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243、夢で会いたい!

神さま。
今日、受験アプリの子に、「わたしたちは、神さまを認知しているわけではないですが、信じていれば、いい気分です」
と言われた。

なるほど!信じていれば、いい気分。そんな感じでいいのかも知れない。
すごく!勉強になりました!と返しておいた。

あまり、危ない奴と思われるのも、なんなので、亡くなった、母の存在を伏せておいた。

ぼくは、亡くなった、母に対しては、100%とまでは、いかないかも知れないが、その存在を生活の大半に感じている...…

こんなこと、ひとに話すものではない、とわかっているが、noteのかたは、年齢層が高いひとばっかりですし、信仰についても、信じたきゃ、信じたいで放っといてくれると思っています。
だから、noteでは、記事にさせてもらうが、ぼくは、亡くなった母は、この世で、いまだ、見守ってくれていると思っている。(~と信じている、ではない)

だって、ちゃんと、困ったときや、楽しいところに出かけるときは、仏壇のおもちゃのろうそくを灯していくし、資格試験の合格証書は、仏壇に供えるようにしている。
手紙だって、母によく書くし、疲れてたまらない!というときは、仏壇の前で、缶ビールを飲むようにしている。

母は、ぼくのなかで生きているのだ。いや、生を保っているのである。

兄姉によく、あほ!と言われるが、介護で使っていた浣腸の薬も、残してある。
クローゼットのなかみは、母の着ていた洋服が飾ってある。(父のスーツも)

まあ、ただ、整理するのが面倒だ、というのもあるが、残していれば、母や、父と、まだ一緒に暮らしているような、そんな気にさえなってくる。

最近、夢に、あまり出てこなくなったのだが、こうしていれば、母や、若い頃の父と、夢で遭遇する確率も高い。

夢で会いたいのだ!

と、こう言えば、理解してもらえるだろうか?



浣腸の薬をまだ、残してあるだなんて、それは行き過ぎかもしれない。でも、介護していたときの、あの生活の痛みを忘れたくない。
母の正しい供養には、なってないかも知れない。でも、これが、ぼくの両親に対する付き合いかたである。
苦しいときは、苦しいときで、母や、父に手紙を書くし、その提出先がわからないので、仏壇に必ず、供えるようにしている。
一度、父の最期についての、ぼくの考えを仏壇の前に、提出したことがある。父は、まだ、生きているが、どうしても、父と接していると、行きつく先は、そこになる。
(こんなこと、兄姉に話したら、怒られるだろう)

手紙の提出先が仏壇ということにしておけば、他人も、理解しやすいだろうと考えている。引き出しのなかに閉まっておくのも、一向にかまわないかも知れないが、やはり、リアリティーを出したいものだ。

とにかく、ぼくの父と母に対する思いは、兄姉が聞いたら、変人扱いするだろう。
いや。寺のお上人さんでさえ、それは、間違ってます、とおっしゃるかも知れない。
でも、こうでもしなければ、ぼくの生活が成り立たないのだ。

自分を守るため、父と、母の存在を残しておくため、ぼくは、こうする他ないのである。
兄なんて、せっかくの母のかたみのピアノを売り飛ばして、お金にしてしまうし、姉さんだって、年老いた父をよく、怒らせることもある。
兄姉に任せておいたら、父と母の存在が危ぶまれる!!

って、勝手に焦っているのは、ぼくだけかも知れない。そうかも知れないが、これから、生活は、どのように変わっていくかわからないけれど、ぼくも、父と母にできる限りのことはしたい!
そう、願ってやまないのである。


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