ディアボロと歪んだ人の話
はらです。
自叙伝を書きたいなとずっと思っていました。大した人生ではないですが、ディアボロを軸に今までをまとめてみようかな。早くしないと、清算したふりして忘れてしまいそうだから。
ところで、お前は一体誰なんだという話ですが、7ディアボロハイトスをやる人です。やりたいではなくてやるですね。まだできませんが、やる人間であると未来が先に決まってしまいました。過去の自分の陰謀です。その途上の自分から、思ってきたことを書いていこうかな。
浅かったあの頃(ディアボロ2つまで)
特に浅かった高校生の頃から、話を始めましょうか。僕は、前橋高校大道芸部の5期生としてディアボロに出会いました。それが、2010年か‥。おおよそ半生をディアボロと共に過ごしています。当時は、全部員30名ほどで、各学年に優秀なプレイヤーがちらほらと、自分は特に目立つことのない平凡な一部員として、日々練習をしていた気がします。
すみません、練習していたというのは嘘です。市中自転車で駆け回ったり、高校の隣の空き地で野球をしたり、ディアボロを振り回したりして遊んでいました。ごめん、ディアボロ。ザリガニをとったりもしていたかも。
さて、入部したらまずは最初の道具選びですね。ディアボロ?ボール?デビル?ってポケモンみたい。大体自分は水タイプ選びます。んで、自分がディアボロを選んだ理由は、やっぱり他の道具と比べてかっこいいから。いま振り返ると、ディアボロの先輩がかっこよかったのもある気がしますが。ディアボロって戦隊モノで言うと、赤ですよね。ただ、最初のディアボロはオレンジ色にしました。オレンジ色が好きって訳じゃないんです。長いものに巻かれた上で、真ん中くらいに包まれていたいんです。赤いディアボロは選べません。赤いディアボロは物語の主人公ってかんじで。オレンジのディアボロくらいが安心するというか。この辺は、中学生までに出来上がったコンプレックスなんですかね。ま、ジャグリングやってる人なんてみんな‥。ちなみに好きな色は白です。シャオリンの白はなかったんだったかな?
でも、なんぼディアボロがかっこいいと言っても大道芸部ですから、遊んでいるだけではダメですよね。人前で演技しないといけません。高校1年生の頃の僕は、人前が超苦手。いまでこそ苦手くらいでしょうが。このままでは、将来的にまずいなとは漠然と感じていたので、あえて大道芸部に入り克服しようと選択したという面もありました。
そんな理由で入部し、右手を必死に動かして、ディアボロが回った愉しさ、ムーンサルトを理解できない苦しみ、そのときのひとつひとつの気持ちが今に繋がっていきました。はじめて人前で演技をしたときの手の震え、唇の乾き、落とさなかった安堵感、ちゃんと客席を見れなかったなという後ろめたい気持ち、自分の演技が終わってからのなんか集中できていない手拍子、なぜかいた親、いまでも覚えています。一緒に出た同期はしっかりしていたなあ。なんか仕上がっているデビルっ子もいましたね。その後に見た先輩たちの演技は圧倒的で、あんな風になりたいなと心を動かされました。
社会人のいまになり思いますが、先輩がちゃんと憧れになり道を示してくれるというのは尊いものです。自分も頑張ろう!
