【小説】暗流~アンダーカレント~ 第二話
翌晩もリョウは《アンダーカレント》へと足を運んだ。来店が二度目ともなると、付き添いは要らない。ベルを押す。鉄製のドアが開かれ、戸崎が出迎えた。
「ここを気に入ってくれたようだな」
唇には薄笑いを浮かべているが、目は笑っていない。
「今夜も流行ってるな」とリョウは店内を見渡す。
客は三十人ほどで盛況だった。リョウの鋭い視線は、熱狂に包まれるバカラ台ではなく、店の隅へと注がれた。昨晩とちがってスポットライトは灯っておらず、グランドピアノは暗闇の中で存在感を消している。
「ピアノの演奏がないと盛り上がらねえな」リョウがホープをくわえながらいった。
戸崎が強い目力でリョウを睨みつけた。「だったらジャズバーにでも行けよ」
リョウはひるむ様子もない。ホープに火を点ける。「あのピアニストはどこに行ったんだい?」
「適当な女を引っかけたいなら、道頓堀という手もあるな」
戸崎は吐き捨てると、裏に引っこんだ。
リョウも手近の灰皿にホープを揉み消し、歩き出した。向かった先はバカラ台ではなく、無人のピアノだった。鍵盤の前に座る。バカラをプレイしている客たちは、リョウに目もくれない。
一人、スツールからおりて、リョウに近づく者がいた。あの白髪男だった。闇の中で白髪はジッポーを取り出し、火を灯した。
「……にいちゃんは、戸崎とはどういう関係なんや?」
青白く燃える炎を挟んで、白髪は小声でいった。
「何度か賭場ですれ違った程度の仲さ」リョウは無表情で答えた。
「そんなもんかい」
リョウは鍵盤蓋を開ける。自動で真上のスポットライトが点灯し、リョウの手もとを明るく照らした。
ピアノを弾きはじめた。ギャンブラーにしては繊細な指先が、鍵盤に軽くタッチし、なめらかな音色を紡ぎ出す。
「……ピアノも弾けるんかいな」白髪がジッポーの火を吹き消し、つまらなさそうにいった。「どっかで聴いたことのある曲やな」
「『Days Of Wine And Roses』だ。あの子が弾いていただろう」
「……にいちゃん、代わりのピアニストってわけじゃないやろ」
リョウは笑った。「あの子の代役は務まらねえよ。セミプロで辞めちゃった程度の男だよ、おれは」
リョウの背後で来客の気配があった。足音が迫る。リョウはピアノを弾きながら、顔だけでふりかえった。男は立ち止まったが、視線はぶつかった。
顎髭を生やし、チェスターコートを羽織った中肉中背の男だった。歳は三十歳前後。彼は口を開けて何かいいかけたが、言葉は出てこなかった。憮然とした顔つきで店内のあちこちに視線をさまよわせる。
「ちょっと、時間ええか――」
白髪がチェスターに向かっていった。真正面から彼の腕を掴む。
「なんやねん、ジジイ。放せや」
チェスターが手を振りほどこうとする。だが、びくともしなかった。痩せぎすで六十歳近くに見える白髪だが、腕力は相当なものらしかった。
リョウは鍵盤を両手で叩きつけ、乱暴に演奏を中断した。立ち上がる。二人のあいだに割って入ろうとした。
そのとき、バックヤードのカーテンがいきなりめくり上がった。戸崎が出てきた。眉の根を寄せて、咬みつきそうな顔つきになっている。チェスターに歩み寄ると、白髪とリョウを分厚い手のひらで押しのけた。
「おれの客だ」
戸崎はチェスターの背中を手で押して、二人して店を出ていった。
一瞬の出来事だった。
「なんだい、いまのは?」リョウは口を開いた。
白髪は何も答えず、足早に玄関口に向かい、《アンダーカレント》を出た。
彼はエレベーターに乗りこんだ。ドアが閉まろうとする。
そのドアの隙間に、リョウがコードヴァンの右足を突っこんだ。「おれも乗せてくれよ」
二人を乗せたエレベーターが下降する。
「あの店、何かワケありなのかい?」
「……外に出てからのほうがええやろ」
