ。まだとぼけんのか、なめてんじゃねえぞ、この野郎」
と言って机をバンと叩いた。細いメガネはゆっくりと井田の斜め後ろに行き、こちらを見下ろしている。
井田は何度も忘れ物はなかった、自分は何も取ってないと説明するが、その都度丸刈りが怒鳴り散らす。このようなやり取りを繰り返した後、丸刈りが、
「おい、そこまで言うんだったら、お前の持ち物全部見せろよ。それからお前の部屋の中もな。そしたら信じてやるよ」
と落ち着いた口調で話した。井田は、このやり取りに疲れ、言う通りにすれば取調べが終わると思い、
「家の中でも何でも調べてください」
と答えた。すると、丸刈りが細いメガネに目配せして取調室から出て行った。細いメガネが井田を立たせ、後ろから井田の肩を小突きながら丸刈りの後をついていくよう促した。
さきほどの警察車両に乗せられた井田は、自宅のアパートまで案内させられ、家探しをされることとなった。二人の警察官は、引き出しを無造作に開け、中の物をそこらに放り出し、次々と部屋中を探しまわった。しかし、部屋からは何も出ず、丸刈りの方が舌打ちをしながら、
「何だ、どこに隠したんだよ、そっちはどうだ」
「いや、ないっすね」
部屋を全く片付けもせず二人の警察官は帰っていったが、
「財布がなくなったのは間違いないんだよ。疑いが晴れたわけじゃないからな。何かわかったら連絡するように」
と言い残していった。
もう午後4時を回っていた。昼食もとらせずに取調べされていたので腹が減った。買い置きしたカップラーメンを食べて腹が落ち着くと、気弱な井田でも段々と腹が立ってきた。警察のことだから弁護士にでも相談しようと単純に思い立ってスマホで調べてみたところ、札幌の弁護士の多くは中央区に事務所があり、井田の自宅の発寒周辺に弁護士はいないことが分かった。しかし、西区役所の近くに一軒弁護士事務所がある。ここなら自転車でも行けると思い、地図を確認してその事務所へ向かった。アパートを出たとき、外に先ほどの警察車両に似たシルバーの車が止まっていたので、あの二人まだいるのかと思ったが、車種が違っていたので安心した。
弁護士事務所の住所はマンションの一室となっており、部屋の前までいくと、ドアに「浅井法律事務所」という看板が付けてあった。インターホンを鳴らすが、反応がない。何度か押して反応がないので帰ろうとすると、メガネをかけた中年の男が、
「そこは私の家ですが何か用ですか」
と話しかけてきた。その男は黒のスーツに紺色のネクタイをしてニコニコしている。弁護士は無表情でエラそうにしているというイメージしかない井田は、この人、弁護士なんだろうか、と思いながら、
「あの、弁護士に相談したいんですけど」
「ああ、そうですか。予約は……ありませんよね。今開けますのでお待ちください」
スーパーの買い物袋を持ったその男は、鍵を開けて井田を中に案内した。
応接室のような部屋に通されてしばらくすると、さきほどの男が入ってきて、
「ここは自宅兼事務所なんです。弁護士の浅井といいます」
と言って名刺を渡された。井田は、名刺を一瞥すると、胸ポケットに名刺を入れた。
「相談料は三十分五千円ですがよろしいですか」
と説明した。井田は、お金を取るのかと思ったが、すぐに財布を開けて中を確認した。一万円札が見えたので安心して、
「ええ、じゃ払います」
と答えた。弁護士への相談が初めてであるとみた浅井は、
「もし急がないんだったら、弁護士会の無料相談を受けてみてはいかがですか。三十分無料ですよ」
と教えるが、井田は一刻も早く今日起きたことを話したくて、
「いえ、相談お願いします」
と言って財布から一万円札を取り出して浅井の前に差し出した。
「大分お困りのようですね。本来は三十分五千円ですが、今日はこの後、特に予定もありませんので、時間は気にせずお話しください。三十分を過ぎても五千円でいいですよ」
おつりを渡し、領収書を書きながらニコニコと応対する浅井を見ると、井田は安心して話し始めた。
「実は、今日突然会社に警察が来て、財布を盗んだろと言われたんです。あっ、私はタクシー運転手で、昨日乗せた客がメモリーカードを車内に忘れたと言ってきたんですが、そんなものは昨日車内を掃除したときにはなかったんです。それが今日になって急に、忘れたのは財布で、私がそれを盗んだと言われたんです。その後警察に連れて行かれて指紋とDNAを取られて訳の分からない書類にサインさせられ、取調室で怒鳴られ、家探しまでされたんです。もちろん何も出ませんよ。忘れ物なんてなかったんですから」
浅井はメモをとりながら興奮気味の井田の話を聞いていたが、その内容は、にわかには信じ難いものであった。どう考えても警察はやりすぎである。
「それで、どうしたいんですか。」
「何もしていないのに、こんなことされるものなんですか。どうしたい、と言いましたが、何ができるのかこちらが聞きたいですよ」
「相手が暴力団でも普通、警察はそこまでしませんよ。ただ、聞いた限りでは、あなたが、ああ、井田さんですね。井田さんが同意のもとに警察署に行き、捜査に協力したカタチですね。サインした書類はおそらく同意書の類でしょう」
「取調室で怒鳴られ、背中をたたかれたりしましたよ。警察がこんなことしてもいいんですか」
弁護士によっては、「そんなことは警察に言いなさい、私に言われても困ります」などと言い返す者もいるが、接客業の経験のある浅井は、これ以上相手を興奮させないよう気をつけながら、
「そんなことを警察はすべきではないですね。井田さんの怒りはもっともです。私は、警察の対応は間違っていると思います」
と、依頼人に同調する態度を示した。
井田は浅井の方を見て、少し驚いた様子で話しを止めた。この件に関して、初めて自分の立場を他人に分かってもらえたような気がした。浅井は、井田の対応を見て安心して、
「弁護士である私は井田さんの味方のつもりですよ」
「そおっすか。でもさっきの話だと、特に警察には何もできない感じなんですね」
「現状ではね。でも、次からは警察の言いなりになることはないですよ。十分協力したので、これ以上は令状を請求してくれ、と言えばいいですよ」
「分かりました。少し楽になりました。でも、本当に私は何も取っていないんですよ。それに、メモリーカードから急に財布に変わったこともおかしいですね」
「よほど被害金額が大きかったか、被害者が警察に近い立場の人だったのかもしれないですね。普通、自宅の捜索までしませんよ」
その後、雑談を少しして井田は帰っていった。
井田がマンションを出ると、シルバーのセダンが目に入ったので、ギョッとしたが、警察車両ではなかった。少し神経質になっているようだ。運転席を見ると男がスマホをいじっているのが見えた。
気分が少し晴れた井田は、近所のスーパーで焼酎と、いつもより総菜を多めに買って帰宅した。
浅井は、うまく対応したな、おとなしく帰ってくれた、とほっとして風呂に入った。しかし、あの男、井田の話は本当なのだろうか、話の様子から、噓をついているとは思えないし、多少大げさに話していたとしても、警察はやりすぎだ。まあいい。法律相談などめったに来ないのだから臨時収入だ。面倒な依頼の話もなかったからよかった。あの様子では報酬も払えそうにないからな。
浅井は、風呂から上がった後、国選弁護の弁論の起案をしてワインをのんだ。
翌日、浅井は、地裁で国選弁護の判決言い渡しのため、九時少し前に家を出たが、地下鉄に乗る前にスマホを忘れたことに気づき、急いで家に戻った。
家に入った瞬間、大きな違和感を覚えた。何だろうと思いながらも、急いでスマホの置いてある部屋に行くと、部屋が散らかっている。他の部屋は、と振り向いた途端、顔面に大きな衝撃を受け、その場に崩れ落ちた。
くそ、空き巣か、取るものなどないが、仕事の書類が外に出てはまずい、と立ち上がったところ、黒っぽいウインドブレ―カーとキャップの後ろ姿が目に入ったため、後を追うと、気づかれて、その者と正対することとなった。
キャップを深く被っているが、若い男だとわかった。すると、その後ろから、同じような恰好をした中年の男が、若い男の前に躍り出てきて、刃物で切り付けてきた。左腕で顔をかばうようにしたため、左ひじの少し先を切られた浅井は、右半身を前に出し、体当たりして男を押し返した。
思わぬ反撃に態勢を崩した中年の男は、後方にいた若い男とぶつかったため、二人の動きが一瞬止まった。浅井は、ベランダのある部屋に逃げ込み、そこから外に逃げようとしたが、若い男が追いかけてきて、部屋の入口で黒い拳銃を突き出すのが見えた。浅井は、首をすくめるように頭を下げた。その瞬間、男は銃を発砲し、左肩付近に火傷をしたような感覚を覚えた。音が小さい。消音器が付いているのか。浅井の部屋は三階である。落ちても死にはしないだろう、とガラス戸を開け、手すりを乗り越えた瞬間、再び発砲音が聞こえた。夢中で逃げる浅井は、そのまま頭から落下した。
花壇に落下して横たわる浅井に向け、若い男が銃を向けて発砲するが、腹部のすぐ近くの地面に逸れた。中年男がうながし、二人は、浅井が持っていたカバンを持って部屋を出た。そして、お互い少し距離を置きながら、急ぐ様子もなく、マンションの外に出た。その後、ゆっくりとマンションの反対側の車線に停めてあったシルバーのセダンに乗りこみ、二車線の通りに出て車列にまぎれた。
浅井の下の一階には老夫婦が住んでおり、夫の方が、ドスンと何かが落下した音を聞いた。
「何か落ちたぞ」
妻に話しかけるも、妻からの返事はなく、朝の情報番組を見ている。夫は外に出て花壇に少しめりこんでいる浅井を見下ろした。
「おおっ、なんだよ、おい。人が落っこちたのか、人が倒れてる」
と室内をみた。妻は面倒くさそうにこちらを一瞥するが、またテレビの方を向いてコーヒーを飲む。
夫は、まだ生きてるんだろうか、救急車呼ばないとな、と部屋に戻って連絡した。
シルバーのセダンは、手稲区の方向に走り出した。中年の方が、
「お前、何で撃ったんだ」
「顔見られてるでしょ。殺さなきゃまずいですよ」
「銃は捨てねえとな。あいつ頭から落ちてっから死んでるだろ」
といいながらカバンを開け、
「メモリーカードはどこにあるんだ」
中年男が後部座席でカバンの中を探している。
「ないなあ、ポケットに入れてんのか」
「まずいんじゃないすか、それだと」
「社長に連絡しておくか」
救急車は札幌北部病院に向かっていた。救急隊員は意識のない患者を見下ろしている。
「三階からの墜落か。しかし、病院早く決まったな」
「あそこ、付き添いいない患者取らないだろ」
「たまたま空きがあったのかもな」
病院によっては、身内や保証人が付き添わないと受け入れに難色を示すところもあるなか、今回は驚くほど早く受け入れが決まった。
休日の井田は、昨日の法律相談の後、話を聞いてもらえたことで気持ちが軽くなって、発泡酒のほかに、普段は飲まない焼酎も飲んでいたため、目が覚めたときは九時を過ぎていた。
それにしても、と井田は思った。警察に突き出すような真似をした会社は許せない。これ以上、あそこでは働けないな、何か仕事探すか。まずは、コンビニで無料の求人誌をもらおうと外出のため着替えると、インターホンが鳴った。
「お届けものです」
