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愛は動詞
思うところがあって最近ずっと7つの習慣を読んでます。
1つでも習慣にできればすごいことだと思うので、特に1つめの習慣「主体的である」を繰り返してました。
中でも印象的だった、愛のことを書きます。
著者はあるセミナーで主体性について講義をしていて、ある男性から質問をされます。
「先生の話はわかりますが、人によって状況は違います。たとえば私たち夫婦のことです、不安でたまりません。
妻も私も昔のような気持ちがもう持てません。私は妻をもう愛していないと思うし、妻も私を愛していないでしょう。どうしたらいいですか?」
「愛する気持ちがもうなくなったのですか?」
「そうです。子どもが三人もいるので不安なんです。アドバイスをお願いします」
「奥さんを愛してください」
「ですから、もうそんな気持ちはないんです」
「だから、奥さんを愛してください」
「先生はわかっていません。私にはもう、愛という気持ちはないんです」
「だから、奥さんを愛するのです。そうした気持ちがないのなら、奥さんを愛する理由になるじゃないですか」
「でも、愛を感じないのに、どうやって愛するんですか?」
「いいですか、愛は動詞です。愛という気持ちは、愛するという行動から得られる果実です。
ですから奥さんを愛する。奥さんに奉仕する。犠牲を払う。
奥さんの話を聴いて、共感し、理解する。感謝の気持ちを表す。奥さんを認める。そうしてみてはいかがですか」
古今東西の文学では、愛は動詞として使われています。
反応的な人は愛を感情としてしかとらえず、感情に流されます。
人はその瞬間の感情で動いて、その責任はとりようがないというような映画もあります。
でも映画は現実を描いているわけではなくて。
行動が感情に支配されているなら、それは自分の責任を放棄して、行動を支配する力を感情に与えてしまったからです。
主体的な人にとって、愛は動詞です。
具体的な行動です。
犠牲を払うことです。
母親が新しい命をこの世に送り出すのと同じように、自分自身を捧げることです。
愛を学びたいなら、他者のために、たとえ反抗的な相手でも、何の見返りも期待できない相手であっても、犠牲を払う人たちを見てみることです。
あなたが親であるなら、子どものためにどんな犠牲も辞さないはずです。
愛とは、愛するという行為によって実現される価値です。
主体的な人は気分を価値観に従わせます。
愛、その気持ちは取り戻せます。
たくさんの大切な人がいる福岡を離れて淡路島に来て、本当にありがたいことにたくさんの大切な人ができました。
僕はその人たちのことを少しでも、こんな風に愛せているのかなって思うと泣きそうになります。
これから先、もし愛されているかが不安になってもそれはどうしようもないことで。
僕ができるのは主体的に愛すること。
行動して、犠牲を払って、大好きな相手に自身を捧げること。
自分がどうするかしか決められんのです。
しっかり決めて、それを守る強さが必要だなって思いました。
7つの習慣は今年いっぱいもそうですし、来年以降も読むのでまた何かあったら日記にします。
来月のネタがなかったらまた書きます←
最近いきなり寒くなってきたのでしっかり栄養をとってたくさん寝て、体調が悪くなりませんように。
最後まで読んでくれたあなたのことも大好きです、おやすみなさい。