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過ぎ去る日々と好きだったものたち

桃鉄が好きだった。幼い頃、両親の仕事が忙しく旅行になかなか行けなかった私は、毎日のように汽車にのり日本全国各地に散らばった目的地を目指すそのゲームに没頭していた。100年プレイは何度も何度もプレイした。桃鉄がきっかけで得た知識のおかげで、初めて会った人とも出身地トークで盛り上がれるくらい名産品にも詳しくなった。そんな話をしていたところ、彼が桃鉄のソフトを持って家に帰ってきてくれた。友達に譲ってもらったらしい。嬉々として話す彼の隣で私もワクワクしていた。これからどんな旅が始まるんだろう。

早速カセットを入れて始まった3年決戦。ゲームが始まる瞬間のぽっぽーという懐かしい汽笛の音。サイコロを振る時のドキドキ感。しかし、初めて数分であることに気づいた。あれ?思ってたより楽しくないかもしれない。前はもっと楽しかったはずなのに。もっと楽しめると思っていたのに。そんな違和感がどんどん溢れてきて、結局1戦だけでお腹いっぱいになってしまった。もちろん幼い頃の感性とおとなになってからの感性は違って当然だと思う。けれどあんなに大好きだったものが好きじゃなくなったこと。その現実を受け止めるのが少し悲しかった。(そして彼への罪悪感。せっかく私のことを考えてもらってきてくれたのにごめんね。)

思えば、最近そんな風に感じることが増えた。例えば、父とよく通っていた野球観戦。友達が「私が好きそうだと思って!」とシェアしてくれるYoutuber。学生時代にいたくお気に入りだった小説家の本。ほんの数年前までは大好きで大切で私の人生においてかけがえのないなものだったはずのに、今はかつてのように心が動かない。なぜだかわからないが認めたくなかった、あらがいたかった。これ以上好きを手放したくない。

それでも私はこれからもさまざまなことを経験していく。たくさんの「好き」との出会いと別れがあるだろう。それを繰り返すうちに寂しさは少なくなるだろうか。

これまで好きだったものを好きじゃなくなるということは、私の人生においてそれが不必要になったということだと思う。好きだったものがきっかけでできたかけがえない出来事でさえなかったことにはならないけれど、それでも自分がいる場所からその思い出たちが遠ざかってしまうみたいに感じてしまう。考えすぎだとは思うけれど・・。さらに、悲観的な私は今大好きな人たちのことも好きじゃなくなってしまう可能性がゼロではないことを改めて実感してしまう。なんとも言えない恐怖感を感じてしまった。

周りには好きなものがずっと変わらない人もいる。父は野球が好きで球場に足繁くかよっているし、友人は趣味でイラストを描き続けている。彼氏は音楽が好きで最近は作曲を始めたらしい。そんな人たちが羨ましい。自分の中に変わらない「好き」があって、その「好き」が続いていて。

わたしもいつか見つけられるといいな、私の中にある「変わらない好き」に。



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