はじめての演技を終えてからは、ディアボロにさらに熱中して、2ディアボロのウィンドミルを3日で自力習得したりします。当時、3日で習得したと言ったら誰も信じてくれませんでした。時代ですよね。2ディアボロでも特別な技でした。技の習得には、先輩からもらったDVD(名前は忘れました)を使っていました。
同期のディアボロは4人いて、同じ技が出来ても仕方ないねということで、自分はあえてスティア・ザ・ポッドという技を習得したりしていました。キャッツ・クレイドルの途中で遊ぶ技です。その代わり誰かがスモーキング・ジョーをやっていたな。それでも技が被るので、新技を開発したりしていました。股の下でディアボロをぶらぶらさせるだけのライジングサンだったり(サンはまったくしていない)、グラインド中にドヤ顔をするだけの動作も技としてカウントしていました。いまでは見かけないキックエレベーターもみんなやってたな。
なんだかんだ成長していき、公演も数をこなして各々の使用音源に愛着が湧いてきたりして、テスト中に頭の中で音源が無限リピートされる事件もありました。その音源は頭痛と呼ばれていました。正式名称は誰も知りません。あと、ボール専門の同期が冬場にやっとミルズメスを習得したのは有名な話。専門外の同期に教えてもらったそうな。そんな緩い部活動でした。
突然ですが、このあと大道芸部を少し離れます。スポーツがしたかったんですよね。少しバドミントンをしていました。いま振り返ると、必要な時間だったなと思います。自分という人間、結局は、汗をかいて自分を成長させていきたいのです。なんかちょっと高尚だったので、言い換えますが苦しんでないと、努力していないみたいな。その点、大道芸ってへたっぴなうちは疲れないですもんね。技が続かないし、動きが小さいから。少し自分には、相性が悪かったです。
その後、なんだかんだあって兼部の形で大道芸部に戻りました。誤解があったらいけないので、書きますがディアボロも大道芸部もずっと好きでした。ただ、体をもっともっと動かしたかったのです。それを解決してくれたのがディアボロのバータックスでした。2010〜2011年といえば、かっこいいバータックスの時代でしたね。僕はその時代に救われて、ディアボロ人生を繋いでいくことができました。ちなみに我々の時代はバータックスではなく、エクスカリバーです。いでよ!エクスカリバージェノサイド!
エクスカリバーといえば、同期のディアボロ組とジェノサイドの習得を競い合った思い出があります。当時は、出来たら神みたいな技でしたから。練習場所だった中庭で何人もエクスカリバーしていたので、非常に危険なフィールドが出来上がっていました。まだ、鉄の塊スティックでしたし。エクスカリバーの派手さに負けてられないと、ハイアップに目覚めたデビルスティッカーもいましたね。当時練習していた高校の中庭は無数に敷き詰められた石が所々隆起しているという、とんでもなく劣悪な環境でした。新品のトライゴンが一日で折れてしまったり、半分くらいカップが削れたディアボロでエクスカリバーしたりしていました。
さて、高校2年生になると、バータックスと2ディアボロで演技するようになり、演技構成や音合わせといったものも少しずつ意識するようになりました。サビのタイミングで、今だいくぜ!ダブルスプリンクラー!とか心の中で叫んでました。と同時に、部全体の演技順を考えたりもするようになり、大道芸部にまた違った愉しみを見出していきました。より多くの情報をより良い状態に整理することは昔から得意で、社会人の今でも特技と言い張っています。なんか公演で使うCDを作る係にもなってたな。
僕は、お祭りに参加する公演がとても好きでした。知らない方々が一生懸命準備した催しにちょっとだけ助太刀するみたいなかんじで。お祭りなので、観ている方もテンションが高くて、ディアボロが高く上がるだけで信じられないくらいの歓声をもらえますし、落としたら信じられないくらいの低音が聞こえてきます。そして、たまにアンコールをもらったり。当時、面白がってアンコール用の曲を何曲か用意して、公演に望んでいました。あるとき、大トリで演技して、アンコールをもらい残酷な天使のテーゼに合わせて、追加で踊り狂う同期を遠くから眺めていたこともありました。最後、ふらふらしてましたね。あの鐘を鳴らすのはあなたが流れなくて本当に良かった‥。
