心優しきひと
仕事と父の在宅介護を両立していた時、膝の皿を骨折して松葉杖通勤を余儀なくされたことがあった。その日、帰宅時に限って生憎の雨。普段なら職場→JR駅は徒歩3分の距離、そのためタクシーに乗ることも憚られる上、仮に探したところで空車など無論いやしない。両手松葉杖、傘を肩と頭のところで支えるということも考え試したが余りにも不安定なため諦め、頭上に広げたハンカチを乗せただけで駅に向かう。丁度、大企業の退社時間と重なり数多のひとが急ぎ足で帰路につく時間帯の中、明らかに目立つほど当然歩みは遅い。その途中、スッと蝙蝠傘の男性が左側を2、3歩先に進み出て少し何かを考えるかのように立ち止まった。そして、いきなりくるりとこちらに向かって踵を返すと大きな蝙蝠傘を無言で差し掛けてくれた。その一瞬で全てを理解した。そうなのだ。彼は、きっとずっとずっと手前から己は目立たぬよう少し後ろの方から自分が濡れるのもお構いなしに蝙蝠傘を差し掛けてくれていたに違いない。だが『この松葉杖のこのひとの歩みのスピードに付き合っているといつもの便に乗り遅れてしまうかも知れない。その上、駅はもう目の前だ。このまま黙って立ち去り先を急いだとしても構わないだろう』いや、待て、しかし、いやいや、うむ、足を止めた一瞬に頭に色々とそんなことが過ったらしい。そして、ほんの一瞬の葛藤の後この松葉杖でずぶ濡れのひとをちゃんと駅までエスコートする、が電車の便を1本くらい逃しても為すべきことだと思ってくれたようだった。松葉杖で前傾の姿勢から見上げた先の武士道(騎士道)精神の粋な男性に何度も頭を下げたのは言うまでもない。『当然のことですよ』彼はそれだけ言うとホームの人混みの中にあっという間に紛れて消えて行った。その後ろ姿を目で追い見送りながら、いくら大きな蝙蝠傘とは言え、彼の左側の方が松葉杖のひとに差し掛けた右側よりもより一層びっしょり濡れていたのだけははっきりとわかった。まだ潔く雨に濡れるには肌寒い3月の終わりのことであった。