えっ、ネットで何か注文したっけ、と思いながらドアを開けると、突然顎付近を殴られ、次いで腹部を殴打され、声も出せないまま、その場に崩れ落ちた。その後、頭に袋を被せられ、手足を縛られて箱の中に詰め込まれた。ゴロゴロと運ぶ音が聞こえ、車のスライドドアが開く音がした。
車に乗せられると、箱から出してブルーシートの上に転がされ、頭にかぶせた袋を取って、代わりに目隠しをされた。窒息しないようにしたのだろう。こういう配慮をするということは、過去に死なせているのではないか。そう考えると震えで体中の力が抜けてきた。
しかし、一体何が目的なんだろう。ともかく何とかしなければと思い、何度か頭を振り目を開けると、目隠しがずれて、その下の部分から、周囲の様子を見ることができた。運転席と助手席に男がいる。後部座席の下に乗せられたようである。前の男たちはずっとこちらを見ているわけではない。
何かできないかと思うと、ズボンの右ポケットに家の鍵を入れたことを思い出した。そうだ、コンビニに行こうと思っていたんだ。手足を縛ってあるのはガムテープのようである。これなら鍵の先で切れるのではないか。ポケットから鍵を取り出すと、鍵を握って、鍵の先端が指の間から出るようにして少しずつガムテープに当てていった。テープは割と簡単に切れることが分かった。
どれくらい揺られたのだろうか、時間の感覚が分からないが、到着直前に舗装されていない所を走った後、停車して降ろされた。
屋内に入ると、アスファルトの床に転がされた。
「おい、お前メモリーカードどこにやった。弁護士に渡したのか」
中年の男の声である、男はそう聞くと、さるぐつわを外した。
「いや、メモリーカードなんか知らないですよ。タクシーの忘れ物のことを言ってるんでしょ。忘れ物は本当になかったんですよ」
「なんで弁護士のところに行った」
「警察のやり方がひどいんで、そのことを相談に行ったんですよ」
「メモリーカードを渡せば家に帰してやる。渡さなければここで殺す」
井田は言葉が出てこなかった。何を言っても通用しないような気がした。すると、男が歩き出す音が聞こえ、何やら話している。着信があったようである。
「あっ、社長、ええ、そうですか。何も出ませんでしたか。はい、今ここにいます。知らないって言ってますけど、殺して捨ててきますよ。こいつ、いなくなったって誰も何もいわないでしょ。タクシー会社の方には財布ネコババしていなくなったって言っとけはいいでしょ」
話している間に、井田は、まず手のガムテープを切断した。もう一人の男に気付かれないように手はくっつけたままである。電話の相手との話が終わると、もう一人の男と話し始めた。井田は、音を立てずに足に手を回して、一気にテープを切って、手をもとの位置に戻した。
「おい、もう一回だけ聞いてやる。メモリーカードをどこにやった。」
凶器は二人とも見当たらない、すぐには殺せないだろう、とにかく時間を稼ごう。そう考えた井田は、
「なにか、小さなチップみたいのがありましたけど、それなんすかね」
「どこに」
「タクシーの後ろの席の下です」
「何で言わなかった」
「メモリーカードがどんなものか分からないからですよ。それに、メモリーカードじゃなくて財布をなくしたって言われましたし」
「おい、いい加減なこと言うな」
というと、突然腹部を何度も蹴られ、頭部も踏みつけられた。腹をかばってうずくまると、背中を何度も蹴られた。
「なめたこと言いやがって」
さらに顔面を何度も蹴られ、踏みつけられた。目隠しは取れ、鼻血が出ていることが分かる。井田は、しまった、調子に乗って言い返してしまったように受け取られた、簡潔に話したほうがよさそうだ、と思い、
「すいません。あれがメモリーカードだとは思わなかったんです。あの小さな、黒いやつです」
「どこにあるんだ」
「会社のロッカーだと思います」
これで自分が会社に行くことになるだろう、と安心していると、中年の男の方がどこかへ連絡した。
「会社のロッカーにあるんだとよ。えっ、なかった、一度見ているって、 ちょっと待て」
中年男はこちらに歩いてきて思い切り頭部に蹴りを入れた。井田が動かなくなると、何度も頭部や背中に蹴りを入れた。男は、息が切れるほど蹴りを入れた後、若い男に向かい、
「殺せ。あの銃でいい。こいつに持たせとけ。弁護士とは接点がある。相談に行ってトラブルになった後、自殺したということでいいだろう。ケガの跡は、前に捨てた、あそこから転がしておけば分からなくなる」
今度こそ本当に殺される。何も悪いことをしていない自分が、なぜこのような目にあわなければならないのか。死を目前に、井田は、これまでの人生を一瞬のうちに思い出していた。貧乏人でいつもペコペコしていた両親、何一つ楽しいことのなかった学生時代、バイト先で、使えない奴、キモイおっさん等と言われていたこと、そして、自分を犯人扱いした丸刈りの刑事、警察に突き出した主任のことなどを思い出すと、興奮して顔面が紅潮してくるのが自分でも分かるほどだった。そして、一番ムカつくのはここにいる二人である。井田は、ばれないように手足のテープを完全に切った後、頭を動かして周囲を見回した。そして近づいてくる若い男の動きを凝視した。
男は少し前で立ち止まり、黒い銃を取り出した。次の瞬間、井田は飛び起きて銃を持つ手に掴みかかった。若い男は、井田が動けるとは思っていなかったので、一瞬動きが止まったことで、井田に組み付かれてしまった。中年男が走ってくる。井田は銃を掴んで、若い男の手に嚙みついた。男は銃から手を放したが、井田を裏拳で殴りつけた後、前蹴りを入れた。
井田は蹴りをくらって後方に転倒したが、銃を奪っていた。起き上がったところに中年男が走ってくる。井田は銃を向けたが、中年男は躊躇せず近づいて、銃を持つ井田の手に回し蹴りをした。井田は、蹴られる寸前に引き金を引いたつもりだったが、引き金が動かなかった。
井田は、落とした銃を拾い、出口に向かって走り出した。二人の男が井田を追う。死に物狂いの井田は、とにかく遠くに向かって走り続けた。途中、後方からの気配を感じなかったので銃を見ると、グリップの上にレバーがあった。これが映画など出てくる安全装置なのだろうか。井田はレバーを動かして後方を見た。若い男が猛然と追い上げてきた。井田が銃を後ろに向けて引き金を引くと、パーン、と音がして、強い衝撃で銃口が上を向いてしまった。しかし、若い男が足を止めたので、よし、もう一度、と若い男に向かい発砲した。すると、弾が床に当たり、キーンと音がして、若い男の横から走ってきた中年男がその場に倒れた。
「あたった」
どこに当たったかは分からないが、中年男はひじをついて井田を見上げる。若い男は中年男に近寄る。井田は、立射の構えで若い男に銃を向ける。
このとき、井田は、全身が軽くなる感覚を覚えた。暴行を受けた痛みは薄れ、腹の中にあった重いものがなくなったような気がした。この重いものは、これまでの人生で、長い間ずっと井田が感じていたものである。
「おい」
井田は、自分でも驚くくらいよく通る声だと思った。二人は返事をせず井田を見ている。井田は、銃の撃鉄を起こした。この方が撃ちやすそうだ。
「お前の銃を渡せ、あっ、それから車のカギもな」
井田は、二人には聞きたいことがあったが、長引くと何が起こるか分からないので、逃げるための最小限のやり取りをすることにした。
二人は動かない。井田は少し近づいて若い方に狙いを定めた。すると、中年男が銃をこちらにすべらせた。その後、若い男が車のカギを井田の足元に投げた。井田は、二人に銃を向けながら拾う。
「おう、忘れてた。お前らの財布とスマホも渡せ。渡さなきゃ殺すぞ。渡したら後ろ向いて座ってろ。あっ、お前は寝てろ」
中年男に言うと、二人は何も言わず財布とスマホを井田の足元にすべらせた。井田は、自分でも、よくこんな言い方ができるな、これじゃこいつらと同じじゃないか、と思いながらも、この場において、的確な対応をする自分に驚いていた。ここ数日のやり取りで学習したのだろうと思った。
建物の出口まで、時折二人を見ながら歩いていたが、ふと、撃鉄を起こした銃が気になった。
「これ、戻るんだろうか。このまま持っていたら、暴発しそうで危ねえな。一発撃つか」
井田は振り向いて二人を見た。わずかに若い男が動いたので、
「動くなっつってんだろ」
と言って、若い男を狙って発砲した。キーン、と壁か床に弾が当たる音がした。若い男が首をすくめた。発砲したことで撃鉄が元の位置に戻った。
「これで安心だな」
井田はワゴン車に乗り込んで走り出した。
どうやら石狩市内の倉庫にいたようである。しばらく走って路肩に停め、二人から取り上げたものを確認する。
銃は、二挺とも同じ種類のものらしい。グリップに星が書いてある。小さくて扱いやすそうだ、隠しておくか。
車は途中の大きな病院の駐車場に停めておこう。二十四時間開いているから、ほかの場所よりも怪しまれにくい。発見も遅くなるだろう。
途中、Nシステムがあるな。読み取るのはナンバーだけじゃないらしいから顔は隠さねえとな。
スマホは中年男のものはロックがかかっていたが、若い男のものは、ロックはなかったので、その中の連絡先等をメモした後、二台とも指紋をふき取って、電源を切った。スマホの位置情報は、警察が簡単に調べることができると聞いたことがあるので、銃とともに隠すことにした。事故がつきもののタクシー会社にいると、警察の事故処理を通じてたまに内情が耳に入ってくる。警察の中でもペラペラと警察の能力を自慢げにしゃべる者がいるからである。
財布を見ると、中年男のほうは万札が三枚のほかはカード類ばかりである。若い男の方は、財布が大きく膨らんでいる。中には、万札十五枚、千円札四枚が入っていたが、免許証以外、カード類はほとんどなかった。クレジットカードが作れないのだろう。免許証と万札を抜いて捨てる。
「助かった、これで失業保険の待機期間は何とかなる。それに、あいつら、タダじゃすませないだろうから、またくるな。その時にまた財布をいただこう。準備さえしておけばチョロいもんだ」
徐々に興奮が収まり、暴行の痛みが出てきたものの、なぜか心身ともに軽くなったような気がして、ハハハ、と思わず声を出して笑いながら、札幌に向かって車を走らせた。
札幌北部病院の処置室では、院長自ら処置に当たっていた。
「三階から墜落ということだけど、花壇の上だから大したことないな。頭を打って意識はまだ戻らないけど手術はいらないな。すぐに意識は戻るだろう」
検査の画像を見ながら院長が看護師を前に話している。
「ほかは、擦過傷が何か所かあるくらいで大丈夫だな。」
患者が搬送された際、看護師の遠山は、患者の服を脱がせて処置の準備をしたが、服の破れ具合と傷口から、左肩に擦過射創があることに気付いた。当然院長も気付いているはずであるが、これには触れないので、遠山も、落下の際の擦過傷としてみることにした。
院長は、闇社会とのつながりも噂されることがある男である。遠山は、これまで数回、銃創のある患者を見たことがある。しかし、院長から口止めされ、遠山も一切口外しないことから、院長の信頼を得ることとなった。看護師としての長い経験を考慮に入れても、遠山の給料は、群を抜いて高い。この点も遠山は口外していない。
「患者の持ち物はあそこにあった財布だけか?あっ、そう。それじゃ意識が戻ったら教えて」
遠山に指示すると院長は出て行った。