高校生なので、公演には自転車で向かいます。帰りに西陽に照らされた急坂をみんなで下ったことがありました。あれはどこだったかな。前橋市の端のほうの、田んぼだらけの場所だったかな。道路だけ綺麗に舗装されて、周りに木々もなく、開けていて遠くに榛名山が見えました。そのときの景色をよく覚えています。僕は大体集団の後ろから自転車でついていくのですが、大道芸部に入ってからは同期の部長が僕よりも後ろにいつもいました。走行中に道具を落とすので、僕らで拾っていたなあ。前カゴじゃ、そりゃ落とすよ。あと三角コーン前カゴじゃ、前見えないでしょ。
優曇華の話もしましょうか‥。実はクラブパッシングもやっていました。相方はほりくんです。優曇華という大きなイベントのオープニングに大道芸部は出演することになりました。が、これが散々でした。クラブパッシングでは、落としまくって、カウントミスるわで、あげく落ちたクラブを拾っているほりくんの頭にクラブを投げてしまう痛恨のミス。めっちゃ笑われました。ごめん、ほりくん。あとは5人くらい並んで、ボールのピルエットキャッチを決めていく演目で、照明が明るすぎて何も見えず、全員ロストということもありました。凄く凹みました。思い出したくない、思い出です。でもまさか、結婚式でまたペアを組むとは‥。
総文祭という市内の文化部の集まりもありました。大道芸部は文化部なんですかね?黒いディアボロの同期がなぜがバク宙を披露して会場を盛り上げていました。ファクトリーもやった覚えがあります。ファクトリーって前高大道芸部用語なんでしょうか。ディアボロの紐を複数人でぐるぐる手に巻いて、加速させたディアボロを紐にのせ、順番に手を回して次の人に繋いでいき、端っこまでいったら目一杯伸ばして張った紐を上にあげて、飛んだディアボロをフライフィッシングするというものです。正式な伝統と呼べる技でした。みんながそれぞれの役割で参加できる貴重な演目であり、当時はトリでやってたのかな。盛り上がるからね。
高校3年生になる直前に開催されたJSJF2回大会は、大道芸部にも自分にとっても転機でした。秋口にその存在を知り、当時の同期5名と個人部門予選のビデオ撮影に挑みました。ビデオ撮影とはマジのビデオ撮影で、ビデオカメラと三脚で撮影をしていきました。スマホなんてなかったもんね。思えば、挑戦と表現できる活動はこれが初めてのことでした。かっこいい演技から、勝つための演技へ。しかし勝つと言っても、当時のライバルの実力は想像することしかできず、暗中模索。火力を合言葉に練習していき、毎日新技が生まれては消えていきました。ツインジェノサイドとか言って、いまでは普通の現象の原型に出会ったり、シザークロスとかハサミギロチンとか言って、一丁前の厨二病高校生達だったな。でも、同じ目標に向かって仲間達と切磋琢磨というのは自分の人生では、これが最後のことでしたね。
この頃から、同期の中にもそれぞれの憧れの人が明確に生まれていき、その人の真似をするようになりました。自分は、そんな人いねーしみたいな顔してめちゃくちゃ色んな人の動画を漁っていましたね。その結果、予選ビデオの撮影では、チャンピオン戦のスグリ君のパーティみたいなかんじで、技選択がごつもりでした。強いの詰め込みましたみたいな。結局、ノードロップの回が一つ撮れたんだったかな。
個人部門予選のビデオ撮影を終えた日。土曜日か日曜日だったか、他に誰もいない中庭のひなたに5人で座りながら、撮影を終えての失敗や成長について駄弁っていました。ですが、高校生の性なのか、みんなじっとしているのが苦手なようで、予選ビデオに入れたかった新技の実演に移っていき、一人二人と立ち上がり、どこからか誰かが三角コーンを持ってきて、時間を忘れてただ道具を振り回しながら好きな曲を流して、出来上がったのがJSJF2回大会チーム部門ブラックペッパーの演技でした。気付くともう日は暮れていて、笑い声だけが中庭に響いていました。
この日のことは一生忘れることはないでしょう。古風な男子校に染まりきれなかった僕らにとって、唯一の青春の時間だったのかもしれません。
その後、個人部門は4人落ち、なぜかチーム部門が通りました。
急遽チーム部門で出場するということになり、たまに集まって演技の練習をしていました。でも、自分たちの愉しいを詰め込んだだけの演技だったので、その場の空気感も爽やかで、個人練習の息抜きという感じでした。個人で出場する同期は少しピリついていたかな。そして東京へ。
