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第七十話 ゑしま観音

もくじ 2,574 文字

 空き地には真一たちの車を除いて、白い軽トラが二台、モスグリーンのRVが一台停まっていた。軽トラは、地元の漁師のものだろう。RVは真名井さんの車。真名井さんはマスターの年の離れた弟で、厨房のスタッフだ。まだ三十代前半と若く、真一たちと行動をともにすることも多い。以前は海辺のリゾートホテルで働いていたが、レストランHORAIの拡張に際して、マスターが呼び寄せた。真名井さんは、松浦、波田と三人で、昨夜からここで釣りをしている。イサキを釣りたいと言っていたが、果たして釣果はどうなったのだろう。もう日が高いから、とっくに納竿のうかんしたはず。
 車を降りた途端、重だるい夏の熱気が全身を押し包んだ。濃密な緑の匂いに、頭がくらくらする。周りは山しか見当たらず、スコールのように蝉しぐれが降り注ぐ。いちばん多いのはミンミンゼミの声。次いでツクツクボウシとニイニイゼミ。アパート周辺で鳴いているアブラゼミの声はほとんど聞こえない。山の中には、あまりいないセミなのかもしれない。
 森の小道の入り口に、丸太の標柱が立っているのを見つけた。樹皮が削られた部分に、文字が刻まれている。
「ゑしま観音……?」
 漫然と読み上げたら、久寿彦がこっちを見た。
「この先に観音像があるんだよ。行ってみるか?」
 ほかの仲間たちは、まだ到着しそうにない。美緒がさっき携帯で連絡を取ったところ、西脇が運転する店のバンは、真一たちの五、六キロ後ろ、益田の車はさらに遅れているとのことだった。
「あ、筒川さん、ちょっと待って下さい。カメラ出しますから」
 車の鍵をかけようとした久寿彦を、四谷が呼び止めた。バックドアを跳ね上げて取り出したのは、近頃話題のデジタルカメラ。ついに手に入れましたよ、と先週嬉しそうに話していたやつだ。現時点での購入は勇み足な気もするが、そこは他人がとやかく言うことではないだろう。枚数を多く撮れたり、液晶モニタで画像を確認できたりと、デジカメならではの利点もある。
 小道を抜けると、山と森に囲まれた小さな広場が開けていた。中途半端ながら芝が生え、大雑把に草も刈ってある。正面の山斜面に石垣が見える。袂にカミヤツデが生い茂り、どことなく南国っぽい雰囲気。真一たちは広場を突っ切って、石垣の階段を目指す。
「大きな葉っぱ……」
 左右に迫る葉っぱの一枚に、美汐が興味深そうに触れた。葉っぱの大きさは、普通のヤツデの三倍くらいあるだろうか。色は明るく、ヤツデのような光沢はない。オクラの葉っぱにも似ているかもしれない。在来種ではないから、誰かが植えたのだろう。
 石段を上り終えると、まっすぐ石畳が続いていた。右側に年季の入った石の九重塔、左には何かの石碑と赤い実をつけたサンゴジュ。観音像は、突き当たりの石壇の上に立っている。台座を含めた高さは、四メートルくらい。背後にノウゼンカズラが巻き付いたシュロが生え、やはり南国っぽい雰囲気だ。
「へえ、いいじゃん。ここで写真撮ろうよ」
 オレンジ色の花を見上げて、美汐が言った。ノウゼンカズラは、最も夏らしい花の一つ。シュロ皮付近で咲き乱れて、楽園の入り口を示しているようだ。
「アンコールワットみたいだね」
 美汐が振り返った。まあ、本物のアンコールワットと規模は比べ物にならないが、エキゾチックな雰囲気は似ている。日本の仏教寺院に、こうした雰囲気はない。
「こんな場所があったとは……」
 ボディボードをやりにあちこちの海に行っている美緒も、ここに来たのは初めてらしい。感心したような面持ちで、境内を見回している。
「じゃあ、そのへんに並んで下さい」
 四谷が九重塔の脇あたりを指さした。観音像に近づきすぎても、構図が悪くなってしまう。真一たちは、石畳を跨いで横一列になった。
 カメラを構える四谷。
 一見、自然なポーズ。だが、よく考えると変だ。デジカメにファインダーは付いていないはず。
 ただ、それは持ち主がいちばん知るところ。
 四谷はきまり悪そうに咳払いすると、さりげなさを装って、顔からカメラを離した。
「じゃ、じゃあ、撮りまーす」
 幸い、真一以外の三人が、四谷のやらかしに気づくことはなく、四谷は笑われずに済んだ。

 広場を抜けた先には、昔の生活道路みたいな道が続いていた。照葉樹林の葉っぱが頭上を隈なく覆う、昼なお暗い道だ。左右を見渡せば、林立する木々の幹に木質化した太い蔓が絡み付き、熱帯のジャングルさながらの様相を呈している。道端に生えたシダやノシラン、ヤツデといった草や低木も、そうした雰囲気に拍車をかける。
「シンさん、大丈夫ですか。会話がなくなってますよ」
 背後の岡崎が声をかけてきた。真一をからかっているのか、思いやっているのかわからない。
「その荷物、やっぱり身に堪えますか」
「当たり前だろ。でも、暑さのほうがきついかもな」
 真一は、磯釣りで使う背負子を背負って歩いている。結わえた荷物は、クーラーボックス二つ、折りたたみテーブル数台に、紐で束ねたアウトドア用のイス。量ったわけではないが、四十キロくらいあるのではないか。踏み出すたびに、地面に足がめり込んでいる気がする。おまけに森の中は、気温も湿度も熱帯雨林並みだ。風通しも悪く、出発してからあまり経っていないのに、すでに汗だくになってしまった。
「暑さと重さのダブルパンチですね。あー、じゃんけんに勝ってよかった」
 余裕の口調が恨めしい。言い返そうとしたら、
「岡崎さんこそ、息が上がってますよ」
「そうそう、大して重い荷物でもないのに。やっぱり、煙草やめたほうがいいんじゃないですか」
 思わぬ援軍が現れた。岡崎の後ろを歩く坂戸と竹原は、夏だけバイトに来ている学生だ。一応、岡崎の後輩に当たるが、サークルなどで繋がっているわけではなく、単に同じ大学に通っているだけ。バイトを通して知り合わなければ、赤の他人だった。二人も背負子を背負っている。ただ、自分で用意したものではなく、やはり同じ大学の先輩の波田からの借り物だ。波田は、岡崎より一学年上の三年生。大学では探検サークルに入っている。毎年、卒業する先輩が、要らなくなった道具を部室に置いていくので、この手の道具が腐るほどあって困っているという。坂戸と竹原にも、できれば背負子を引き取ってもらいたいと言っていた。

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鈴木正人
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