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僕とロッテ 1

子供のような題名で子供のような気持ちで書き出していきたい。

いつロッテファンになったのか。自分でも定かではない。幼少期から高校3年生まではどこにでもいる昭和の野球少年だった。決してプロを目指しているような少年ではない。当然巨人ファン。
小学生の夏休みの家族旅行は毎年東京ドームだった。今思うと二つ歳の離れた妹は他に行きたい所があったかもしれない。ただ後楽園ゆうえんちは当時波の出るプールなどがありとても楽しめた記憶がある。
インターネットなどはない時代、チケット購入は田舎の人間には難しかった。ましてや巨人戦東京ドーム。父の知り合いが新聞社に勤めていて毎年希望した日のチケットを送ってくれていた。観戦席の良し悪しは勿論あったが、必ず連番で家族が並んでいた。今思い出しても幸せな思い出であり感謝している。原辰徳の涙のサヨナラヒットをバックネット裏(おそらく一番席が良かった年)で観た記憶は今も薄れる事なく残っている。
プロスポーツの意義とはこういう事なのだろう。

そんな昭和の野球少年も中学生となり夏休みは毎日部活となる。そこに思春期が合わさると家族旅行などは当然いつの間にか無くなる。強烈な上下関係や理不尽を覚えるのはこの時期で日本中どこでも同じである。いつしかプロ野球のテレビ観戦すらしなくなった。

そして次に観戦したのが千葉ロッテマリーンズなのである。

僕は学生時代に千葉で一人暮らしをしていた。
その当時のパリーグは今とは全く違う。ましてやロッテなどそのリーグの最下層。チケットを買ったことなどは一度もない。今の時代でいう健康センターの招待券より簡単に手に入るチケット。貧乏で暇な学生たちには格好の遊び場だった。
そんなパリーグに変化の兆しが見え始める出来事があった。

【平成の怪物 松坂大輔】 西武入団

当時なぜか全てナイターの記憶しかないのだが、松坂のマリンで投げた試合を観戦した記憶は残念ながらない。記憶にあるのはまだダイエーだった頃の井口にベンチの上からヤジを飛ばしたところ大変な騒ぎになったことだ。井口は柄が悪いは記憶に今も残っている。
無料観戦チケットとはいえ良い観戦席ではない。だが当時は今のようにスタッフの配置もされておらず席の移動は簡単にできた。入場してしまえば好きなところで観戦できるのだ。マリンの様々な座席位置でどう観えるのかを学んだのもきっとこの時期だろう。浅いなりにもそこは経験者。すぐにプロ野球の凄さに夢中になった。

その試合も中盤までバックネット裏で観戦していた。試合がワンサイド(ダイエーがリード)になり帰宅も考えていた時だった。観戦すればわかると思うが球場では選手の声が良く聞こえる。あまり観客のいない当時は草野球のように聞こえた。当時ショートを守っていた井口がロッテをやじる掛け声をしたような記憶がある。珍しくもない。たまたま耳に残っただけだろう。ファンではなかったが無料券で観戦させて頂いている恩がある。そんな僕は黙っていられずダイエーベンチ上に移動した。そうただただ暇だったのだ。
どう野次ったかまでは定かではないがベンチに帰ってきた井口が鬼の形相で言い返してにきたのである。そこに数人のダイエー選手が加わり球場スタッフが駆けつける事態となった。「席にお戻りください」で済んだのは時代のおかげだろう。今だったら出禁になっていてもおかしくない。小久保が選手の間に入りなだめていたのも覚えている。彼は脱税も出来るインテリなのを知ったのはこのずっと後の出来事だ。

何度も観戦していれば想いも持ち始める。その中で痺れた選手がいる。きっと彼がいなかったらファンになっていなかっただろう。

【ジョニー 黒木知宏】

現在投手コーチを務めている印象は穏やかだ。
当時のジョニーは喧嘩小僧。一球ごとに声をあげ相手打者が強い当たりのファールを打とうものなら「こっちに飛ばしてみろ この野郎」こんな感じの連続である。ロッテのチームカラーなのか当時も今と同じく冷めた選手が多く気持ちを全面に出してプレーするジョニーは異質な存在だった。彼だけが勝利を渇望していた。
シーズン投球回数が200回を超えて防御率が2点台。伝説の幕張のエース。その後も清水や成瀬など数々の先発投手が幕張のマウンドで投げた。
僕の中でジョニーを超える投手は現れていない。

球団が創立された日と自分の誕生日が同じと知りより一層思い入れを持ったのもこの時期だった。

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