遠山は患者を病室に移した。身内も保証人もないのに受け入れたところをみると、訳ありの患者のようである。顔をみる限り暴力団関係者には見えない。あまり関心を持たない方がいい、今の待遇を失いたくなければ。遠山には別れた夫との間に娘がいる。今の立場にいれば、娘には、不自由な思いをさせることがない。
昼食後、遠山は手術室に呼ばれ、院長とともに処置を行った。救急搬送された患者ではないが、中年の男性で、左足の銃創の処置である。院長は患者のことは一切話さず処置をしている。処置が終わると、遠山を院長室に呼び、
「大変な事情がある患者だ。あなたにも病院にも一切迷惑はかからないから、ほかでは話さないように」
「はい分かっています」
遠山が答えると、院長は、茶封筒を手渡してきた。
「あっ、すみません、ありがとうございます。絶対言いません」
院長室から出た遠山は封筒を開けた。十万円入っていた。もちろん給料とは別の金である。
浅井信弘は、札幌市内の私立大学を卒業後、近所のスーパーに就職した。そこでは、大学二年のころから店出しのアルバイトをしていたが、店長のすすめで、そのまま社員になった。
浅井は、法学部であったが、三流私大からは弁護士になるものもおらず、コネで役所や銀行、電力会社に入った者が、最も優秀な部類として扱われた。裕福とはいえない浅井の両親には、そのようなコネはなかった。このため、最初から就職には何の期待もしていなかった。
給料は安く、最低賃金に労働時間を乗じたものが基本給となっていた。残業をしても、ほとんど手当は付かず、休日も発注作業のために二時間程度店に出ていた。もちろん無給である。ボーナスは、冬に何度かもらったことがあるが、多くても五万円程度であった。
たまに、学生時代の友人と飲む機会があり、周囲との収入差に驚くこともあった。しかし、井田には借金がなく、車も持っていないので生活に困ることはなく、転職して収入を上げようという考えは持たなかった。三十歳を過ぎても待遇はほとんど変わらなかったので、周囲との収入差は広がるばかりであった。そのうち、話が合わなくなってきたので、学生時代の友人とも疎遠になっていった。
趣味のない浅井は、退屈な日常に飽きてきた。そこへ、全国展開する大手小売りによる買収の話が持ち上がった。井田の勤務するスーパーは札幌市とその周辺に数店舗ある小さな会社であったが、買収により、札幌市内の二店舗を残し、整理することとなった。従業員は、ほとんどパートとして残ることになったので、雇用は維持されたうえ、ほぼ全員の待遇が改善された。
井田は、パートではなく、社員としての身分を希望した。社員となれば、全国転勤がある。ほとんとの従業員がパートを希望したのは、道外に出たくないからである。しかし、井田は、現在の生活に全く刺激がなかったので、道外に出てもよいと思った。もし転勤となれば、道外に出るのは修学旅行以来である。
「浅井くん、内地になるかもしれないけどいいの?」
希望を伝えた際、店長に念を押された。店長は、扱いやすく、若い浅井を重宝していた。
「内地じゃなく道内の店かも知れませんよ。まあ、どこへ行くかは分かりませんからね」
浅井は、本州への転勤は、東京や横浜を想像していた。
浅井は、富山へ向かう機中にいた。最初、富山県と言われたとき、どこか分からなかった。店長は、外部の者を自主的に辞めさせるために田舎に飛ばしたのではないか、と言っていた。そうかもしれない。しかし、浅井は、全く不満はなかった。
まず、待遇が大きく改善された。これまでのような労働基準法に違反するような取り扱いは一切なくなった。したがって、残業代が全額支払われ、休日に発注のため店に出ることもなくなる。そして、勤務態度による、との説明があったものの、一年後には基本給が大きく上がるだろうとの話があった。社員の浅井だけでなく、パートとして残った従業員も大幅な昇給がなされた。
やはり大きなところは違う。どんなことをしても大手企業や役所に入り込もうとしていた大学時代の友人の気持ちがよく分かる。自分は、三十を過ぎてようやく社会のことを少し理解したようだ。二十歳過ぎでこのことを分かっていた友人たちは立派だ、と自らの視野の狭さを自覚した。
浅井は、富山市内にある大型店舗の食品売場に配属された。日配品の担当である。日配品は、ハムソーセージを含み、アイテム数が多く、回転が早い。しかし、水産、畜産の作業を除き、全ての売場をほとんど一人でみていた井田にとっては、それほど大変な作業には感じなかった。
売場は、多くのパートによって分業化され、日によっては、浅井は、ほとんどデスクで数字だけを見ていればよいときもあった。
「こんな世界があるとは。今までの約十年間は何だったんだろう」
若いときの、人生で最も貴重な時間を無駄にしてしまった。取り戻さなければならない、と浅井は思った。
パートをはじめ、同僚は、親切に教えてくれたし、時折職場にくる労働組合の幹部が、浅井の顏を見るたびに困ったことはないかと聞いてくれた。浅井が若かったというのが大きいかもしれない。そして、職場にもなじんできた一年後、隣県の石川県金沢市内の大型店に異動になった。前の店長が言う通り、慣れる前に、よそに飛ばして、退職を促しているのかとも考えたが、変化を求めていた浅井は、苦にはならなかった。
富山の店に比べると、パートがやや怠惰であったが、仕事は大して苦にならなかった。しかし、地域の特性には驚くことが多かった。富山でも思ったが、石川県の役所の態度は、札幌の区役所職員が聖人君子に思えるほどであった。たまたま対応した中年女性職員がそうだっただけかもしれないが、丁寧語を使わない。市民を目の前にし、他の職員相手に堂々と「面倒くさい」という。また、方言なのだろうが、口のきき方が、腹が立つ。方言に慣れるのにかなり時間がかかった。
あとで、地元出身の畜産の主任に聞いたが、住人は、官尊民卑の考え方が抜けないそうで、役人をやたら有難がり、役人も自らを「お上」だと思っているそうである。時代錯誤とも思えるが、あり得るかもしれない。
金沢に異動後、半年もしないうちに、東京からきた農産売場の主任が千葉に異動になった。奥さんが外に出られなくなったそうで、「ここでは働けない」、との申出があったそうである。近所の住人が原因とのことであるが、前に、農産の主任が、
「こっちの人おかしいよ。嫁さん外に出らんなくなって体調くずしちゃったよ」
と言っていたのを思い出した。職場と家の往復だけの浅井には、近所付き合いで問題となることはなかったが、従業員の希望を聞いてくれる会社であるということが分かったので、やはり大手は違うな、と現在の地位の有難みを改めて感じることとなった。
金沢市は、地下鉄がなく、バスは本数が少ないため、自家用車がなければ生活できない。待遇が著しく改善された浅井は、貯金も増えてきたため、車を買うことにした。札幌に転勤になることも考えて、小さめでもいいので、四駆を買おうと思い、近所の最も大きなディーラーに行ったが、さんざん待たせた上、出てきたつなぎの服の男が、「忙しいのに」などと言っていたので、買う気が失せて黙って店を出た。
浅井の家ではずっとトヨタ車だったので車はトヨタしかないと思っていたが、別に何でもいいや、と全国チェーンの中古車屋に行くと、対応した三十代くらいの男が、ノートパソコンで、こちらの希望する車種の写真と値段を次々と見せ、十分もしないうちに決まってしまった。五年以上経過した白の四駆だったが、無事故で安く、きれいな車だった。
車を運転するのは、札幌での配達以来となるので、久しぶりである。札幌のように飛ばす車は少ないが、とにかく信号無視が多い。赤に変わっても数台猛スピードで突っ込んでくる。パトカーまで突っ込んできたことがあったので、これが普通なのだろう。何でも地方の特色があるものだ。それでも、街中に警察官が隠れているのには閉口した。戦争映画で出てくる戦中のドイツのようである。納車の翌日には一時停止違反で反則金を支払うことになってしまった。グロッサリーの主任の話では、まだそれはましな方らしい。主任が経験したのは、妻が怒り出すほどひどいものだったという。主任が妻と小さな子ども二人を乗せて買い物に出かけたところ、突如警察官が車の前に飛び出してきて道を塞ぎ、
「シートベルトの確認」
「えっ、みんなしてますよ」
「チャイルドシートのことを言うとるんですよ」
と、若い警察官は、一歳になったばかりの女の子を指さす。信じられないといった様子で、妻がかけてあった毛布を外すと、きちんとベルトは閉めてあった。窓を開けて、毛布を外されたので女の子は目を覚まして泣き出した。中を見た警察官が、
「ああ、もういいですよ」
「ちょっと、ひどくない」
妻が言うと、もう一人の中年の警察官が来て、
「どうも。シートベルトちゃんとしてあったので、もう行ってください」
とあごをしゃくって促す。車を発進させると、妻から、こんなところに居たくないから、横浜に帰れるようにして、と頼まれたという。主任の話では、他県ナンバーを狙いうちにしてるのではないか、とのことであった。
北陸地方にきて戸惑うことも多かったが、所変われば品変わる、地方はどこも似たようなものなのだろうと思うことにした。地域との接点が少なく、一日の大半を職場で過ごす、独り者の浅井は、豊かで自由な生活を謳歌していた。
転機が訪れたのは、金沢市に転勤になって半年後のことである。疎遠になっていた大学時代の同級生から連絡が入った。
「おう、浅井か、俺だよ。本田だよ。」
「えっ、本田か、何年ぶりだろう、どうしたんだよ」
「お前今何やってんだよ。スーパー潰れたみたいだけど」
「なんだよ、そんなこと聞きに電話したのかよ。今、金沢にいるんだよ。石川県の。石川県って言っても分かんねえだろうな。スーパーは潰れたんじゃなくて、合併されたんだよ。今そこにいるんだよ」
「ああ、そうか、じゃあ、まだスーパーなんだな。実は俺ね、今年司法試験に受かったんだよ」
あまりに唐突なので、言葉を失った。勉強していたという話も聞いたこともないし、そもそも本田は、そんなに頭がいい方ではなかった。
「来年には研修終わって弁護士になってっから、もし何かあったら、俺に言ってくれよ」
「お前勉強してたのか。難しかったろ」
「卒業してしばらく民間にいた後、大学の法科大学院に行ってたんだよ。難しいのは難しいけどな。お前もやれば何とかなるんじゃない。じゃあな、まあがんばれよ」
あの本田が司法試験に受かるとは。そういえばあの大学、法科大学院ができたって話は聞いてたな。しかし、あんな三流大学の大学院からでも合格するのか。浅井は、なぜか落ち着かなかった。本田は、おせじにも頭がいいとは言えない男である。何度も単位を落とし、追試を受けている姿を見たことも一度や二度ではない。卒業間際には、手土産を持って教授の部屋へ行くところも見ている。あいつ、確か親は歯科医か何かだったな。学費と生活の心配はしなくてよかったのか。しかし、本田が受かるのなら、と思い、司法試験について調べてみることにした。
