コミケオワコンネタとか、ゴロ/イナゴの話
年に二回、コミケ前に「コミケはそろそろオワコン」と言うネタを見掛けて幾星霜。
今年も例年の通りに話題に上がったので少しばかり書こう。
とは言え、別段同人活動してないし、コミケも数える程しか行ったことがないのではあるのだが、無駄に長く生きた人生を顧みて、つまんねぇ奴を批判するのには一日の長ぐらいはあると思っている。
アブストラクトと言うとアレだが、言いたい事は下記の通り。
楽しい人生と楽しくない人生があるんじゃない。
人生を楽しめた人間と、楽しめなかった人間がいるだけだ。
同じような事を延々語るだけなので、上記の二行(永井産業より短い)で満足して戴ければ結構だ。
そもそもオワコンと言う言葉がオワコン
もういい加減、自分の飽きたネタをオワコンとか言ってキャッキャするのやめない? 普通にダサイよ?
要は、「今流行っているネタを否定したら、自分にだけ特別に今後流行る面白いものを誰かが提供してくれる」とか言うしょーもない情念から発せられた言葉だ。
人の事をオワコンと言って喜んでる奴で、自分でゼロから話題や流行を作ったと言う話を聞いたことがない。
結局、自分だって流行り物に乗っかりたいのだけど、しょうもない奴特有の、自分は特別だと言う意識も捨てられないつまんない奴である。
結局、オワコンだ下火だと言いつつ、それを楽しく続けられれば、別に外野がどうあったって良いだろうと。
自分が楽しめれば何だっていいじゃないか。
生成AIだってそうだ。
絵を描く楽しさそのものが目的ならば、他が幾らAI使おうと勝手だろう。
自分が何かを楽しむのに、他の人がどう動くかを気にしている時点で、人間として三流なんですわ。
勿論、君がそのコンテンツを通じてお給金を得る立場ともなれば話は別なのだろうが、仮にお金を得る立場、責任ある立場でオワコンなんてくそつまんねぇ言葉のセンスだったら、それはもう致命的だろうよ。
同人ゴロとか同人イナゴとか言う言葉
その詳しい定義に関しては他に譲るとして、要は同人誌作ってない人間が、作っている人間に対して妬んでるだけだろう? 或いは自分の同人誌が売れないのを人の所為にしてるだけだろう?
考えてみなよ、十年も二十年も前のジャンルがコミケのサークルスペース圧迫してたらお前、コミケ行かねぇだろうよ。
と言うか、同人作家にそんな純粋性求めるなら、お前も新しいジャンルなんかに浮気しないんだよな? 他のファンアートをRTしたりしないんだよな?
その手の誹りを免れる唯一の方法は、結局として「何も好きにならない」と言う事だ。
人が何を好きなのか、何を楽しんでいるかと言う事を、妬みのあまり否定する人間は、その否定すると言う行為によって、自分が何かを好きになることを否定してしまう。
本当に面白くない連中だ。
自分の好きは肯定されるべきで、人の好きは否定しても良いと言う発想だったとしたら、それはもう人格として終わっているだろう。
まぁ、ネットには面白くない連中も、人格が終わっている連中も沢山いるのだが……いずれにせよ、人生楽しくないだろうし、幸せにもなれないだろうが。
コミケのジャンルがどうこう
赤ブーの方がそんなに良いって思うなら、自分もソッチへと流れれば良いだけのことで、それによって仮にコミケが下火になったところで、別段コミケがその理念を棄てることにはなるまい。
それが何処かの小さな会議室に行くことになったとしても、コミケはコミケだし、コミケを愛する人はそれを続けるだろう。
別に全てのオタクがコミケに向かわなければならないなんてことはない。
自分が好きなところで、自分の好きなものを楽しめば良いだけだ。
その過程で、コミケで同人誌を頒布するのが楽しいってなるのか、他のオンリーイベントで頒布するのが楽しいってなるのか、それともネットの片隅で特殊性癖を煮詰めるのが楽しいのか、それは人それぞれである。
だからまた言うのだが、人の動向が自分の同人活動に左右されるなら、そんなのは結局人の注目を浴びたいだけなので、そんなもんはアキバでストリーキングでもした方が有名人になれるだろうと。
勿論、沢山人が集まって、沢山の人と交流するのが楽しいと言う事もあるのだろうけど、そもそもジャンルの人口が減っていると言うのであれば、もっと人を魅了するコンテンツを作るのが、同人作家の役目ではないのだろうか?
