とある日のキッチンにて

 人生において、いや人間関係において、影が潜んでいることは周知の事実である。どんなに好印象を抱いた相手であっても、影を覗いてしまうと疑心を拭うことは難しい。

 外は暑く出かける気も起きない土曜の午前11時。今日は冷蔵庫にあるもので適当に昼食を作ることにしよう。冷蔵庫には昨日作っておいた麦茶がたっぷりとあった。人生において必要な貯えとは、お金なのではなくキンキンに冷えた麦茶なのだ。

 冷蔵庫には、キャベツとニンジンとタマネギ。そして冷凍庫には豚肉が入ってあった。どれも使いかけで少量しかなかった。それらの食材をキッチンに並べてみると、出来の悪い地方のサーカス団のようだった。

 僕はそれらを食べやすい大きさにカットした。僕はキャベツを切る時、キャベツに何かが住んでいるのを発見した。それは黒い体をしており、その体から何本かの足が生えていた。虫くらいいるものだろう、と誰かが僕に語り掛けたが、僕はいくらか疑問を持った。

 この虫はどこからいたのだろうか。スーパーで買った時からついていただろうか。僕の冷蔵庫の中でついたのだろうか。或いは今この瞬間どこかから羽休めのためについたのだろうか。こんな問いは持つだけ無駄なのかもしれない。キャベツに対して「おい、これはいつの虫だ」と聞くわけにはいかない。

 僕は念のため他の野菜にも虫がついていないか確認した。キャベツ以外は虫の姿を認めることができなかった。やはりキャベツだけなのだ。

 僕は火傷した指を冷水で冷やすように、執拗にキャベツを水で洗った。あまりに洗いすぎたせいで、それは食べ物ではないような錯覚に陥った。

 結局そのキャベツは使わないことにした。先のサーカス団からキャベツが抜けると、大きくバランスを欠いた見た目になった。それは間違えたことのようにも思えるし、正しいことのようにも思えた。

 その時ニンジンが僕にこう語りかけた「食べ物というのは清潔でなければならない」僕はその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。

 清潔でなければならない。しかし、それは食べ物を食す側のエゴに過ぎないのかもしれない。僕たちの身体もまた清潔と言えるのか。清潔ではない人間に食されるのは嫌なのではないか。

 僕は縁側に座り込み、味の濃い麦茶をいっぱい飲んだ。そして昔の思い出に浸った。


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