「自分の事が嫌いな他人のこと」に関する話
定期的に「俺が生きてるだけで、こいつらが不快になるなら、それだけで楽しく生きてられる」と言う話を見掛ける。
毒マロだの捨て垢で苦情言ってくるだの、自分を嫌いな人間があれこれ言うのを見て笑ってられるというのは強いメンタルなのかも知れない。
ただ、一つだけ言えるとするならば、こういう状況になると「自分を嫌いな奴を喜ばせるような情報は言えないな」と言うことにもなり得る。
ふとしたときの弱音とか、失敗のこととかそう言う話が出来なくなるのではないか。
更に言えば、「自分の嫌いな人間をわざと苛立たせるムーブ」を好んでやるようになるのかも知れない。
自分の人生は充実していますよとか、可愛い恋人がいますよとか、愛してる家族がいるとか、大層な収入があるとか、そう言うのを一々アピールしたくなる場面もあるだろう。
そうもなると、人間性が相当鼻に付くようになりそうなのだけど。
自分の嫌いな人間への復讐を糧に生きるというのは一つの方法かもしれないが、それは悪意を悪意によって報いるみたいな側面があって、そういうのって実のところ幸せにならないのではないかと思うのだ。
確かに、何かされて復讐してすっきりして、それでもって前に進めるという場面もままある。
だけど、それを追い求めていくと、最終的には不必要な闘争しか残らないのではないだろうか?
人間、万人に好かれる事はないし、どんな人でも一定数嫌う人がいる。
それを理解した上で、どうしたって嫌ってくる人の事は無視して生きる以外平穏な道はないのだと思うのだ。
確かに無視というのは難しい。
いつだって心の傷を抉ってくるフラッシュバックは訪れる。
だが、その度に誰かに対する悪意を口にしなければならないとしたら、それは君も彼等と同じ感性で生きている事になる。
それに外に向かって強がっている生き方は、結構エネルギーを使う。
そうしているうちに、人間は疲弊してしまうかモンスターになってしまうかのどっちかになる。
人間、社会に順応するために適度に嘘を吐き、そして同時に、どうでもいいことは正直になって生きている方が気楽だ。(何事にも正直に生きているという人間は信用出来ないし、ガチにそうだったらマジで近くにいて欲しくないので)
少しぐらい自分のパブリックイメージを雑にするのは悪いことではない。