愛しているから許されると言う考え方
何でも金枝編に結びつけるなよとは思えるのだけど、何というか、人間には人間特有の思考の癖みたいなのがあるのは確かだ。
バイアスとかなんとか色々と言われるだろう。
俺は国を愛しているから救われる、俺は平和を望んでいるから救われる、俺は熊を愛しているから救われる――そんなような願望の人をネットで兎に角よく見かける。
それってまぁ、龍神様の祠にお供えをしているので水害に遭わないとか、鬼にマメを撒いたから無病息災みたいなものだ。
勿論、信仰とか文化を軽んずる訳ではないが、その効果を本気で期待するのは現代人としてどうかと思うのだ。
そして、そういう人間の思考の癖が手を替え品を替え現れたのが、ネットのそういう喧々囂々の議論なのだ。
「武器を捨てたら誰も戦争を仕掛けない」って言うのを、あれこれ無理矢理な理屈で語る人が多いけれど、本質的に言えば、戦争を連想させるものを遠ざければ、戦争の可能性を感じなくて済むと言うだけのことだ。
言わば、歯医者の存在が歯痛を連想させるから遠ざけると言うのと全く同じカテゴリの考え方であろう。
「戦争は愛国心がない人間から送られる」と言う言葉も、自分は国を愛しているから国も自分を特別扱いしてくれるだろうと言う考え方だ。
しかし実際、戦争になった時は戦闘意欲の高い人間から先に送られるとは思うのだけどね。
必死な熊擁護だって、「自分は自然に優しい人間だ」と言う自己イメージの為に行われているようなものだ。そして、その実、いつか自然が恩返ししてくれると言うような、昔話からこっち今まで通底する"自然派"なテーマと一致するだろう。
しかし、日本政府や熊や自然や、もっと言えば仮想敵国が、自分に対して恩恵を与える保証などない。
要するに、自分を安心するために必死で"願っている"のだ。
うろ覚えで悪いが、防災川柳みたいな企画で見たのは、「ばあちゃんの 災害対策 祈るだけ」というのがあったと記憶している。
祈るだけの反戦運動みたいなものである。
やるよりもやらない方が"安心できる"から、その為に必死になっているのだ。
だから、例えば日本周辺の国がキナ臭い状態になっている今、それに対して「安心」を獲得するために、「戦争になったら中国に抗っても無駄」と言ったり、「日本から中国人を追い出せ」と言ったりと、右翼左翼で表現が違うだけで、本質的に中国と戦争をする可能性が怖いのだ。
自分の力ではどうしようもない時、人はそれを受け入れるしかないのだけど、自分が何かをしたことで、自分のコントロール下に置けると思うのだろう。
人間は自分が手を下したことの方が、安心していられるので。
幻想の中にいれば、気分を楽にしていられる。
そういう人たちは、合理的反論を無視するし、自分は正義のために攻撃されているのだと言う意識に逃げ込む。
どの世界が、現実から逃げる人間を助けるのだろうか?