大学に進学するということ

少子化で、大学の敷居が低くなったと言われて久しい。自分は有名な大学なんて出ていない。小さな地方の大学だ。他人がなんと思おうが、自分にとってはとても大切な思い出である。それは合コンやサークルの類いではない。教授の教えや学問の楽しさにはじめて触れた気がした。高校まではそんなことを教えてくれる先生はいなかった。学校のルールに従い、テレビで聞き齧ったさもしい知識をひけらかす。猿山の大将ばかりであった。
大学では社会学や教育学について学んだ。教授は答えを教えてくれるのではない。どうやったら面白くなるか、何を調べれば分かることがあるかもしれないか、研究の手法を教えてくれた。

飢えている人をに食べ物を与えるのではなく、食べ物の取り方を教えてくれる。

そんな理想的な指導者研究者ばかりであった。

今、大学に進学を考えている人々には大学の多様性に是非飛び込んでほしい。人生どんな出会いがあるかわからない。もっとも雑多な環境がそこには待っている。最高の四年間にするか、時間の浪費にするか、それは君たち次第だ。大学というモラトリアムを精一杯楽しんでくれ。たくさん右往左往して、悩んでくれ。それが君たちを一回り大きくするはずだ。どんな大学であっても最高学府で学ぶ意味と与えられた四年という時間の重さを感じてほしい、それがどんな大学だったとしても。

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fal-cipal(ファルシパル)
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》