弁護士になるには、法科大学院以外にも、予備試験に合格するという方法があることが分かった。仕事がある以上、大学院には行けないから予備試験しかないな。浅井は、書店に向かった。浅井の行動は早かった。本田と話した後、心に立った波風が収まらず、じっとしていられなくなった。時間はある。今の職場になってから残業はほとんどない。繁忙期には臨時のアルバイトで対応しているくらいホワイトな職場である。そして、週休二日に加えて、夏季休暇、さらに年次有給休暇の消化を求められている。無趣味な浅井は、テレビを見る以外、することはなかった。
早速問題に当たってみる。短答式試験はいわゆるマルバツ式試験であるが、思ったより易しく感じた。一応法学部を出ているので、何を言っているのか分からない、ということは少ない。論文式試験は、丸暗記が必要な部分が多かったので、長い目でみながら勉強する必要があると感じた。
約半年後に試験があった。一割程度得点が少なく、不合格であったが、来年は必ず合格できると確信が持てた。仕事をしながら半年程度でここまで取れたのである。それに、あの本田でも合格するような試験である。時間さえかければなんとかなるだろうと思った。同じ年に、昇進試験があり、主任となった。店舗を動かず、そのまま、担当していた日配の主任になり、仕事はますます楽になった。
その一年後、短答式試験は、九割近くの得点で合格した。しかし、これは足切り試験であり、本番は論文式といえる。すでに仕事になれている浅井は、休憩時間にも丸暗記する作業を繰り返していたので、自信はあった。直前には有給休暇も取得するなどして、万全の対応をしたつもりであった。その結果、下から数えた方が早いくらいの成績であったが、合格した。口述試験は、丸暗記したことが聞かれることも多く、多分大丈夫だろうと思った。これで不合格なら、合格者は、どんな人間なんだろうと思ったくらいである。
予備試験は無事合格した。司法試験は、短答式の範囲が狭い分、予備試験より作業量が少なく感じていたので、論文式の点数の低かった、刑事系に注力すれば合格するだろうと思った。
本田からは、札幌市内の法律事務所に就職したという挨拶状が届いた後は、年に数回、電話連絡があった。
「まだ北陸でスーパーの店員やってんの。札幌には戻れないのか。帰るときは電話してくれ。」
最初のうちは、本田のくせに生意気なことを、と思っていたが、何度かやり取りする間に、悪気がないと感じられるようになった。ほかに本音で話せる者がいないのだろう。彼なりに、苦労することが多いとみえる。
本試験は、予備試験に比べるとそれほど難しさは感じなかった。予備試験に合格したという自信と、これまでの数年にわたる学習があったからだろう。
司法試験には合格した。司法修習所入所申込期間は短く、退職の決断が求められた。浅井は、検討するまでもなく退職することとした。現在、札幌のスーパーにいたころの約二倍の収入の得ており、休日も多い。大手企業の正社員ということで社会的信用も高く、クレジットカードはゴールドカードである。そのカードは、申し込んでもいないのに、しばらくすると限度額は大きくなっている。
浅井は、経済的な安定を手に入れたが、変化を求めて札幌を出たこと、思ったより自分に様々な能力があったこと、もう四十歳近くになるが、イメージしていたアラフォーより若く感じられることなどから、後から考えても妥当な判断だと思った。
本田に連絡すると、
「えっ、本当かよ。いつ勉強してたんだよ、マジかよ……」
と言ったきり、黙ってしまった。何となく本田の気持ちを察した浅井は、電話を切った。本田との付き合いもこれまでか。あいつのおかげで合格したようなものなんだけど、そんなことも言えねえしな。
浅井は札幌に戻ることとした。
修習後、年齢的に就職は難しかったため、最初から独立することにした。大きな仕事は無理だろうから、弁護士会の法律相談や国選弁護の仕事でなんとかしのいでいこうと思った。
「浅井信弘、弁護士か」
という声が耳に入った。
「身分証がある。寝てるのか、違う?意識は戻るのか」
白衣を着ていない男が太い声で話している。
「ちょっと待て、ああ、大丈夫ですか」
白衣の男が、もう一人の男を制して浅井に話しかける。もう一人の男が病室から出ていく。
「目が覚めましたか。大丈夫ですか」
浅井はうなずいた。
「何か覚えていますか」
浅井は、目を開けた瞬間、足早に部屋を出た男に不自然さを感じた。
「いやあ、よく思い出せませんね」
「けがをしたときのことも思い出せませんか」
「ええ。全然」
「そうですか。お名前は。住所やお仕事のことなど分かりますか」
「浅井です。浅井信弘です。住所は……」
「今は無理しなくてもいいですよ」
「はい。西区です。自営業、弁護士をしています」
「それで、けがをしたときのことは分からないんですね」
「はい。どこをけがしたんですか」
「思い出せませんか。まあ今は痛みはないということですね。さあ、今日はゆっくり休んでください。何か思い出したら教えてください」
「はい」
そう答えると、白衣の男は部屋から出て行った。
浅井は、目を覚ました瞬間全てを思い出していた。そして、すぐに部屋を出た男を見て何か大きな違和感を覚えた。あの男は医療関係者とは思えない。とっさに浅井は、記憶がないことを装った。あの男と白衣の男は間違いなくグルである。まずは、早くここを出なければならない。
看護師が入ってくる。浅井は体を起こす。
「無理しないでくださいよ。何か思い出しましたか」
「いえ、けがしたときのことは何も覚えていないです」
「ああそうですか。けがは大したことないですからね」
「すみません。あっ、治療費ですが、預金を下ろしてきちんと払いますので。迷惑をおかけします」
「いえ。後で書類を持ってきますね。では食事にしましょうか。食べれますか」
「はい」
食事の後、さきほどの看護師が点滴を外して、
「もう一晩泊まって、明日の診察の後、退院になると思います。すみません、では、この書類を書いてください」
治療、入院に関する書面を渡された。
翌日、昨日の白衣の男と看護師が来て診察を行った。
「気分はどうですか。痛みは。何か思い出しましたか」
「いえ、けがをしたときのことは思い出せませんね。窓から落ちたんですよね。あそこ、ちょっと古いんで手すりが低いんですよね」
「ええ、落ちたとき少し頭を打ったんでしょうね。軽い記憶障害かもしれませんね」
「その程度で済んで助かりました。先生、ありがとうございます」
そう言うと、浅井は、白衣の男と看護師に深々と頭を下げた。
「大丈夫そうだな」
院長は遠山にたずねた。けがのことを言っているようではなさそうだ。
「夜間も特に変わった様子はなかったですね」
「ああ、ごくろうさん」
院長は遠山を院長室から退出させた後、電話をかけた。
「あっ、俺だよ。あの弁護士、浅井だけど、何にも覚えてねえみたいだな。まあ、嘘を言ってるようにはみえねえけどな。それから、メモリーカードの類は持ってなかったな。持ち物は全部見た。スマホの中にも入ってなかった。今日退院だよ」
荷物をまとめた浅井は、ナースステーションを通り過ぎる際、深々と頭を下げ、
「ご迷惑おかけしました。お世話になり、ありがとうございます」
と言って会計のあるフロアに歩いていった。支払いの際も丁寧にあいさつをしてタクシーで帰っていった。自分は、何も覚えていない。不注意から、落下してしまったことで周囲に迷惑をかけてしまった、という人物にみられなければらない。そういう思いで記憶の欠落を装ってきたが、うまくやったという手ごたえがあった。これは身を守るというためだけではない。この件については徹底的に調べ上げて必ず借りを返さなければならない。奴らの手際の良さから、今頃犯行現場の証拠隠滅など、後始末を終えていることだろう。こうなっては、警察の捜査は期待できない。警察は、現行犯でもない限り、世間の耳目を集めるなど、よほどの事情がない限りまともに捜査をしないことは経験上よく知っている。
丁寧に礼をする浅井の態度は、遠山の目に入っていた。やはり何か問題を起こした人には見えない、と遠山は思った。
事務所のあるマンションまでは行かず、区役所の近くでタクシーを降りた。タクシーが走っていくのを見送ると、周辺の様子を見ながらマンションに向かった。特に不審な車両や人物は見当たらなかった。部屋に戻ると、元の状態ではないものの、片付けた様子であった。これでは、警察に通報したとしても信じてもらえないだろうな。浅井は、一件連絡を入れて、外にでた。
そこへ、着信があった。見ない番号である。
「浅井です」
「ああ、浅井さん、弁護士の浅井さんですよね。前に相談した井田ですが、浅井さん大丈夫ですか」
浅井は、声の調子が違う、本当に井田だろうかと思いながら、
「ああ、井田さんね、どうしました」
「いや、ちょっと、相談した次の日に色々あって、浅井さんのことも耳に入ったものですから心配して連絡したんですよ」
声の感じが何となく違う気もするが、確かに井田だ、何か知っているのかもしれない。
「そうですね。こちらも少しあったものですから、会って話しましょうか。事務所は今使えないんで、そうですね、井田さん発寒でしたよね、近くのショッピングモールのフードコートはどうですか」
「分かりました。これから向かいます」
フードコートで井田を探していると、後ろから、
「浅井さん」
と声をかけられた。振り返ると、ニット帽を深く被った井田であった。ハンバーガーショップでコーヒーを買うと、井田は、入口の方を見渡せる場所に席を取った。井田はほんの短時間の間にすっかり様子が変わった。相談にきたときとは別人のようである。浅井は目を見張った。
コーヒーを一口飲むと、井田は、入口の方に気を配りながら話し始めた。まずは、部屋で拉致されてからのことを話した。そこで、拉致した二人が、浅井のことに言及したことも説明した。
浅井は、銃の話には驚いたが、井田を疑うことはなかった。隠し場所も聞くこともなかった。浅井は自身に起きたことを話した。どうやら襲撃者は、井田が浅井にメモリーカードを渡したと勘違いしているようである。
「その客のことは覚えていますか」
今回の一連の出来事の発端となったのは、すすきので井田が降ろした客の忘れ物である。
「ええ。チップをもらったことと、忘れ物の申出があってすぐに思い出したことで、今でもはっきり覚えています。信じられないだろうけど、客商売をやっていると覚えているものなんです」
浅井も客商売といえば客商売である。井田の言うことはよく分かる。浅井は大きくうなずいて、
「まだ危険が去ったとはいえないようですね。これからは、協力して対応していきましょう。ところで仕事の方はどうですか」
「何もやってないのに警察に突き出すような真似をする会社では働くつもりはないですね。退職してしばらくは失業保険で生活するつもりです。二種免許があるんで、他でもすぐ働けると思うんですよ。だから先のことは心配することはなさそうな感じです」
「今マンションに盗聴器がないか調べさせてるんですよ。終わったら井田さんとこに行かせますよ。いや、お金はいいですよ」
浅井は、井田は、生命の危険を乗り越えたことで、相談に来たときのように、オドオドしたところが認められなくなったと思った。彼は使える。
「それは助かります。私は、客の顔も、さらった奴の顔もはっきり覚えてます。多分浅井さんところに来た奴と同じでしょう。一緒にやりましょう」
協力者を得たと思い安心した浅井は、急に腹が減った。
「何か食べましょう。私が出しますよ。井田さんがいて心強いですよ」
