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セミが鳴くころに想うこと

 梅雨のあけるころ、セミが一気に鳴き出す。セミたちは梅雨明けを知っているようだ。確かに、雨のなか羽化しても大変だろうと思う。そして、朝からセミが鳴き出すと夏の本格的な到来を感じる。
 セミが鳴いている近くには、背中の割れた脱け殻がそのままの姿で木の幹や植物の茎などにぶらさがっているのが見受けられる。この脱け殻たちは、7年間もの間土の中にいて、この羽化のために辛抱(?)してきたのだ。子どもの頃、虫とり網を持って蝶やトンボを追いかけたが、セミもその時大体捕まえることができた。虫かごに入れて家に持って帰ると、決まって母が、

「セミは7年も土の中にいて、1週間で死んでしまうのだから、逃がしてやりなさい」

と言われたことを覚えている。それでも、子どもの私にはそんな言葉は響かず、大抵次の朝には虫かごの中でコロンと死んでいるのを見て、子ども心に無常を感じたものだ。

 さて、大人になり家庭を持ち、子どもも大きくなり、自分の親も歳をとり自分自身も白髪が多くなってくると、

「あと何年生きられるのだろう」

と自問するようになってくる。そして、子どものとき、親の言葉にしたがって、捕まえたセミを逃がしてやったら良かったのにと、ほろ苦い後悔をする。

 実は以前から薄々、人間もセミのように「羽化」するのではないかと妄想するようになった。セミは子孫を残すために成虫になるのであって、人間とは違うのだが、アナロジー(比喩)としてそう考えるようになった。

 セミの幼虫の背中には羽根になる場所がハッキリと2つの三角形になっている。

 人間の背中にも肩甲骨として、2つの三角形がついている。
 コレは「羽化」するための器官ではないのか? 西洋の宗教画には立派な翼をつけた天使が聖母マリアに受胎告知する場面が描かれている。これは分かり易い。復活したキリストには翼は描かれていないが、宙を浮いているものがほとんどである。つまり、「飛んでいる」。日本でも死んだ者には足がないと信じられているし。同じようなものかもしれない。

 なんとなく、肉体として死んだあとにも「その続き」があると信じたい自分がいる。これは「本能」ではないだろうか。

 生物、特に動物は生きている間、生命を維持しようとする「本能」が働く。危険を察知して、安全な場所に避難したり、天敵から身を守るような仕掛けがDNAに組み込まれている。

 しかし、人間以外の動物は死んだあとの心配はしないし(実は母性から類似の行為はしてるかも)、「あの世」に向けて仲間を送り出す(弔う)ということをしない。原始人は弔いをしていたらしい。「人」だから。

 つまり、肉体が滅びたあとも「生き延びたい」というものが本能であるならば、

それ(死後の世界)がある、

ということになると思う。

 昔の人も、「本能的に」それを知っていたので、エジプトでは王があの世でも不自由なく暮らせる装置として、ピラミッドを建設したし、秦の始皇帝も兵馬俑を作った。エジプトと中国で口コミで「あの世の暮らしで不自由しないように準備しておこうぜ」と教え合ったわけでもないのに。
 日本の古墳にも、解明されていないだけで、同じような「装置」はあるだろう。日本の場合は、どちらかというと、怨霊を鎮めるために祀るという思想があり、天満宮、出雲大社などが有名だし、奈良・平安時代以降、陰陽師がやっていたのも、鎮魂だった。鎮魂が必要ということは、肉体はないが怨みをもって生きている者たちに悪影響を及ぼしてくるということが前提であったはず。

 古代王朝や宗教家だけでなく、科学者もその存在を信じている。例えば、「パスカルの定理」を発見したパスカルは、「死後の世界はあるかどうかわからないが、あると信じたほうが絶対に負けない賭けになる」ということを言っている。また、エジソンは亡くなった母親と交信しようとして「電話」を発明した(ベルに先を越されたが)し、アインシュタインも「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である」と言っており、物事は包括的に捉えないと真理にたどり着けないことを知っていた。最も進んだ物理学である量子力学においては、もはや科学なのかどうかすら素人にはわからないくらい、突飛な結論を出している。我々はみな、粒子であると同時に波であるらしい。つまり、「肉体って何?」という疑問まで生まれてしまう。

 我々の肉体は、ここに「存在」しながらも、波動としても普遍的に存在しているというのが、現在の物理学者たちの「常識」になっているという。つまり、今生きながらにして時空を超えて存在していると。
 これはつまり、クリエイター(創造者)が自分のアバターを作り、「この世ゲーム」に投入していろいろな「体験」を楽しんでいるというのが実際のところなのではないか?

 いちアバター(?)の想像なので、真実はわからないのだが、セミの鳴く季節が来ると、そんなことを考えてしまうのである。


#創作大賞2024

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