井の中の河頭として終えたJSJF2回大会のあと、棍棒祭というクラブジャグラーの集まりに行きました。そこでホンモノのジャグラーを間近で目撃します。ネットの向こう側の方々がたくさん居られましたね。大袈裟な感想を言うと、クラブの回転が滑らかで、まるで投げられた道具の表情が今まで見てきたものとは違いました。なんか高校で使われてる道具はみんな痛そうだったなあ‥。世界は広いし、自分は今までジャグリングをしていなかったのだろうなと。ホバーからの3ウィンドミルをはじめて見たのもこの時だったかな。
引退は3年生の5月でした。高校の近くの大きなショッピングモールの広い区画(なんか吹き抜けのとこ)で公演させてもらえることになりました。当時はそんなこと考えませんでしたが、顧問の先生には感謝しかありませんよね。バータックスとかハイアップとかでやりたい放題の高校生を何の罪もない市民の前によく送り出せたなと。こわいこわい。
それと実はこの場所、高校1年生のときに矢部亮さんを見た場所でした。かっこよかったなあ。まじでかっこよかった。そして、何もできなかった自分たちが、2年間成長してこの場に立っているストーリーに興奮した覚えがあります。キラキラしてたなあ。
ひとりひとりの演技を今でも覚えています。たぶん忘れないだろうな。天体観測、自由、大切なものと特別な曲もいっぱい増えました。なぜか、私が適当にダウンロードしたアニメのBGMでメテオの演技をした方もいましたね。天体観測を口ずさんでくれた観客の方もいました。そういえば、親がいました。同期の親もいたし、観客の大半は親だったのでは?という気さえします。どこから情報を嗅ぎつけてくるのか不思議でなりません。
このときにはじめて2ディアボロハイトス4キャッチが演技に入っていました。え!?ってかんじですが、高校生の僕の限界はそこでしたし、特にハイトスに思い入れもありません。バックの大きいモニターにぶつからなくて本当に良かったなあ。しみじみ。
引退してからもたまに、同期とジャグリングをしていました。受験の息抜きもありましたが、大学生になったらJJFCSに一緒に出ようなとか言って練習していた記憶があります。よく聞く話ですが、学生のテスト期間ってジャグリングがうまくなるんですよね。
ちなみに高校生でも今でも、ディアボロをしてきた後悔とかは特にありません。が、別の生き方はどんなだったのかなとはたまに考えます。もし、バドミントンを続けていたら、サッカーをしていたらと。まあ、人生そんなもんでしょう。サッカーは今でも大好きです。
高校生までを終えて、あなたは何をしている人ですか?と問われればジャグリングをしている人です、と答えられるようになりました。それくらいには、このよくわからない存在に対して肯定的で、特別に想っていました。自分はきっとこれからも続けていくんだろうなと。30歳までバリバリ続けているとは、思わなかったけど。
ただただ愉しかった高校生活でのジャグリングは、自分のアイデンティティくらいにはなったのでしょう。でも、それだけでは生きていけません。この頃から受験期にかけて、ジャグリングはさておき、自分の人生を何をして生きていくのかと意識し始めます。遅いですねえ。
まだ浅いあの頃(ディアボロ5つまで)
大学から富山に行きました。人生を意識したときに最低限、群馬を離れたかったというのはありました。東京はちょっと‥。あとは、生き方のかっこいい友人の近くにいたかったから。浅いですよね。自分もかっこよくなった気になるほどアホではなかったですが、何かきっかけをもらえることを彼に期待していました。他力本願ですね。この頃の自分には、人生を生きていく術は何もありませんでしたから。何もないとは文字通り何もないのです。平坦で空っぽ。地ならしされたのです。ただ、愉しいだけで生きてきましたから。
そんな彼とはさまざまなことをしました。夜中散歩したり、山や海に採集に行ったり、ブログを書いたり、駅前で大道芸したこともあったかな。めっちゃ金もらいました。彼にもらったヒトデを家で飼っていたこともありました。あるときは、雪の降る中、海に出かけて凍えながら自転車を押して帰路についたこともあり、マジで命失うかと思いました。彼は別に破天荒キャラとかではないです。でも、愉しかったなあ。