キャッチーな言葉
オワコン、ゴロ、イナゴ……この辺、キャッチーなのでみんな気軽に使う訳だが、しかしキャッチーな言葉って冗談で使っているウチに、徐々に本気のヤバイ連中に乗っ取られるので、あまり使わない方がいい。(そして往々にしてあるのは、自分もその中に取り込まれる事だ)
例えば、「いい湯だな」を「いいユダヤ」に言い換えたギャグは、ナンセンスで悪趣味なギャグであったが、今や陰謀論者にとっては本命中の本命となっている。
「筑波大学は核実験ヤメロ」や「ラッスンゴレライ」なんかも、冗談で陰謀論チックに語ってたモノが、本気のヤバイ連中に使われるようになった。
オワコンも冗談だと思って笑ってたら、「そんなオワコンなんで続けるんだよ!」って暴言吐かれるなんて事も十分考えられるし、自嘲のつもりで「同人ゴロです」と言ってたら、「悪行を認めた」と言われそうな流れもあるだろう。
そもそも、特定の人物や団体、集団を、口汚い言葉且つキャッチーな言葉の連呼で否定しようとするのは、マジで下品だから辞めた方がいいし、そう言うことをやってきた連中は、本当に碌でもない連中になって行く。
それこそ世のオタクの多くが嫌いな似非フェミニストや似非リベラルなんかがそう言う方向に進みがちだ。
自分が嫌いな人間のしていることを真似るべきではない。
人生を楽しむということ
いつぞ、「名古屋に転勤になって、何にも面白くなくて死にそう」みたいな話が流れてきた事がある。
面白い人間は、マジで何処でも面白いし、つまらない人間は都心に住んでてもマジで退屈でつまらないと言うのは、ある程度人間関係の広さがあればすぐに分かる事だ。
結局、友達を作る努力も、自分で面白いモノを見つける努力もしないしょうもない人間なのだ。
東京の刺激的な何かを目にするだけで、自分の人生が輝き楽しめていると言う錯覚になっているだけだ。
もっと言えば、面白い奴と友達と言うだけで、自分も面白い人間になったように錯覚すると言うアレである。
別に何を以て人生の楽しさとするかは人それぞれだ。
それこそ陶芸のために田舎に引っ越したとか、音楽のためにアメリカへと旅立ったとか色々だろう。
だけど、それは自分の楽しさに対してその土地が必要だったと言うだけで、そもそも面白くない自分を解消するためにその土地を目指した訳ではない。
都会に行けば楽しくやれると思っているのは、ただただ都会では寂しさやつまらなさを誤魔化すコンテンツが豊富というだけである。
それは別段君が面白い人間になったと言うわけではない。
自分が面白いと思える事が見つけられたのなら、一人であっても、田舎であっても楽しめるだろう。
それだけの事だ。
それこそ岐阜の山奥からしたら名古屋も十分楽しい所だろうし、名古屋で生まれ育った人間の中には東京に憧れる人もいるだろう。
そして東京生まれの東京育ちがニューヨークに憧れると言う事は充分にありえる話だ。
勿論、社会資本や実家の太さ、生まれ持っての気質とか、自分自身ではどうにもならないことは沢山あるし、それによって可能性が縛られると言うことは十分に考えられる。
だが、それを恨んだり妬んだりしたところで、自分の人生が楽しくなる訳ではない。
自分の人生で目の前にあるもの、手を伸ばせるもののなかで楽しいものを見つけていくしかないのだ。
ただただ、手を伸ばすだけで手に入るものがあると言うのに、手を伸ばさず、目の前に転がり込んで来るものだけを見て、楽しいとかつまらない言うのは、本当に面白くない人間のすることだ。
それこそ、何かをオワコンと言ったり、ゴロだイナゴだと否定したり、嫌な暴言を作ってそれでつまらない奴同士で盛り上がったり。
それが君の人生をどれほど輝かせるのだろうか?