ブーツを煮る。
私が何故この名前にしたかと言うと、障害を抱えながら無職の一人暮らしをしている。過去、現在においてもブーツを煮るほど人·物·金がなかった訳では無いと思いこの名前にした。ただ2019年1月3日午後9時頃あの瞬間に至るまで私の人生は多難だった。
別に不幸自慢したい訳では無い。ただ事実の羅列と気持ちの整理として書いていく。
私には戸籍には乗らない兄がいる。
幼稚園にしていじめに続くいじめに耐えきれなくなり自傷行為をしていた。神経がズタズタになり未だにそこにものが軽く触れているだけで痛い。
次第にエスカレートしていき中学まで続いた。
スポーツ少年団も死ね死ねと言われながら殴る蹴るのオンパレード。家に帰っても夜の9時10時まで誰もいなくて帰ってきたら来たで母がヒステリーを起こして私を打つ日々が続く。夜の11時になり漸く一息つけた。そうなり始めたのは小学校3年からだった。
小学校がそんな感じだった。
中学も高校も社会人何年間かそんな感じだった。
心身がずたずたに引き裂かれながら実家に引きこもっている私。
ある日何も考えられない頭でこう思った。
「私の人生はなんだったのだろうか」と。
そう思った瞬間、私に影が差した。
自分でもコントロール出来ないほどの猛烈な怒りに襲われ私は生成へと変化したのが分かった。
私は中型自動車免許を持っており、秋葉原事件が、にぶい頭によぎった。
シュミレートをした。刃物も買った。あとは車をレンタルするだけだ。
「さぁやろうぜ」
と意気込んでいると運命の鐘が鳴った。
姉からの電話だった。私にぜひ会いたいという酔狂な人がいた。一度そのまぬけな顔を拝んでみたいと思い、車で一時間半運転し会いに行った。カラオケバーと言うのだろうか、そこの店長をしている人からだった。誰かと話した記憶は定かではないが朝方までいたことを覚えている。
「帰りはどうする。」と店長が言う。
「車で帰ろうと思う。」と私が言う。
お酒も飲んでいたので帰りが怖いなと話しながら私の行方を心配してくれた。最終的に家に招待してくれることになり、店長の家に帰った。
家でも手厚く介抱してくれた。
いつかぶりの温かいご飯を作ってくれた。
風呂に入れてもらい背中を流してくれた。
寝床を用意し寝巻きまで用意してくれた。
訳は聞かれなかったが、ずっと声をかけてくれた。
包丁はどこにあるか分かっていたが刺せなかった。赤の他人にここまで優しくしてくれるその精神がわからなかった。混乱もしていたが私は久しぶりに安心して寝ることが出来た。
会って三回目。2019年の1月3日午後9時頃、たまたま客が帰り店長と私の1対1になった。初めて訳を聞かれた。私の人生に何があったのだ。と…。
喋ったと言うより発狂に近かったと思う。鈍い頭をフル回転させ、あんなことがあった。こんなことがあった。悔しい、悲しい、やるせない。悔しい悔しい悔しい。とありったけの言葉を店長に浴びせた。全てを吐き出し終え涙を流しながら肩で息をしているのがわかる。
確かこんな口調で私にこう言ってきた。
「分かった、兄弟になろう」と。
私には戸籍には乗らない兄が出来た。
お酒を酌み交わし肩を叩きながら言われた。
あれから5年もうすぐ6年。年季の入ったうつ病も最近になりようやく晴れた。
この世のどっかの誰かの夜がしらみ始める。
「さぁ、もうすぐ夜明けだ。」
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