大学生になり段々と、生き方がかっこいいとは具体的にどういうことなのか、自分にもなんとなく理解できるようになりました。自分の命を何に使うのか彼はとっくの昔に決めていたのでしょう。結果が先に決まっていて、行動を伴わせる。何がなんでも。やることをやる。上述した彼の行動も結果を知っている自分からすれば、一貫したものだったのです。文字に起こすとそんなふうには見えないね。
自分はまず、結果の方を決める必要がありました。というか、それ以外に今のこの平坦な自分を変える手段がわかりませんでした。
何かしなきゃ。何かしなきゃと思いつつも何も思いつかず、徐々に自分のディアボロが大きく飛んでいくようになりました。人生はわからないけど、とりあえずジャグリングはやっていこうと。このときに、今後の生活の軸になるものを結果として選択できていたら、また人生は違ったものになっていたのかなと思います。でも学問には、あまり興味が持てなかったですし。金にも名誉にも。
大学1年生の頃は、3ディアボロハイトスとバータックスを磨きながら、ジャグリング全般に手を出したりしていました。たぶんこの頃、5ボールカスケードができるようになったのかな。ま、一般教養ですもんね。エイトリングもやったりしました。
それで、この頃かな。富山でうえだくんを観測しました。自分と比べて、全てが上手い存在に突然に出会い、なんか凹んだ覚えがあります。というのも、大学生になってから自分なりに真剣にジャグリングに向き合って努力していたので。たぶん、うえだくんも3ウィンドミルは回っていなかったと思うけど、一緒に練習してなんか僕のは回る気配がないんだよなあとさらに凹みました。なんや、左押しって。ただ、二重に凹んだおかげかそこから奮起しました。もっと頑張らなきゃと。
いま振り返ると、頑張ることに酔っていたなと思います。頑張る自分は、かっこいいみたいな。頑張ってたら、人生もなんとかなる!浅いですねえ。
ちなみにうえだくんとはその後も何かと縁があって、JJF2015、東北旅行や東北大学奇術部の定期公演で出会いましたが、会うたびにアップデートされていて結局実力が追いつくことはありませんでした。少なくとも、当時から今までずっとそう想っています。うえだくんのディアボロはどの技をやっていてもなんかこう、ちゃんと血が通っているんですよね。
振り返ると、仙台には結構遊びに行っていますね。でも、まだ牛タンを食べていないな。東北ジャグラーの聖地の青文にもお邪魔していますが、楽器の演奏が絶え間なく響き、耳が痛くなった記憶です。
その後、富山でも再び会ったり、高校の同期も富山に来てくれたり、その辺はなんか知り合いが富山に押し寄せてきた時期があって、詳しく覚えていませんが、友人がたくさんいるって良いものだなと安心していました。友人が10人もいれば、たくさんです。アホみたいにのどぐろの寿司を食べまくったのもこの辺か。
でも、大学生になってから一人で練習する機会が増えました。練習場所はいつも五福公園。芝生にクレーターを作って怒られたりしました。自分には、一人で練習することが合っているのだろうなと、この頃から薄々感じ始めます。一人旅ではないですが、技を習得するたびに、ディアボロが僕だけに新しい景色を見せてくれていました。それだけで愉しかったですし、それが一番愉しかった。
サークルにも所属しながら、3年生の頃に割と大きなステージに立つことになり、デビルスティックの彼とお互いに演技を作り上げる機会がありました。この時は特に意見交換とかはなく、お互いに時間との闘いを強いられた記憶です。大学生も一応忙しいですから。これが、自分が最後に頑張ったルーティン制作になります。我ながら良いルーティンで、レイトン教授の独特なヴァイオリン音楽に合わせて、1-3ディアボロで構成させました。ちゃっかり、インテグラルしてましたし、ハットかぶったりしてました。若者だったなあ。
彼の演技はおそらくこれが集大成だったのではないでしょうか。僕が言うので間違いはないと思います。それだけかっこよく見えました。女性のファンがたくさんいたのを覚えています。
ルーティン制作って本当に大変で、たぶんこの時期に大会に出たりしていれば、また違った人生になっていたのかなと思うことがよくあります。たくさん出て、負けまくって、悔しさを感じておけば良かったなと。もういまの自分に負けている時間は残されていないですから。
