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1985年(昭和60年)2月7日(木) 海上自衛隊 横須賀教育隊 汗と涙の107日 ~40年の時を超えて~

1985年(昭和60年)2月7日(木) 曇りのち晴れ

修業式。
横須賀教育隊 第233期練習員課程も今日で修了だ。

修業式前日、両親が横教を訪れ、近くにある佐島マリーナで親子3人の一夜を過ごす。
翌日の修業式を残すのみとなったこの夜のビールは、格別に美味かった。

当日、会場の体育館に並べられた折畳み椅子の最前列、端から3番目に座るよう指示された。
総員80名弱であったろうか。
後方には各人の家族や友人が参列し、今日の修業式を見守っている。

課程修了申し渡しに続いて優等賞等の授与が行われ、私は3回名前を呼ばれ、立ち上がった。

・優等賞
・射撃優秀賞
・皆勤賞

優等賞


優等賞


射撃優秀賞


射撃優秀賞


規律に則った生活習慣と、何より体力の向上を目的とする教育隊の練習員課程で、体育はできない、水泳も苦手で赤帽特訓をさせられていた私が優等賞を受賞できたのは、偏に与えられた課題に向き合う姿勢であり、そのひた向きさ以外には考えられなかった。
私自身の思いとしては、とにかくノーと言えない世界の中で、逃げることなく、できる限り精一杯やる、それしかなかったのだが。

日記の中でもたびたび記述があったが、中学生や高校生気分の抜けない連中が居る中で、お金をもらっている以上、これは仕事なんだとの思いが私の根底にはあった。
そして、自ら志願して入隊しようと思った時の初心である『心身の鍛錬』に向けて、できないながらも最後まで諦めず、自分なりに精一杯取り組んできた。
そうした姿勢が評価されたのではないかと、今も思っている。

そうした中で学んだこと。
それは、勝手に自分の限界を決めてはいけないということである。
できるかできないか、それは実際にやってみなければわからないのだから。
教育隊での生活を通じて、肉体的な面だけでなく、精神的にも自分の中で勝手に決めていた限界を超えるという経験を、何度も実感することができた。
それが若人の成長ということなのであろう。

正月明けのシンナー騒動以後は、それまで経験したことのないような、結構つらい日々が続いた。
伍長として、一社会人として、当然批難すべき事案であり、私は間違ったことをしたつもりはまったくなかったが、名指しされた当事者たちからしてみれば面白くなかったのだろう。
彼らの怒りや恨み、憎しみのような行動や言動が、私にではなく、私が親しくしていた仲間に向かったのである。
しかも昼夜を問わずに…。

24時間、同じ空間で、行動を共にする同期の仲間内でのことである。
逃げる場所はなく、守ってくれる人は誰も居ない。
たまたま私と親しくしていたがために、理由のない嫌がらせをされてしまった仲間には、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
この出来事は、107日間の教育隊生活の中でも最もつらい思い出である。

でもそれは、まさに私にとっての『男の修養』を実感できた出来事でもあった。
悔しかった。
言いたいことも、やり返したい思いも、いくらでもあった。
だけど、何を言っても聞く耳を持たず、エスカレートしていくだけであろうことは目に見えていた。
だから私は、それらの苦痛を抱きしめて、じっと見つめていた。

修業式後、家族や教育隊の職員が見守る中、私たちは最後の分隊行進を行った。
「分隊、止まれ!」
「回れ、右!」
「帽振れ~!」
着帽し、改めて「回れ、右!」
「解散!」
各人の帽子が一斉に空へ舞った。

ある者は一術校へ、ある者は二術校へ、三術校へ、四術校へと旅立っていく。
いよいよ別れの時、各々の中に去来したであろう107日間に亘る教育隊生活での様々な思いが、熱い涙となって瞼にあふれ、誰ともなく抱き合って泣いた。
「元気でな!」
「頑張れよ!」
そしてこの瞬間、それまでの出来事がまるで何ごともなかったかのように邂逅されたのである。

「お前が居たから俺も頑張れた」
同じく、優等賞を受賞した同期の友人から言われた言葉。
お互い、つらく苦しい107日間ではあったが、私にだけは負けたくないとの思いで、彼は頑張れたとのことだった。
できる、できないに関わらず、とにかくひた向きに、懸命に取り組んできた私の姿勢が、自分以外の誰かにも良い影響を与えたのだととすれば嬉しい限りである。

その後、彼は幹部となり、定年まで海上自衛隊での勤務を続けた。
東京に来る機会があれば必ずといって良いほど私に連絡をくれ、会わずにいた数年間の近況を報告し合った。
今も、若かりし頃のお互いを知る稀有な同期の友として、親しくさせてもらっている。
いつだったか、館山のスナックで彼と唄った「同期の桜」が懐かしい。

あれから40年。
改めて思い返してみれば、長いようで短いようなあっという間の40年であるが、その間に起こった様々な問題やトラブルに際して、私はいつも心の中で、この教育隊での経験を対比していたように思う。

『教育隊でのことを思えば、どうってことないさ』と。

修業式後の懇親会で私と一緒に居た両親に、分隊長以下、各班長が声をかけてくれた。
「良い息子さんを持ちましたね」
嬉しそうな両親の顔を今も思い出す。

これまで、親元を離れて暮らしたことなど一度もない息子が、独り未知の世界へと旅立っていくのである。

その日は母の誕生日。
自身の誕生祝いの夕餉が済むと、「じゃあそろそろ行くね」と市ヶ谷へと向かう息子の後ろ姿を涙で見送ってくれた母。
年末年始の休暇で帰省した際は、霜焼けで真っ赤に腫れた私の手や耳に手を当て、「こんな思いをさせたことは一度もなかったのに」といって、やはり泣いていた。
自分の知らない数か月の間に、周りの大人たちから褒められるような男に育ってくれたことを、母は頼もしくもあり、喜ばしくもあったのだろう。
この時も、泣いていた。

昭和初期生まれの父親は、少年時代の憧れであった予科練に行くことができなかった自身の半生を、この時の私の姿に重ねていたのかもしれない。
七つボタンではないものの、桜に錨のセーラー服を着た息子を、様々な階級の制服を着た現役の海上自衛官から代わるがわる褒められ、父親としてはこれ以上ない喜びだったのではないだろうか。

子を持って知る親心ではないが、今の私が誰かから息子のことを褒められたら、きっと自分のことを褒められるより何倍も嬉しく、誇りに思えることだろう。
そう考えてみると、もしかしたらこの日、この時が、今は亡き両親に私が贈ることのできた最高の親孝行だったのかもしれない。

  今にして 知りて悲しむ 父母の
  我にしましし その片思い (窪田空穂)

親父…、おふくろ…、ありがとう!!


旅立ち、いざ三術校へ!

                                 完


*長期間に亘りご愛読下さり、まことにありがとうございました。
 次はどんな作品が掲載されるか…ご期待ください!

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