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私の人生5

とび職へと本腰を入れようと 妻の身内の会社に入れてもらった。
 義理の父の兄弟もそこで働いていた
トラックの仕事もなかなか見つからないので こちらも給料が良かったのでやってみることにした。

そこで知り合った職人さんたちもいい人が多かった。 

まあ義理の父の兄弟以外だか!
そその職人さんたちに色々と教わった
ロープの編み方からワイヤーの編み方まで 基本プランと鳶という仕事だった
 化学工場などで機械のメンテナンスのために足場を組む仕事だ。

結構やばい薬品の所にも入った。
アスベスト関係の仕事もした。
 二人目の子供も出来ていたので必死になって働いた
 月の内35日とか働いた 昼夜問わずに働いた。
 周りの職人さんがよく働く人達で仕事もよく知っていた そんな方たちにすごく仕事教えてもらった。

ここでひとつわかったことがあった。
義理の父親の兄弟もみんな働いていたがみんな仕事嫌いだった。
 これは家系なのかと思った
どどんなにお金に困っていても義理の母は働いたことがない
 私の妻もずっと専業主婦だった。
1年ほどして現場を任されるようになった。
 建築業で親方もしていたこともあったが 職人と仲良くしていくのが得意だった。
 生活の少し安定してきた頃 やはりオヤジの肝臓が治らない。
 入院をしていた親父の医者に呼び出された。

このまま入って治療を続けても持って半年だろうと言われた
 ある程度覚悟はしていたが何もしてやれないことに腹が立った
 仕事もしてない親父も悔しそうだった
生活保護をもらえるように何とかなった
 母もずーっと心臓が悪く仕事はできなかったから 少し一安心した

それでもやっぱりうちの親父と母親は孫をすごく可愛がった
 お金もないのに自転車や何やとかってくれる

西成の家賃や駐車場代を払うのがしんどくなり 堺の府営住宅へ入る予定になっていた

親父のこともあったんで予定より一か月伸ばしたがこれ以上は伸ばせないというのが分かり 引っ越しすることになった
 もう親父が駄目だというのに引っ越すのはすごく気が引けた
 でも自分らの生活もそんなに楽ではなかったのでどうしようもなかった

 休みの日には親父の病院先へ行ったり母親の様子を見に行ったりとしていた
 子供達を連れて行くと喜んで母親から後から聞いたけど帰った後は泣いていたようだ
 一人母親を家に置いて引っ越しするのはすごくつらかった
 自分の親に何もしてやれない自分が歯がゆくて仕方なかった。

 妻の方は私の母親とうまくいかなかったので気楽になったんだと思う
 実感したのは私の妻は冷たい人間だったと思う。

そんな妻をずっと見ていると本当に腹が立った。
 自分の親ばかり面倒を見て私の親には何もしてくれない こんな女だったかと
 本当に後悔した。
孫に何も買ってやったことのない義理の親と自分のご飯も食べるのも辛抱して何かと買ってくれる親とどちらが大切かは本当なら分かっている。
   
親父もやはり医者の言う通り半年ほどしかもたなかった。
肝不全で朝方亡くなった 慌てて走って行ったが堺からでは間に合わなかった。
 親父の葬式もお金がなかったんです
そんなに大きなお葬式はあげれなかった
 田舎からも来てくれていたがお通夜の晩もお葬式の日食事を出せなかった

 お葬式が終わってほっとしたのも束の間事情が肺炎を起こして入院をした
 本当に大変な時だった
住所は入院して一週間ほどで良くなったが 今度は私の番だった
 今まで無理をしすぎてたんだろう
熱があっても仕事にずっと出ていた私も
 肺炎を起こして入院することになった
ここで人の感情っていうのが分かるようになった。
 妻と二人で近くの大きな病院を紹介してもらい検査をした
 正常の何十倍もの白血球数値が上がっていたそうで 即入院即点滴と言われま言われたが 車で僕自分で運転して行ってたので妻が運転できなかったんで
 一旦妻を家まで届け入院道具を揃えてタクシーで病院に行った
 すぐに点滴が始まり入院生活が始まった ここまでは入院生活は普通の事だと思う ここからが本当の人間の感情を知ることになった


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