大学4年生の頃、実はJJFCSを目指していました。目指して、挫折しました。ルーティンを作りきれませんでした。やりきれませんでした。それと同時期になんやかんやあって、うえだくんとディアボロのビデオを作りました。技動画ですね。その動画に使われている技は今でもたまにやったり、音源もたまに聴いたりしています。当時の最高到達点を結集しているので、技はいまでも普通に難しいです。
ディアボロを吹っ飛ばすことに目覚め始めて、大学生のうちに5ディアボロハイトスに到達します。外練メインで日差しが眩しかったので、この頃サングラスをかけて練習していました。
さて、そろそろなぜハイトスをするのかという話をしましょうか。
かっこいいからです。
はい。かっこいいからです。あえて二度言いましたが、ハイアップを得意とするデビルスティックプレイヤーの影響ですね。これも彼の猿真似というわけです。高く投げたものを捕まえる、愉しいしかっこいいし最強ですね。大きな軌道を作って、自分はここにいるぞと主張したかったのもあります。誰に主張するでもなく、僕なりの置かれた環境とのコミュニケーション方法だったのかもしれません。ミルが苦手だったのも当然ありますが、先述した通り体を動かして成長していきたい性分なので、全身を動かしてできる、かつ個数を無限に増やすことのできるハイトスは私にぴったりだったのでしょう。
しかし、5ディアボロハイトスに入れるようになった頃から、ディアボロ以外が忙しくなり、少し距離を置く時間がありました。大学院、就活、就職と。嫁に出会ったのもこの頃でした。
迷って、足掻いて、カッコ悪くて。
大学院生の頃の年末に群馬で、高校の同期に会いました。なんとなく院生をやっていた自分には、就職していたり、夢を追いかけていたりする同期が眩しく見えたのを覚えています。
また、ふりだしに戻ったなと。
戻った、は間違いですね、私の人生は基本的に平坦なのでしょう。
結果を決め、行動を伴わせる。大学生活を通して、特に捨てることのできない自分には、不可能な決断でした。
深く沈み込んだあの頃(ディアボロ6つまで)
ジャグリングって一度離れると戻るのが難しいですよね。まあ、離れたつもりはなかったのですが、そもそも所属もなかったので、自発的に動けなければ何も変わらないわけで。
仕事終わりに天気が良ければ、ふらっと公園へ出かける。大学生の頃と変わらず、ハイトスをやってもなんだか面白くないなと。あんなに熱中したディアボロも、テスト期間に進めたゲームのようなものだったのかな。
忙しさも言い訳にしていました。ただ、それらは全部嘘です。単に純粋に向き合い過ぎていたのです。好きなジャグリングを続けていい理由を探していました。
かと言って、他で何かに熱中していた訳でもなく。職場はときたま燃えていましたが。なんだか、自分の中のエネルギーが小さくなってしまったのを感じていました。このままではいかんと、たまに7ボールシャワーの練習をしたり。ボールって割と練習場所に困らないですよね。この頃かな、ほりくんと男2人で、恋人の聖地である雨晴海岸に行ったのは。そういえば、カメラを少しだけ触っていましたね。
そんな中、特別なきっかけはありませんでしたが、2021年の10月に自分を燃やし尽くすことを自分と約束しました。なんか時期的にJJF2021がきっかけかなという感じですが、違います。これで、エネルギー完全開放です。唐突ですが、このときから自分は7ディアボロハイトスをやることに決まっている人生を歩んでいくことになりました。自分として生まれた以上、自分というちっぽけな才能、資本くらいは使い切ってあげたいなって。例え、どんな形であっても。
幸い生活の軸は出来上がっていましたから、ほんの少し決断するだけでした。僕は、僕の人生がちょっとだけ愉しくなるよう祈り、自分を欺くことにしました。
結局、探していた人生の軸はいまの今まで、空席です。なぜか、そびえていた大きな空の筒に、目一杯の愉しいを螺旋状に巻いたものが僕の人生です。きつく締め上げれば、いつかそれが巨木になるのでしょうか。
かっこよく見えた彼も実は自分を欺き嘘をついていたのでしょうか。そうであって欲しい自分と、あってほしくない自分が今ここにいます。が、それはわかりません。そこまで深い話をする前に、彼は富山を離れてしまったので。いまもどこかの海にいるのでしょう。