白髪はエレベーターに取りつけられたカメラのレンズを一瞥した。音声を拾っている可能性もある。
ビルを出た。駐車場から戸崎のベンツは消えていた。
午後九時をすぎている。ひと気のない暗い通りを、二人は速い足取りで歩いた。アーケード街が近づいてくる。深夜にもかかわらず、劇場近くでは漫才をしている者や、ギターで弾き語りをしている者、それらを観ている者で賑わっていた。この界隈だけは、リョウの知らない時代を引きずっていた。
白髪は歩調をゆるめて、リョウの後ろを歩きはじめた。
「あのピアニストの居場所は知ってるか?」リョウは前を向きながら訊ねた。
「ああ……茶屋町の戸崎の家におる」
「ずいぶん若い愛人だな」
「いや、あの子は戸崎の娘なんや」
「ということは、フルネームは――」
「戸崎なぎさっていうねん。美樹本みどりとかいう内縁の妻に生ませた子どもなんや」
リョウは立ちどまった。
白髪がリョウの背中に顔をぶつけた。「い、痛ったァ……なんや、急に止まりよって」
リョウはホープを取り出して、くわえた。ダンヒルを擦り、火を点ける。天を見上げて、ふかした。煙は冷たい風に乗って流される。リョウは醒めた目で、煙の消えゆくさまを眺めた。
「他には?」リョウは尚も質問をつづける。
「……歳は二十一。ちょっと前まで、プロのジャズピアニストとして活動しとった」
「道理でな」
「それがや、所属してたレーベルをクビになったんや」
「実力不足ってわけでもなさそうだな」
「二年前に、麻薬使用による女子音大生死亡事件を起こした。麻薬使用と保護責任者遺棄の罪で二年間、刑務所に入れられた」
「麻薬?」
「エクスタシーや。若いモンに人気らしい。大阪のアメ村でたまたま手に入れたのを、その死んだ同級生の友だちと二人で試したらしいねん」
リョウは眉間に縦皺を寄せた。
「出所後は、《アンダーカレント》でピアノを弾く仕事をするようになった。もうあの子は、親父のやってる店くらいでしかピアノが弾けへんねん」
リョウはもう一口ホープを吸いこみ、白髪を見下ろした。「あんた、刑事だろ」
煙まじりに吐かれた言葉に、白髪は目を丸くした。
「あの店を挙げない理由は?」
彼は諦めたようにため息をついた。「……なんでか知らんが、府政に守られとる。戸崎は、松田と仲がええんやろ」
「大阪府知事か?」
「先月、再選したとこや。新聞くらい読んだほうがええで」
「あんた――」
「村井や」
「村井刑事さんよ。だったらなぜ、あそこに張りこむ必要がある?」
「……先月、戸崎の内縁の妻が自殺してるのが見つかった。山道で車を停めて、排気ガスを引きこんどったんやが、睡眠薬を大量に飲んどったんや。警察は自殺として処理したが、わしは他殺と睨んでる。あそこにおるんは、何か手がかりがないかと思ってな……」
リョウはポケットからスマートフォンを取り出した。「これかい」
スマホの液晶画面を村井に見せた。そこに映し出されたのは、WEBのニュース記事をスクリーンショットで撮って保存された画像だった。
『……10日午後、大阪府千早赤阪村の金剛山で、路上に駐車していた車の中で女性が死亡しているのが見つかった。大阪府警富田林署が身元確認を進めた結果、死亡した女性は大阪市西区の無職・美樹本みどりさん(44)だったことが12日、分かった。車内にはビニールパイプで排気ガスを引き込んだ形跡があり、同署は自殺とみて経緯を調べている……』
リョウはスマホの画面をオフにし、ポケットに突っこんだ。村井はおあずけを喰らったように口をあんぐりと開けた。
「おれだってニュースくらいは読むんだぜ」
「……なんでこんな写真を大事に持っとんねん」
「おれの名前は美樹本リョウというんだ」
「美樹本? まさか美樹本みどりは……母親か?」
リョウはフィルターを焦がしはじめたホープを地面に落とし、踏みつけた。「戸崎がどこに行ったかわかるか?」