優しさの分析
干渉を嫌う私にとって優しさとは少し怖いもので、たまにとてつもなく恐ろしいものに感じる瞬間がある。しかし、人に優しさや親切心を配って生きることを生き甲斐としている人もいる。軽度の優しさ恐怖症の私は優しさを理解することでこの恐怖心に立ち向かおうとしている。
優しさというジャンルでは様々なパターンが展開されるが、今回はヒーロー的優しさ(とにかく誰にでも優しく)とヴィラン的優しさ(優しさを配る対象が限られている)、2パターンで分け分析を進める。私が持ち合わせているのはヴィラン的な優しさであるため、若干ヒーロー的優しさを批判する時もあるが、理解に苦しんでいるだけであって否定しているつもりはない。
優しさが試される具体的な行動パターンに許すという行為がある。悩みや悲しい事があった時、私が欲しい言葉は大丈夫だよやそのままでいいんだよという言葉ではなく改善策であることが多い。泣きじゃくった状態でも私に無鉄砲に大丈夫とは言わないヒーローが私の友人にいる。
ある時とてつもない勢いでトラウマを思い出させられる経験をし、ヒーローに相談した。相談している最中はもう泣け!とできるできないの先にするしないという選択があるからできるようになる努力はしてみたほうが気持ちが楽かもねという話をしてくれて、非常に気持ちが楽になった。
一週間後どのような結論に至ったのか聞かれたので、私のトラウマを踏みいじった人は私のトラウマだと知らずに攻撃をしてきたため、許す。しかし、嫌な気持ちに悪意がなかったとしても私が傷ついた事実には変わりがないので少し距離を取りつつ良好な関係を築けたらいいと思っていると述べた。
そのスタンスだと相手が気付かぬ間にトリガーを引き、私が一方的に突き放すタイミングが来るということではないのか?それは相手が可哀想ではないのかと言われた。
かわいそう。私には明確な価値観をすり合わせる相手の範囲を決めている。彼女(トラウマをひっくり返した人物)がその対象に当てはまらなかっただけなのになぜ彼女に私の大切で繊細な感情を傷つけてきた相手に伝えなければいけないのか。もっと傷つくことになり得ないか。ヴィランの私にはわからない。
話を進め、次地雷を踏まれたら彼女に対して恐怖心が芽生え一種の恐怖症として関わることが難しくなるかもしれないと思った。
ヒーローは判断が早いといった。ヒーローの優しさは優柔不断で、自分が傷つこうが縁を切る判断をしないという行為が相手を許すという決断につながり、優しい人間になっていただけだと気づいた。私のヒーローは傷つきやすい。自己防衛力を高めすぎた私は傷つきにくく誰も彼もを許すことはできないが、ヒーローは傷つきやすい代わりに許す力を持っている。
自分と他人両方に優しさを向けられる人なんているのだろうか。