二人は味噌ラーメンに餃子を食べた後、今後の対応策を話し合った。再び奴らが仕掛けてくるとの認識で一致した。さらに、井田は、奴らと自分を取り調べた警察官はグルなのでは、という考えを述べた。浅井は、短期間の間で井田と浅井に起きたことを考えると、井田のいう通りである可能性が高いと判断し、
「そう考えたほうがいいでしょう」
と同意した。井田は、自分の考えを認めたことで浅井を信用した。浅井もまた、大きく変わった井田を見て、この男は本当は優秀なのではないか、能力を発揮する機会がこれまでなかっただけなのだろう、と思った。
盗聴器は二人の自宅からは出なかった。二人は、襲撃にそなえつつ、調査を進めた。手掛かりとなるのは、二人組から奪った免許証及びスマホの連絡先である。連絡先に「社長」という番号がある。今回の黒幕の一人かもしれない。
井田の行動は早かった。まず、免許証の住所に行った。免許証では、中年男が江口で、若い男が浜本である。二人とも住所は南区である。二人のアパートに着くと、監視カメラがないことを確認し、ボイスレコーダーを置いてきた。その後、警察署前で待ち、その日のうちに、井田を取り調べた丸刈りの後を追尾して住所を確認した。表札には丹羽と書いてある。
浅井は、打ち合わせの通り、尾行がないことを確認した後、ショッピングモールのフードコートで待っていた。井田は、少し遅れてやってきた。
「聞き取れるかどうか分からないが、二人のアパートにボイスレコーダーを置いてきた。丸二日以上録音できるので、何か分かるかもしれない。もう何台か必要かもしれん」
やや興奮気味に話す井田を見て、浅井は、井田は会うたびに成長がうかがえる、と思った。それでも敵の正体を突き止めるにはしばらく時間がかかると考えていた。そして、井田の収入等を考えると、井田に金銭的な負担をかけるわけにはいかないとも思っていた。
「一応弁護士をやってるから少しだけ金がある。今のボイスレコーダーみたいに、必要なものがあったら、これを使ってもらいたい」
井田に、二十万円を封筒に入れて渡した。井田は中を見て、
「ふむ、しかし」
「使ってくれ。井田さんの動きは私の動きでもあるからな。出すのは当然だ。そして、くれぐれも危険を避けるようにしてほしい、奴らは人殺しの経験がある、というか慣れていると言ってもいい。それに対応するため、時間を見つけて行ってほしいところがある」
浅井は、元自衛官で、畑をつくりながら週末のみ空手を教えている宮崎の連絡先を教えた。札幌のスーパー時代の店長の友人である。
「逆恨みでチンピラに狙われていると言ってある。宮崎さんは空手と言っているが、自衛隊の徒手格闘のようにも見えたな。どちらにしても、今の状況では必ず役に立つ」
このほか、まだ直接に相手と接触はしないこと、今は情報収集にとどめること、危険な行為をしないこと、などいくつか打ち合わせをした後、周囲を確認して帰宅した。
浅井は、井田から渡された連絡先などを調べることにした。しかし、連絡先はほとんど携帯電話のもので、氏名と同様、インターネットで検索しても得るものはなかった。次に札幌北部病院についても調べることとした。浅井の意識が戻った際の医師の言動に不審な点が感じられたからである。
これについては、インターネット上で、いくつか引っかかるものがあった。まず、ブラックな職場であるということである。退職した職員による書き込みであろう。次に、裏社会とのつながりの噂があった。一見してそれと分かるような連中が頻繁に見かけられた時期があったという。これなら、あのときの医師の不審な言動も説明がつく。部屋から出て行った男は、そういう人物なのだろう。書き込みのなかに、北星竜興業という団体名が出てきた。初めて具体性のある情報である。
暴力団であった同団体は、すでに解散していたが、インターネット上では、名前を変えて株式会社北星竜企画として活発に活動しているとのことである。「社長」と呼ばれていた者は、ここの社長であろう。浅井は早速、法務局でその会社の登記簿謄本を取った。
代表取締役社長は野村という男だった。住所も連絡先も分かった。明日の打ち合わせに向けて、少しでも資料を獲得すべく現地の確認もしてきた。その後、少し時間があったので、新琴似の宮崎宅に行って、自分も格闘技を少し身に付けようと思った。
「宮崎さん、どうもお世話になります」
浅井は、酒を宮崎に渡した。
「おう、わざわざすまんな。お前、ひさしぶりだな。すげえな、弁護士になったんだってな」
「ええ、ひまだったんですよ」
「ああ、連絡のあったあいつ、ええと、井田だっけ、来たぞ。結構筋がいいな。ん、お前もやるのか」
「ええ、仕事柄人に恨まれやすいんで」
「分かった。じゃあ、護身術を中心にやろうか」
刃物を持った相手への対応方法を中心に、空手の突き、前蹴り等の基本的な技から柔道の払い腰、大外刈りなど効果の大きいものを教えてもらった。同じ技を繰り返して、体で覚えるように、との指導があった。
翌日、浅井は午前十時前の判決言い渡しが終わると、井田との打ち合わせに向かった。弁護士の仕事は、しばらくは新たには受けないことにした。
「社長の正体がわかった。多分こいつだ」
登記簿謄本を見せ、周辺の写真を見せた。搬送された病院からたどり着いた旨説明した。
「えっ、札幌北部病院?」
井田が車を乗り捨てた病院である。
「この病院も何か関わっているな。俺を診察した医者は、部外者を病室に入れるくらいのことをする奴だから多分院長だろう」
「しかし、一番大きな問題が全く分かっていない。メモリーカードだよ。間違いなく忘れ物はなかった。その、ないものが出発点となって今回の件につながっている。そして、銃の発砲があるにも関わらず、警察が全く動かないところだ。やはり警察もグルだ」
警察の取り調べに異常さを感じていた井田が言った。浅井も、確かに警察は異常な対応だと思った。警察と反社会勢力とのつながりは昔からあった。しかし、それは、警察による情報収集の便宜のためという理由があった。しかし、本件はそのような理由があるとは考えられない。
「メモリーカードについては調べる必要がある。しかしどうする」
井田がたずねると、浅井は、少し間をおいて周囲を見渡してから話し始めた。
「奴らは、我々をタダでは済ませない。顔を見られているからな。病院では記憶喪失のように振舞ったが、いつまでも騙すことはできないだろう。そして、いずれ必ず襲われる。今度は確実に殺しにくるだろう」
井田も同じ考えである。浅井は続けた。
「そこで、社長の子分どもからの襲撃をやめさせ、メモリーカードについての情報を得るという方法がある」
井田は驚いた。そのような方法があるのだろうか。浅井は弁護士だから、何か有効な法的手段を思いついたのだろう。
「ただし、少し準備が必要になってくるし、多少のリスクもある」
「殺されることを考えればそれもしょうがないだろう」
井田は答えた。そして、話の続きを促した。
「あれから数日経ってるし、奴らの方も準備をしているところだろう。だから、まずやることは、今日荷物をまとめてしばらく家には戻らないことだ」
それはそうだ。今日にも襲われるかもしれないことを考えると、妥当だ、井田は思った。
「それから……」
浅井の考えを聞くと、井田は、さっきとは別の意味で驚いたが、それしかないかもな、と思った。
社長の野村がクラブを出たのは、午後十時を過ぎてからだった。タクシーで帰宅し、マンションに入ろうとすると、男が小走りで近寄り、顎付近を殴打され、次いで、腹部を殴られた。その場にうずくまると、裸絞めの状態で引きずられ、ワゴン車に引きずり込まれた。
車は小一時間程度走った。野村は廃屋の中に連れ込まれた。
「おい、野村」
さるぐつわをかまされ、手足を縛られて座らされた野村に向かって浅井が尋ねた。
「メモリーカードは誰に頼まれた」
野村は返事をせず、浅井をにらみつけている。浅井は、野村の顔面に、助走をつけて前蹴りをくらわせた。倒れた野村は浅井を見上げる。
「しゃべる気にならねえか。それじゃ、しょうがねえな」
浅井はナイフを取り出すと、逆手に持ちかえて野村の大腿部を突き刺した。
「うう」
野村は唸り声をあげる。井田は驚いて浅井を見る。浅井はニコニコしながら野村を見下ろす。野村は浅井を見上げ、首を縦に何度も振った。
「話すってのか、おい」
浅井が尋ねると、野村は何度もうなずく。
「よし、話せ。ああ、それから念のために言うけど、大声を出したり、余計なことをしたら殺すぞ」
そう言うと、浅井は笑みを浮かべながら、ナイフで野村の顔面に向かってナイフを突き出した。野村はのけぞったが、ナイフは野村の頬を軽く切った。浅井がさるぐつわを緩めると、
「頼まれたから仕方なくやったんだよ。どんなことをしても取り返せって」
ここまで聞くと、浅井は、ナイフで、もう片方の大腿部を思い切り突き刺した。
野村がうめき声を上げるのも気にせず、
「おい、野村、お前誰に向かって口きいてんだ。いい歳して目上の者に対する口のきき方も知らねえのか」
井田は、浅井の姿に驚きながらも、野村の突発的な行動に対処すべく身構えた。野村は黙って浅井を見上げる。浅井はナイフを再び逆手に持ちかえた。その様子を見て、野村が急いで話し出す。
「あの議員の澤田に頼まれたんです」
「澤田ってのは道議会議員の澤田か」
「ええ、そうです」
「何でメモリーカードがいるんだよ。何が入ってんだよ」
「それは分かりません」
「なにい」
浅井がナイフを持って近づく。
「本当なんですよ。澤田にとってヤバいものらしいけど、中身までは言わなかったんですよ。本当ですよ」
「何でそんなものがあるんだよ」
「分からないですよ。脅されたらしいですよ。メモリーカードが欲しかったら五百万払えって」
「それでどうしたんだよ」
「自分に頼んできたんですよ。何やってもいいから取り返せって。今回は失敗は許されないって言ってましたね」
「誰がやったか分かったのか」
「いえ、そいつは約束の場所には来なかったんですよ。タクシーの中に落としたって言って」
「それで」
「タクシー会社がどこか教えて欲しかったら百万円払えって連絡があって、払う約束だけして澤田は払わなかったみたいです。それで、そいつがタクシー会社を教えてやるから、後はそっちで探せって言ってそれっきりです」
「ドライバーの家に警察が来てたぞ。お前のツレか。そのお巡りの名前は」
「そいつは澤田が手を回したんですよ。俺は警察に顔がきくからとかいって」
「お前、俺が誰か分かるよな」
「はい」
「俺んとこにきたオッサンと若いヤツはお前んとこのモンだろ」
「はい」
「もう来させるな。タクシードライバーの方にもだ」
「はい」
「はい、じゃない。今すぐ連絡しろ。あ、それから慰謝料忘れるなよ。一人一千万だから二千万持ってこさせろ」
「えっ、そんな金」
「お前んとこ金貸しもやってんだろ。だったらそれくらいあるだろ。これで助かるんだから安いもんだ。お前の命そんなに安いのか」
「わっ、分かりました」
「すぐ来させろ。車二台で来て、一台に金を置いて帰らせろ。すぐだ。あっ、足の傷が気になんのか。金届いたら直してやるよ。札幌北部病院でいいだろ」
浅井は、手をほどかず、取り上げたスマホをスピーカーにして連絡させた。
「おう、俺だよ。大口の客がすぐに二千万いるって言っているから持ってこい。場所は」
