2024/11/01 例えば流れる雲のように
髪染めた。思ったよりも茶髪で驚いている...
帰り道すぐにダブルカラーのカラーモデルをminimoで探した。金髪にも見えなくないブラウンというのを求めていたはずなのに、いざ自分の地毛になったらこんなにもすぐに変えたくなるものなのか。よく言えば志尊淳。悪く言えば数年頑張っても人気が出ず、夢をあきらめキューティクルを怠った世界線のラブベリのラブ。
カットモデルという言葉を中学高校の時まではもっと崇高な意味だと思っていた。美容院側から自分の店の看板になってくれないか的なお声がけがあり、いい感じの髪型にしてもらえる存在。
カットモデルとなる人を”選ばれる”側の立場だとばかり思っていた。だから高校の時に(本当は自分から応募したのに)カットモデルになった人を羨んでいた。
カットモデルとは、要は練習台だ。安いお金を請求して、失敗してもいい言質を取っている。練習台は勿論承知の上で髪を切られる。カットモデルを体験した事のない友人に話す時には、”モデル”をいいように解釈させれば相手視点の自分の格が上がる。モデルという言葉の強さがあるからこそ成せる。
大学生1年の年に行った大阪旅行で道を歩いていた時、友人がホストにならないかと勧誘されていた。
なにか勲章が与えられたかのようで、その友達が妬ましかった。私自身、大してホストになりたくないし、心の底ではホストに対して職業差別的な感情を抱いているくせに。
minimoを開けば、スクロールが尽きないほどおすすめのカットモデルを取り揃えられているし、インスタのDMでは延縄漁のように釣り糸を垂らしたホストからのリクエストが溜まる。私は22歳になった。
人は、自分の意思で動いていないように見せられる行動を好む。流される、巻かれるというのは自分のエネルギーを消費しない。人によって正しいと判断されたことにあやかる。お互いの調子を同じくする同調とは異なり、あやかるという行為は一方的に体重をかける。常識や均衡が崩れた時、体重を乗せられた側が倒れ、乗った側は被害者となる。
人のせいにするというのは楽で、得で、それでいて情けない。例えば流れる雲のように、店員に乗せられて買ったジャケットのように、人という漢字の一画目のように、言語が堪能な友人に連れられて行った海外旅行で大して喋れない観光客のように。
私は大人になりたい。自分の意思で選択することができる人になりたい。長いものに巻かれること、偉い人に流されることがあっても、自らの意思を押し殺してまで続けることに先はないことを忘れずにいたい。
2次会のカラオケは歌にフォーカスを当てていない。アルバイトで働いた時間以上の対価は得られない。友人からLINEが来たから歩くことはやめないもののスマホを見る。落ちている空き缶は拾わないのに財布は拾う。平気で列車の待機列を横入りするし、2人用の座席に大層な態度で座る。一時停止標識でテールランプを一瞬だけつけて進み出す。ホームの柱のそばにスタバのカップを置く。
私は人が好きだ。たくさんの人と出会って友達になって、離れる。自ら選んだ人と友達になりたい。
研究室の先輩にからあげ定食おごって貰っちゃった!!バカうまい!家帰ってケーキ食べる!!!燦々とチャンカパーナを繰り返し聴いて家帰る!