「神は御自分の仕事を完成され」
板野メモによる八谷牧師の説教のまとめ
クリスマスの備えの時、アドベントに創世記の創造物語を読んでいる。捕囚の民、イスラエルの人々はバビロン帝国の虚無と闇の中にいる。しかしその暗闇の中でも神の創造の業は進む。第一日から第六日に光、天と水、地と海と草と木、太陽と月星、一年の季節、海と空の生き物、地の生き物が造られる。そして第六日の後半に、人間が「神にかたどって」造られる。人間が最後に造られた。この後は?さてどうなったのか?
「天地万物は完成された(2節)」。第六日で神の天地の創造は終わる。「完成された」は完了形で継続を示す。いっも、いつも主なる神は創造の業を完成され続けている。では第七の日に神は何をしたのか?「神はご自分の仕事を完成され。第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった(2節)」。これが創造物語の最後の出来事。「この日神は、すべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福して、聖別された(3節)」。「聖別される」とは何か?それは第七の日を、良いもの、特別なものとして区別されたということ。ではそれはどのように特別なのか?安息日の規定は十戒の中の第四の戒めである。出エジプト記20章にこう記されている。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である(8〜10節)」。
なぜそぅするのか?「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから(10節)」である。「主は安息日を祝福して、聖別されたのである(lo節)」。七日目は特別な日である。「安息日を聖別せよ」。それはどうせよと言うのか。それはあなたも、その子も、奴隷も、寄留の人々もそのすべてに休めと言う。六日働き、七日目は休み、休ませよと言う。旧約、ユダャ教は神の安息日、その特別な日に重きを置く。なぜこれほど安息日を語るのか?この規定を厳格に守れと言うのか?倉U世記はバビロン捕囚の中でまとめられた。その捕囚の中で、ィスラエルの人々が、一番大切にしようと思ったのは、ィスラエルの神を礼拝すること。なぜか?バビロンの地に異教の神々の神殿はある。しかしそこにイスラエルの神、ヤハゥェを礼拝する神殿はない。しかしだからこそ、そのヤハウェを決して忘れることがないように、安息日の一日をもって、ャハウェを礼拝することを厳守した。六日働いて、一日は主なる神を憶えて礼拝する。それが自分たちの信仰を忘れない秘訣と考えた。神殿がなくても、信仰を忘れないために、これが一番大切なこと。だからこそ安息日を厳守してきた。このように十戒と創造物語は、その歴史的順番は実は逆である。十戒が先にあり、その第4の戒めを後から物語として嵌め込んだのが創造物語である。レビ記23章には「六日の問仕事をする。七日日は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である(3節)」とある。「どこに住もうとも」、そう、異教の地にあつても、安昇日を「聖なる集会の日」と定めた。そしてそれは、最も心の安息、平安を覚える日。「聖なる集会」は安息の日、安らぎの日である。私たちキリスト教会は日曜日に礼拝する。なぜ礼拝するのか?日常から離れ、心を主なる神に向けるためである。それが次の週の歩みの糧となる。神の霊、聖霊の力を得て出て行く。集会、そこに集められた者たち、それをギリシア語で「エクレシア」と言う。それを日本語で「教会」と訳した。集められた者は、また散らされていく。私たちの信仰は、六日生活すると力をなくしていくようだ。まるでガゾリンがなくなる車のように。だから教会で、聖書を読む、賛美歌を歌い、祈りを棒げる。そこで新しい聖霊の力が与えられる。
イスラエルの人々は、聖なる集会で与えられる力を信じた。異教の地バビロンにいるからこそ、この一日を大切にした。私たちも忙しいほどに、苦しいほどにこの一日、一時間を大切にする。「忙」しいほどに「忄」を「亡」くす私たちは、心を取り戻さなければならない。それが礼拝の時である。安息日はそのような日である。しかしイエスの時代には「安息日」が静いの種になつていた。マルコ24章23節~28節、安息日に麦の穂を摘む弟子たちにファリサイ派の人々が言う「なぜ、安息日にしてはならないことをするのか(24節)」と。イエスは言う「安息日は人のために定められた(27節)」と。アドベント、私たちはどのようなお方を待ち望むのか?それを間違うならば出会えない。私たちは安息日の主を待ち望む。安息の日を実現したお方を待ち望む。イエスを見るならば、私たちの心に平安がある。私たちは「思い煩うな」と言つてくださる主を待ち望む。嵐の舟の中で、慌てふためく弟子たちに「恐れるな」と言うイエス。イエスには安心が冷れている。この人に出会うなら、そこに神が休まれる安息の日がある。
<黙想>安息日は神の特別な日である。その日は自分のために使うのでない。神ために使う。神を忘れない。聖なる集会で、我らは、神を思い、神の言葉に触れ、祈りを捧げる。その時に、我らは心を取り戻し、明日を生き抜くいのちの力を得る。クリスマスに我らは待ち望む、神が休まれる「安息日の主」を。