浅井はメモを見せた。
「あそこの病院の横の駐車場だ。お前らは顔みなくていい。俺の個人的な客だからな。置いたらすぐ帰れ」
その後、浅井は、何枚かの書類にサインさせ、組関係の情報を聞き出した後、澤田とのつながりを詳しく尋ねたほか、議員や警察の知り合いの名前などを聞き出していた。
病院から帰ってきた井田は、浅井に、金があった旨伝えた。浅井は、野村の方へ歩いていった。
「おい、もういいぞ。あの二人に迎えに来させろ。来たら一言謝らせるんだよ」
浅井は、野村に、近くまできたら道を教えるよう指示した。夜間ということもあり、到着は早かった。外に車の音がした。外で、異常時に備え、待たせている井田からの連絡はない。つまり二人しか来ていないということである。
浅井は外に出た。車から江口と浜本が降りてくる。江口が浅井と顔を合わせ、思わず「あっ」と声を上げる。次の瞬間、井田が背後から江口の後頭部を力いっぱい殴打する。同時に浅井が銃を浜本に向け、
「おい、俺を覚えているか」
と、尋ねると、浜本は一瞬固まってしまった。
「このクズ、死ね」
浅井は、浜本に近づき、至近距離から体の中心めがけて発砲した。浜本は、声もなくその場に崩れ落ちた。次に、倒れている江口に近づき、同様に腹の真ん中に銃を突きつけ発砲した。井田は、浅井の一連の行動を見て動きが止まってしまったが、すぐに銃を取り出し、建物に入っていく浅井の後を追った。
浅井は、一直線に野村に向かって歩く。さるぐつわを再びかまされた野村は、唸り声を上げながら必死に体を動かしている。
「おい、今まで人にやってきたことだろ。何を驚いているんだ」
浅井は、目の前で立ち止まって、笑いながら野村に銃を向ける。野村は顔を紅潮させて浅井に向かい、唸り声を上げる。
「ははは、何言ってんだよ」
浅井は、腹の中心に向けて発砲した。野村はゆっくりと倒れた。
「ようし、全員心臓に当たって即死のはずだ。念のため脈を確認して持ち物を取り上げるぞ。銃を三人に握らせて指紋をつけるんだ」
二人は作業にとりかかった。三人の遺体は、「森の住人に始末してもらおう」との浅井の提案により、山中に捨てることとした。
二人は琴似駅近くのビジネスホテルに部屋を取っていた。近くのコンビニで買ったワインで祝杯を上げた後、社長たちから奪ったものを確認した。
「二千万ちゃんとあるな。銀行には預けず、少しずつ使ってくれ。一応何か仕事に就いていたほうがいいな。あてはあるのか」
百万円十束をコンビニの袋に入れて井田に渡した。井田は、初めて見る大金を眺めながら、
「ほかのタクシー会社にでもいくよ。失業保険もらったらな」
「あいつらの現金も使ってくれ。それから銃はまだ弾が残っているが、いい隠し場所があったら頼む」
「それは任せてくれ」
「今回使った手袋や服、靴は全部処分しなければならない。これも一度に全部買い揃えないよう気をつけてくれ」
「ああ」
財布から抜いた万札十数枚をもらいながら井田が答える。しかし、と井田は思った。この人、本当に弁護士なんだろうか。頭打って別な人格になってしまったみたいだ。
浅井は、別のワインを開けながら話す。まだ酔っている様子はない。
「まだ終わってはいない。澤田が警察を使ってまた井田さんのところに来るかもしれない」
「それはあるかもしれないな。あの丹羽とかいうお巡りは、まともじゃない」
「澤田とそのバカお巡りも黙らせたほうがいいな。澤田にはメモリーカードの中身を聞かなければならない」
「何か考えがあるのか」
「少し面倒で時間はかかるが、やってもらいたいことがある」
井田は、多少の不安はあったが、浅井のプランは確実な成果をあげているので、信用することとした。
署長室では、開封した封筒と内容物を並べて幹部職員が鳩首会議を行っていた。
「おい、覚せい剤で間違いないのか」
「反応が出ています」
「丹羽は生安部長の推薦があったヤツだ」
「署長の責任問題にはならないでしょう。生安部長は澤田議員の同級生だ。北大法学部のな」
「一緒にいる本谷は大丈夫なのか」
「本谷に触れる内容はありません」
「念のため本谷は外しとけ。こいつの回りはどうなんだ」
「本谷は、親が道職員です。出先の係長です」
「丹羽から事情を聞け。出勤してからでいい。それから退職願を出させろ」
「承知しました」
「しかし何を考えてるんだ。元ヤクザに金と覚せい剤を要求した上、金額が少ないから逮捕してやるなどと言って。おい、丹羽はそんなことやりそうなヤツなのか」
「いえ、そこまでやるとは思えませんけどね。ただ同僚に対しては、大学で柔道部の主将をしていたことや、生安部長とのつながりをひけらかすなどしていましたんで、業務には支障はないものの、必ずしも人望が厚い人物とはいえませんね」
刑事課長が答えると、
「何だよ。じゃあ全く可能性がないわけじゃないな。とにかく他に迷惑がかからないよう、うまくやれ。部長には俺から話しとく」
丹羽の自宅を監視していた浅井は、紺色のシャツに綿パン、陰気臭い表情と、一見して警察官と分かる数名の者が入っていくのを確認した。しばらくして、いくつかの段ボール箱を抱えて帰っていくところを見た後、自宅を戻った。途中、尾行がないことを確認する作業を何度か行った。
自宅から近所のショッピングモールの駐車場に行った浅井は、後部座席に井田が乗り込むのを確認した。
「丹羽はおしまいだ」
「どうやったんだ」
井田は、自分を取り調べた丹羽をどうやって追い込んだのか興味があった。
「野村が丹羽から脅されていたという抗議の手紙に、野村たちが持っていた覚せい剤を同封して署長に送ったんだよ。それから、丹羽のアパートから覚せい剤が出ているはずだ。ほかにも野村から大金が振り込まれた通帳を確認しているよ」
「覚せい剤、どうやったんだ。それから大金て、いくらぐらい?」
「三百万。これくらいじゃないと信用されないだろ。覚せい剤は、丹羽が出勤した後、鍵を開けて入ったんだよ。以前、何百件も侵入窃盗をした被告人の弁護をしたときに、そいつが自慢げにやり方を話してたんだよ。何しろ拘置所はヒマだからな、弁護人との接見で暇つぶししてたんだよ」
金はもったいない気もするが、実際浅井のいうとおりかもしれない。野村から色々聞き出していたとき口座のことも聞いたのだろう。覚せい剤もやつらの荷物から取り出したものだろう。ここまで考えていたのか。
「澤田のことで何か分かったか」
「日常の行動は分かった。息子が秘書の仕事をしているようだ」
「時間をみて息子のことも調べてくれ。それから丹羽の片割れのこともな」
「本当に知らないんですよ」
「お前の部屋から覚せい剤が出てるんだよ。検査はするからな」
「ええ、やってください。覚せい剤なんてやってませんから」
「まあ、最後にやったのは半月ほど前のようだから出ないかもしれないがな。それからこの金はなんなんだ」
通帳を見せながら取調官が丹羽に尋ねる。
丹羽は、警察官としては脇が甘く、よく飲み屋に行く。その際、財布を座席に置いたままトイレに行っているときに井田がキャッシュカードを確認していた。
「知りませんよ。そんな金。それよりまず、生活安全部長に聞いてみてください。自分がそんなことをするような人間かどうか」
「おうおう、また部長か。部長には署長から連絡をとってある。その上で調べをしているんだよ。わかるな、この意味が」
ここにきて丹羽は、自分が置かれている立場をようやく理解することができた。
「退職願を出せ。この件はこれで終わりだ。手紙を送ってきたヤクザモンもバックレた。お前が辞めれば、この件が表にでることはない。辞めないんだったら、部長にも迷惑がかかるし、お前もタダでは済まねえぞ。仕事のことはこっちで探してやるから心配すんな。退職金も出る」
何を言っても無駄だろう、冤罪とはこのことだ。まさか自分がこのような目にあうとは。丹羽は退職願を書くこととした。
丹羽の退職の件は、すぐに本谷の耳に入った。自分はどうなるのか、汗で細いメガネが、ずり落ちてくる。課長に呼び出された本谷は、丹羽の件について尋ねられたが、自分は何も知らないと答えた。本谷の様子から、本当に何も知らないと判断した課長は、その旨署長に報告した。
本谷は、道内の国立大学を卒業しており、ペーパーテストや研修の成績が良かったため刑事課に異動となった。能力や結果よりも経歴が評価された人物である。刑事課は、ドラマにあるような派手な立ち回りをすることはなく、法令の知識が重視される部署である。周囲からは、本谷の良いところは、国立大卒という点のみである、とみられていた。このようなことから、大それたことはできないと判断された。
お咎めなしとの取扱いとなったことで安心して本谷は帰宅した。部屋に入るとスマホが鳴り出したので、一瞬ドキッとしてスマホを取り出した。課長からではないか、やはり何か処分を受けるのではないかと心配になったのである。自分は、エリートだと周囲から言われることがあるものの、親戚や学生時代からの知人からは、妬みから、明らかに仕事上の失敗を期待していることを感じることがある。試験の成績しか良いところがなく、警察官にはなったものの、暴れる被疑者を制圧したり、取り調べたりするようなことができる人間じゃないと思われているし、実際そうであることは自分がよく分かっている。だからこそ、しくじった姿だけは決して見せたくない。
着信画面を見ると、知らない番号からであった。一瞬躊躇したが、情報提供の連絡かもしれないので、出ることとした。
「おう、本谷か。丹羽のバカはクビになったみてえだな」
中年男の太い声である。全く聞き覚えはない。
「はあ、どちらさんですか。いたずら電話なら切りますよ」
冷静を装って答える。
「何だよお前、お前にも金とシャブ渡してんだろ、コラ。丹羽から百万円もらったろう、オイ。後輩にも手伝ってもらってるから、渡さなきゃならねえって言うから百万キャッシュで出したんだぞ、お前。知らねえっていうんだったら明日署長に言うぞ、コラ。丹羽とお前に渡したシャブも送ってやるぞ、オイ」
太い声で早口でまくしたてる。これまで何度も聞いてきたヤクザモン特有の口調である。
「待て、俺は何も知らんぞ。金なんか受け取っていない」
「まあ心配すんな。お前までクビにするつもりはねえよ。丹羽のバカは、俺に例の件での情報を出し渋ったんだよ。分かってるだろうけど、澤田議員とは付き合いの長いツレだからな。だから知ってることを俺に話せ。そうすればお前はこれからも警察にいられるし、何か手柄も立てさせてやる」
「例の件って何のことですか」
本谷はなんとなく分かっていたが、具体的な内容を相手にしゃべらせるためにあえて聞いてみた。
「おい、とぼけてもらっちゃ困るな。メモリーカードの件だよ。お前あんまりなめてるとクビだけじゃすまねえぞ」
「まあ、そう興奮しないで。今いくつかの案件を抱えているんで、どれか分からなかっただけですよ。あのタクシーの運転手の窃盗事案でしょ」
本谷は極力平静を装って、余裕のある対応をとることにより、警察官であるこちらの立場が上であることを示そうとした。
「おう、分かってんだったらしゃべれ。こっちは澤田議員に報告しなきゃいけねえんだよ」
道議の澤田への報告ということを聞き、本谷は、これ以上押さえておく必要はないと考え、話すこととした。澤田が道警幹部と深いつながりがあることは丹羽を通じて本谷も知っていた。