はたして、7ディアボロハイトスを達成するという途方もない嘘が完成しました。これは、難しい目標でしょうか。私はその時も今も変わらずに思うようにしています。結果はきっと望む通りに収束するのでしょう。だって、たった7つじゃないですか。なんと楽観的な。でも、燃やし尽くしたい訳ですから、それなりに難しいことも本当はわかっていました。
やっぱり、いきなり自分を信じ切ることはできなかったです。まずは、自分の可能性を信じさせてほしい一心で、ディアボロを追いかけ始めました。それが2022年をかけて自分が取り組んだこと、6ディアボロハイトスへの挑戦です。来る日も来る日も、広い体育館に自分が捕まえられなかったディアボロの、びたーんという音だけが響き、ただそこには自分とディアボロだけがいました。体育館が空いていたので、まじで誰もいませんでした。リムをめっちゃ割りました。
ちなみに、やってみるとわかるのですが、4スローと5スローの難易度には雲泥の差がありました。5スローは、うまくいったときとうまくいかなかったときの違いもわからないくらい、一瞬の出来事のように感じられました。制御なんて無理だと。当時は最大の回転率で投げ切ると、トスに移行できる代物という感じでしたし、5つのディアボロが視界に収まりきっていないので、ガチ隕石でした。メテオストライクです。落ちるたびにディアボロがどんどん柔らかくなっていきました。もうダブルソフトです。
辛かったです。毎日毎日。お前は7が目標なのに6でこんなに躓くのかと。右肩から指先までが全部痛いみたいな日々が続いていきました。投げ方が悪いし、筋力も足りていませんでしたから。
そんなコンディション不良の連日練習5日目の10月12日の午前、6ディアボロハイトスクオリファイ達成。久しぶりに涙が出ました。なんでかわかりませんが、嫁がポケモンカードを3パック買ってお祝いしてくれました。御三家が全部出たので嬉しかったです。
これで、洗脳できました。一瞬です。本当に瞬き由来の盲信が僕を支えてくれました。そこからは、毎日一歩ずつ進んでこれてるかな。そこへ辿り着くために、ディアボロもディアボロ以外のことも取り込んで、検証して、仕事をしながらで大変なことばかりですが、充実した辛い幸せな時間を過ごしています。
正直練習はしんどいです。毎日やめたいなって思ってます。でも、自分との約束くらいは守りたいなって。
うえだくん、ほりくんともたまに練習します。うえだくんとは本当に数年に一度会って、特に連絡を取るわけではありませんが、またどこかで会う気がします。ほりくんはここ最近までは、常に暇そうだったのでよく会いました。もう暇ではなさそうです。別にニートだったとかではないです。
なんだかんだ、2人がいなかったら、自分はジャグリングを続けてはいなかったかもしれません。感謝しています。
そして、デビルスティッカーの彼にも感謝しています。2022年の春に彼らが出演するステージがありました。ポイが飛び、木を弾く音がこだまし、僕はそこではじめて4ミルを見ました。とてつもないエネルギーを受け取ったことを今でも覚えています。
ちなみに、私は移動が苦手なので、普通ならわざわざ仙台まで行ったりしません。大宮での乗り換えとか耐えられません。終幕後、少しだけ話をすると、すぐに帰りの新幹線に乗りました。悔しかったなあ。
再起してからですが、仙人のように練習しているのであまりエピソードトークがありませんね。あ、体育館が何ヶ所か顔パスになりました。無職だと思われてたら嫌だなあ。
割といいかんじな今(ディアボロ7つ目へ)
2024年、ディアボロ7つに挑戦してみました。
結果は2キャッチ。
まだまだですね。でも、未来は決まっていると信じて、2025年も続けていきます。それまでに出会えるすべてのものを糧にして。
そういえば、お前はなんで7ディアボロハイトスをやるんだって話をしていませんでしたね。
なんか誰の足跡もないきれいな雪を見たら、自分の足跡でっかくつけたくなるじゃないですか。マイクラやってて、新しいバイオーム見つけたらわくわくするじゃないですか。そう、ただそれだけのこと。自分で見つけた綺麗な景色をずっと眺めていたいのです。もしも、ただそれだけのことに酔っ払って生きていけたら、とっても幸せじゃないですかね。
まあ、そんなかんじですね。
では。