「タクシーの運転手を調べたが、何も出なかった。会社のロッカーを調べているし、自宅の捜索も行っている。本人もブツを隠す理由がないし、何かしでかすようなヤツには見えなかった。かなり強引に調べたが、特に警察に苦情を言ってきているわけではない。見た感じ、あいつは何も知らない」
「じゃあ、なんで運転手を調べた。誰が盗られたって言ってきたんだ」
「名前までは覚えていない。ただ、そういう申出があって、上から調べろって丹羽さんから聞いて調べることになったんだ」
「上ってのは誰だ、刑事課長か」
「課長じゃないと思う。もっと上だと思うけど、誰かは分からない」
「よし、また連絡するからよ、何か分かったら教えろよ。それから、お前、車持ってるだろ、しばらく貸せよ。こっちも色々調べてんだけどよ、うちの車だと目立つし、お巡りに止められると面倒なんだよ。もう二百万渡してやる。これで車買えよ。いいか、澤田議員に協力すれば今後もお前は安泰だ。そのうち手柄ももらえるようにしてやる。金は郵便受に入っている。金を取って、車にキーを付けとけ。余計な真似すんなよ。言う通りにしなければ、明日でお前もクビだ」
有無を言わせずまくし立てると、相手は電話を切った。
本谷は、今起きたことが悪夢であることを願いながら、アパートの集合ポストに向かった。ポストを開けると、分厚い茶封筒が入っている。開けると、中には、輪ゴムで止められた札束が二つ入っていた。本谷は、小走りで通りに出て、あたりを見渡したが、あやしい人物は見当たらなかった。本谷は、破滅の淵に立ったと思った。
気が付くと、本谷は部屋の真ん中で立っていた。本谷は、これで自分の人生も終わったと思っていた。どうせ終わるなら、と次のように考えた。ここに至るまで約一時間部屋に突っ立っていた。
「丹羽さんのせいでこうなってしまった。しかし、ヤクザモンを脅して金を取るような人とは思えなかった。ただ、運転手の取調べは、明らかにやりすぎだ。いくら幹部に指示されたからって、あそこまでやらないだろう。やはり普通じゃないのだろう。自分は違う。もっと上手にやっていたと思う。あの電話の男は、ようするに、丹羽の後釜に自分を据えようということなんだろう。背後にああいうやつがいるから丹羽は若いくせに、内部では結構幅を利かせていた。そのため敵も多かった。自分は丹羽のような立場になっても、あのような失敗はしない。いずれにせよ選択肢はほかにない、逆に、こちらがあいつを利用してやる」
気持ちに整理がついた本谷は、車のキーを握っていた。
澤田は、秘書として使っている息子の康二から、封書を渡された。
「野村って人から。親展って書いてあるから開けてないよ」
澤田は封書を受け取ると、差出人を見た。確かに野村からだ。あいつ、直接連絡をとるなと言っているのに。
中身は、遠回しな記述が多いものの、メモリーカードはマイクロSD カードであること、同カードを入手したこと、費用が二百万円かかっていること、直接引き渡したいこと、などが書いてあった。また、警察官から金の無心があったのでトラブルとなり、迷惑をかけたと謝罪の一文も入っていた。ワープロソフトで作成された文書である。
警察官の件は、部長から聞いていた。自分たちには影響を及ぼさないよう取り計らったとのことであるが、今後は、目立つ行動はできないとのことであった。
「くそっ、まあ、あれが戻ってくるだけでもいいか。しかし、どうやって手にいれたんだ。相手は誰なんだ。それも今夜分かる。相手は始末しなければならないな」
井田は、浅井を乗せて本谷の軽自動車で札幌市郊外に向かって走っていた。警察官は派手な車を使用しないよう言われているので、独身者は軽自動車という者が多い。
「あのボイスチェンジャーはいいな。本谷のヤツ完全に信じていたな」
「しかしうまいな、ホントのヤクザモンみたいだったよ」
「仕事柄色々な人と接する機会が多いからな。本谷は完全にこちらでコントロールできる。これからは、ヤツから警察の内情を聞き出すことにしよう」
「バカなお巡りどもは片付いた。澤田はどうするんだ」
「澤田は野村に指示を出したヤツだ。タダで済ますわけにはいかん。今夜ヤツを呼んである。ゆっくり話をきくことにしよう。用意はできているか」
「少し太めのロープか。これで話をするのか」
井田は、目的地の廃ビルを視界に入れながら、これまでの浅井のやり方をみて、何となく方法が分かったような気がした。
午後八時ころ、屯田のはずれまで来ると、澤田は車を降りてタバコに火をつけた。街の灯が遠くに見える。足音がしたので振り返ると、ニット帽を被った男に思いっきり腹部を殴られた。うずくまったところを、顎付近に回し蹴りをくらった。澤田は、所持品を取られ、目隠ししてさるぐつわをかまされ、両手足も縛られたうえ、自分の車の後部座席に放り込まれた。野村で試したこの方法は、無防備な相手には有効である。そもそも、澤田の指示で野村の子分どもに自分がやられた方法である。
「このクソ議員が、本当にクズ野郎だな」
改めて井田は、澤田に対する怒りが湧いてきた。
ドライブレコーダーを切ると、井田は昼間下見した廃ビルへと向かった。後ろからは、浅井の軽自動車が少し距離を置いてついてくる。さらに後方を見るが、追尾してくる車はいなかった。
廃ビルに着くと、二人は、目隠しを外し、澤田を屋上まで歩かせ、片方の足にロープを結び付け、ロープの一方を柵に結び付けた。澤田を柵際に立たせて、さるぐつわをつけたまま、浅井が話し始める。
「おい、メモリーカードのことで知ってることを話せ。脅しているのは誰だ。心当たりがあるから警察使ったんだろ」
澤田は、浅井を睨みつけたまま全く動かない。
「よし、じゃ後ろ向け」
澤田は動かない。浅井は、澤田の両肩を思い切り突き飛ばした。澤田は、唸り声を上げて何とか踏ん張ろうとしたが、屋上から落下した。しかし、足に結び付けたロープによって、約一メートル下にぶら下がった。しばらく浅井は見下ろしていたが、澤田がこちらを見上げ、何やら唸り声を上げているので、引き上げた。
「おい、しゃべらないんだったら、また落とすぞ」
澤田はこちらを見て何度も首を振った。浅井がさるぐつわを外すと、
「相手は誰か分からねえ、本当に分からねえんだ」
「ほう、それで済むと思ってんのか」
浅井はそう言うと、もう一度澤田を突き飛ばした。
澤田は、「おおっ」と声を上げながら屋上から転げ落ちて、ぶら下がる。
「次はロープを切るぞ。ここにお前の遺書がある。警察幹部と不正を行ったことを悔いて自殺、全財産は犯罪被害者救済のために使うように、という内容だ」
「多分あの中の誰かだ。あの政治経済研究会の中の誰かだ」
「何だ、そりゃ」
「道内在住の、旧帝大や都内の有名大学出身者で作った団体で、その中でも特に、議員や社長、官僚などの集まりがあったんだ」
「それが何でネタになるんだよ。お前らみたいなヤツが喜んでみんなやってることだろ」
「それが……ちゃんと話すから助けてくれ」
「話してからだ。お前は信用できない。心配しなくてもそのロープは十五分くらいはもつ」
井田は、いつロープの性能を調べたんだろう、浅井は触ってもないはずだが、と浅井の方を見るが、浅井はニヤニヤしながら尋問を続けている。
「あ、あの、飲んでるうちに、一人、女の子が倒れてしまって、その、死んでしまって……」
澤田が口ごもりながら話すのを聞くと、浅井の表情が変わり、
「そりゃ、いつの話だ」
これまでよりも厳しい口調で尋ねる。
「せ、先月の十一日」
「お前、どうしてもしゃべらねえつもりか。そこまで分かればこっちで調べるからもういいよ。お前みてえなクズは死ねよ。金はしっかり使ってやるから心配すんな。バカ息子もお前を追って自殺させてやるからよ」
「は、話す、話します。タレントを呼んで遊んでいたら、クスリの量が多すぎて死んだんです。私じゃありません。人材派遣の社長です」
「そこを撮影していたヤツがいるってことか」
「部屋に入るときに取り上げられるはずなんで、いないと思うんですけど、隠していたのかもしれません」
「そこにいたヤツの名前を全員言え。おい、早く言え。ロープが下がってきているぞ」
「全員話します。助けてください」
浅井が澤田を引き上げて、座らせる。ロープを取らずに浅井が話すよう促すと、澤田は、そこにいた連中の役職と氏名を話し始めた。
「お、俺が話したってことは黙っててください」
「おう、ちょっと待ってろ」
と言うと、少し離れて浅井はどこかに電話をかけた。井田は澤田に目隠しをした。澤田は、また突き落とされるのではないかと思い、床に手をついて、土下座するような姿勢をとった。浅井の声が聞こえてくる。
「あっ、おやっさん、おれです。ええ、野村の野郎は不義理をしやがったんで、追い込みかけてます。今澤田に話聞いてんですけどね、ええ、道議の、地方議員の澤田です。はい、連中の名前は聞きました。ええ、間違いないです。澤田はどうします。できますよ、ここで。あっ、そうですか、じゃ帰していいですか。ええ、もちろん、そのときはいつでもやれます」
澤田は、目隠しをされているので、自然と、浅井の話に聞き耳を立てていた。
「間違いない。暴力団関係者だ。俺を殺すつもりだったのか。どこの組織なんだ。野村を脅すとは、かなり上の団体の連中じゃないか。荻野に連絡しなければ。あいつなら警察本部の部長だからなんとかなるだろう」
と考えていると、
「おい、澤田」
と間近で言われ、ビクッと頭を上げる。
「お前、帰ってもいいけどよ、なめたまねすると殺すぞ。お前のバカ息子もな。今日あったことはすぐに忘れろ、いいな。余計なこと考えるなよ、死にたくなきゃな」
澤田はロープを解かれて、車に返された。持ち物は返されたが、慰謝料と称して二十万円以上入っていた札入れが空になっていた。なんでこいつらに慰謝料払わなきゃならないんだ。
澤田は自分の車を運転して帰路についた。途中、生活安全部長の荻野に連絡する。
「あっ、俺だよ。まいったよ、どうなってんだよ。今やくざに殺されそうになったんだよ。やつら研究会のことを聞いてきたぞ。誰か脅すつもりじゃねえのか。捕まえられねえのか」
「おい、ちょっと待て。今どこからかけてる」
「俺の車ん中だよ。何だよ、どうしたんだよ」
「いいか、家でじっとしてろ。様子がおかしい。今、上に話して対応をお願いしているところだ」
「まさかあの時の女のことで何かあるのか」
「いいか、黙ってろ。これから仕事が忙しくなるんだろ、だったらこの件は忘れてしばらく家にいるんだ」
澤田は、荻野がいつになく厳しい言い方をするので、驚いて言葉が出てこなくなった。
「分かったよ。じゃ、よろしく頼むよ」
荻野は返事をせずに電話を切った。まずいことになった、それにしても澤田の野郎ビビりやがって。
通話の内容は、全て浅井と井田に聞かれていた。
翌日、井田は、図書館でおくやみ欄を探し回った。浅井は、行旅死亡人の情報を調べた。その日の午後には、琴似駅近くのホテルでお互い結果を報告し、今後の方針を話し合った。
「おくやみ欄に若い女性はなかった。しかし、澤田が話した研究会の参加者の名前があった」
浅井が、見ていた書類から顔を上げる。
「こいつだ」
おくやみ欄の中を指し示したところには、「内田洋治」とある。住所は札幌市内である。
「こいつは地裁の裁判官だ。確か事故で死んだと聞いていたが。ニュースにはなってなかったな」
浅井がこたえる。
「行旅死亡人にそれらしい者はいたが、そこからよりも、死んだ判事の方からの当たるのが良さそうだ。明日から手分けして探そう」
井田は頷くと、ワイングラスを空けた。
翌朝から、井田はおくやみ欄記載の住所の出入りを確認していた。すると、昼頃、その家の前に一台の車が止まった。入っていく人物を見て、思わず「あっ」と声を出してしまった。すすきので降ろした客である。一連の出来事の発端となった人物を見て井田は、直ちに浅井に連絡した。
しばらくして、浅井の乗る車両が付近に現れた。二人は、内田宅から「すすきのの乗客」が出てくるのを待った。その人物は一時間もせずに内田宅から出てきて、車を走らせた。二人は一定の距離を保って車両を追尾し、前後を交代しながらその後を追った。手稲区のアパートに入って行ったところを確認すると、浅井は、アパートに行き、「内田」の表札を確認した後、インターホンを押した。
「はい」
「弁護士の浅井といいます。内田判事にはお世話になっておりましたんで、少しお話をお聞かせ頂きたいと思いましてお訪ねした次第です」
しばらく沈黙の後、ドアが開いた。
「そこのファミレスでも行きましょうか」
内田の視線の先にはファミリーレストランのチェーン店が見えた。
世間話をしながら店に入って席につくと、
「内田さんが泥酔するまで酒を飲むとは思えなかったもので、何か事情があるのか分かりませんが、お手伝いできることがあったら協力させてもらいますよ」
浅井は、内田判事が酔って橋から転落した、という噂を聞いていたのでこのように申し向けてみた。実は、ほとんど国選事件しか扱ったことのない浅井は民事部の内田判事とは全く接点がない。
「弟は、酒は飲みません。ビール一杯で倒れてしまいます。それが酔って橋から落ちたなんて、ありえません。警察には何度も言ったんですが、全く聞く耳を持たないんです。最後には対応した警察官が大声で帰れって言いましたんでね。遺族に対する対応ではないですね」
浅井は大げさに驚いてみせた。
「それはひどい。では、実際には何が起きたとお考えですか」
内田は、しばらくうつむいて腕組をしていたが、
「それを聞いてどうするんです」
「内田さんは泥酔するような人には見えませんでした。警察の対応は信用できないところがあります。もし、国家賠償請求をお考えなら、協力できるところは協力したいと考えているんです」
内田は、ようやく弟の死について話し始めた。
内田の話によると、亡くなった弟は、スジは曲げない、些細な不正も認めない、出世には興味がないという何世代か前の裁判官の姿であった。浅井は、面識はないものの、大きく頷きながら、
「ああ、そうでしょうね、何となく分かります」
などと相づちを打っていた。
内田が、今日は休みだということで、浅井がビールを勧めると、飲み始めた。内田は、浅井が弁護士だということ、弟と仕事をしていたと話を聞いたことから、浅井を信用して話し始めた。
その中から、浅井が大きく関心を持ったことがいくつかあった。葬儀には、職業上、肩書が立派な者が多かったが、一部、目つきの悪い者がおり、遺族をジロジロ見ていたとのことである。浅井は、警察関係者じゃないかと聞いたが、警察関係者は来ていなかったとのことである。
妻も裁判官であったが、弟の死後、名字をすぐに戻している。子はいなかった。妻の方は、酒が原因で死亡した者の姓を名乗るのは今後の出世に何らかの影響があると考えたのかも知れない。
何かサークルか勉強会のようなものに入っていたのではないか、とのことである。一度だけ、会の名前を聞いた気がするが、忘れてしまった。人に頼まれると断れない性格だったので、付き合いで加入したのだろう、とのことである。この点、どんな集まりか内田に訊ねたところ、議員や役人、経営者などだ、と答えたが、これまでとは違った表情を見せた。
間違いない、この集まりが原因で内田判事は殺害されている。そして、この男は死の真相をある程度掴んでいる。
浅井は、何か協力できることがあったら、連絡するよう伝えて名刺を渡し、
「内田判事は自分の意思で飲酒して泥酔するような人物ではない。そこは誰かに無理やり飲まされたのだろう。これ以上調べるのは難しい、危険もあるかもしれない」
と伝え、席を立とうとすると、
「待ってください」
と内田が引き留めた。
「実は、弟が参加していた勉強会というのは、実際には、勉強などせず、パーティールームを借りて買春のようなことをしていたらしいんです。一度は断ったらしいんですが、今回は、楽しくみんなで飲むだけだから、ということで参加したようですが、その日のうちにあのようなことになってしまったんです」
「買春ですか」
「ええ、すごい美人が何人もいたそうです。それで、参加者の中に議員をやっている澤田がいたそうなんです。ほかの人は分からない人が多かったようですが、議員となると、テレビに出る機会もあるので、印象に残っていたのでしょう。そこで私は、澤田に、勉強会と称して、いかがわしいことをしていた証拠があるので、その物を買い取ってくれないか、と申し向けたところ、高額で買い取る旨の返答がありました。実際には支払われなかったんですが、その返答が、何よりの証拠でしょう」
「その勉強会の証拠というのはどのようなものなんですか。録画等のデータが入ったメモリーカードのようなものですか」
「えっ、はい、そうです。メモリーカードを買い取れと言ったんです。よく分かりますね。でも最初からそんなものはないんですよ。自分の創作です、ハッタリですよ」
浅井は、腕組をして何度か頷いた。これで多くの疑問が解消された。タクシー内の忘れ物を原因とする一連の出来事について、全て把握しているのは自分と井田のみである。澤田や、本谷の上司等警察幹部はこちらの動きを知らない。直接自分たちの殺害を試みた野村等の反社会的勢力は全ていなくなった。こちらの安全は確保できたといえる。
しかし、内田に動かれては、こちらの関与が露見する可能性がある。相手は、白を黒にできる権力を持っている。内田判事もおそらく、権力行使のコマの一つという目的で引き入れられようとしたのだろうが、当人は、全く不正を受け付けないばかりか、薬物により亡くなった女性のことをすっぱ抜こうしたため、殺害されたのであろう。彼らには、そのようなことができる能力がある。内田には自制を求めなければならない。
「内田さん、彼らは大きな力を持っています。人を殺すことを何とも思わないような者を使える立場にあります。そして、彼らは、権力者同士、かばい合って活動しています。本件についてみれば、市民の訴えが届くことはないと思う。そればかりか、内田さんまで狙われることになります。機会を見て目立たないように情報収集のみ行い、知事等権力側が変わった機会で何等かの行動に移すのが妥当だと考えられるがどうでしょう」
「私は、何も世間を知らないわけじゃない。訴えたとたん変人扱いを受け、仕事も干されるといったことになることくらいは分かる。急がなくても、私は、奴らがそのうちボロを出すと思っている。今は雌伏のときだ。それより、浅井さんはなぜここまで力を入れているんですか。弟とはそれほどの付き合いでもないでしょうに。私が黙っている方が都合がいいんですか」
「私を彼らの手先と思われるかも知れませんが、全然違います。同じ法曹でも旧帝国大出身の内田判事と私とでは全く扱いが違います。彼らのような権力者から誘われるようなことはありません。彼らは、学歴というより、どこの大学を出たか、に異常なこだわりを見せます。大学により優劣を付けて階級を形成し、その変動は認めないという立場であろうと思います。その方が、組織は安定しますからね。私は道民の一部しか知らないような私立大学出身なので誘われることはないでしょう。彼らは、一般市民を無知なものとして、エリートと対立する存在と捉えていると思います。だから有名大学出身者しか誘わないんです。そういう人ならエリート意識を持っていますからね、市民を自分たちの敵と思いこませやすいでしょう。そのような組織など認める必要はないですし、機会さえあれば公衆の目にさらし、実態を訴えるべきでしょう」
内田は、しばらく考えていたが、
「奴らに対しての、個人の無力さはよく理解できている。突発的な行動はとらないから心配しないでくれ」
返答を聞くと、浅井は、追尾している者がいないか周囲を確認しながら、出口に向かった。今では、この行動は無意識の内に行われるようになっていた。
内田と話してから約一週間後、琴似駅近くのホテルで、浅井と井田は、今後の対応について話し合っていた。
「今日の新聞で、澤田が登山中に転落死した記事があった。荒天というわけでもないし、険しいというところでもない。当然事故死として処理されている。それから本谷に聞いたが、生活安全部長の荻野が自宅の風呂場で死んでいたらしい」
「それは新聞には出ていないな」
井田が答える。
「おそらく心不全として処理されるだろう。どうやら口封じされたようだな」
「道議や本部の部長クラスでもトカゲの尻尾という扱いか」
浅井は頷くと、コーヒーをひと口飲んで話し始めた。
「おそらく澤田らが入っていた組織は、下部機関なんだろうと思う。だから平気で今回のような処分がなされたのだろう。組織の本体は全国的なもので、道内のものなどは、下請け以下の存在と考えるのが妥当だろう。実際、澤田は何も知らないも同然だった。今回のように、活動の目的がはっきりしないような集まりなどは、どこにでもある。役所でも弁護士会の中でもある。しかし、このようなインフォーマルグループが本来の組織の機能を捻じ曲げ、組織の目的とは異なった方向に誘導しているという実態が、全国的にあるだろうと思う。だからこそ、行政や企業の幹部が、不祥事を起こしても、記者会見で居直った態度を見せるんだ。何しろ、背後には司法、行政、マスコミ、反社などが控えているんだから、怖いものなしだ。国民の見えないところで、インフォーマルグループを媒介として、汚い権力の複合体が形成されているとみるべきだろう」
「我々の関与や存在は気付かれていると思うか」
「いや、調査を行っても、関与しているところまでは分からないだろうと思う。危険は去ったと考えていいと思うし、報復を行うべき相手も死んでしまった。組織の資料、その組織は道内なのか札幌市周辺のものなのかは分からないが、その構成員については、澤田から聞き出している。これをもとに、いずれ奴らの存在を白日のもとに晒していくつもりだ。井田さん、危険な目に遭いながらも、よく協力してくれた、助かったよ。迷惑かけたな。これで元の生活に戻ってくれ」
「元の生活ねえ、戻りたいものではないな。金はあるし、まあ何か適当にやるよ。何か面白いことが、いや、手伝うことがあったら連絡してくれよ」
二人は、周囲に注意しながら、それぞれ時間を少し空けてホテルの外に出た。事務所に向かって歩いていく浅井を見ながら、井田は、「さて、何をやろうか。求人誌でも見てみるか。ああ、明日でいいや」と軽く考え、自宅に向かい歩き始めた。風に少し冷たさを感じるようになったものの、見上げれば、札幌の空は雲一つない快晴であった。
この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。