『めだかボックス』と『症年症女』の関連性について
原作・西尾維新、作画・暁月あきらのタッグで、週刊少年ジャンプで連載された『めだかボックス』(全22巻)と、同タッグでジャンプSQ.で連載された『症年症女』(全3巻)。
西尾維新さんは『症年症女』最終巻のあとがきで、「前作『めだかボックス』は、本作『症年症女』を書かなければ真の完結とは言えず、逆に『症年症女』サイドから見れば、『症年症女』を書くためには『めだかボックス』の完結が不可欠だった」と記している。
そこで、今回は両作品をいくつかの観点から、自分なりにその関連性を探ってみた、そんな感じの記事となる。特に、『症年症女』に関しては、あまり深く語られているものを見たことがないのもあって、前々から何か書きたいという思いが強かったため(雑誌で追っていたわけじゃないので、あまりこんなことを言える立場にはないのだが⋯⋯)、内容はともあれ、ようやく何かひとつ書けたなと安堵している。⋯⋯という前書きは後から書いてる。
ネタバレは大いに含むものと思われます。
Stage
『めだかボックス』の主たる舞台は箱庭学園という高校である。広大な敷地面積を誇り、多数のクラス、多数の部活、多数の委員会が設置された、生徒の自主性──個性を重んじた学校。
主人公の黒神めだかや人吉善吉は、その中で、生徒会執行部として、あるときは目安箱に投書された生徒たちの悩みを解決し、あるときは理事会主催で秘密裏に行われている計画を阻止すべく地下施設に乗り込み、あるときは学園を脅かす転校生たちで構成された対抗勢力と生徒会の権限を懸けて決闘し、あるときは全能の人外から未来を守るべく後継者作りに勤しみ──といった、通常の学園では起こり得ない、波瀾万丈な物語を展開していく。
日常を過ごしたり事件が起こったり、敵と分かり合ったり味方と対立したり、成長したり挫折したり──そのような青春が、学園といった閉ざされた空間内で繰り広げられる。
物語終盤──『漆黒の花嫁衣裳』編や『不知火不知』編では、主たる舞台こそ学園外へと移行するものの、最終的に戻って来る、帰るべき場所としての役割が、箱庭学園には存在している。
一方、『症年症女』においても、学校は登場する。この物語の主人公である、通称“少年くん”が通う学校──彼は当初、11歳の子供であるため、小学校となるが。
恐らくは特に際立った特徴のない、ごく普通の小学校なのだと思う。
物語冒頭──少年くんはそこで授業(体育)を受けながら、モノローグで驚異的な語彙力をもって学校教育を否定し始める。⋯⋯かと思えば、直後、病状が深刻化して嘔吐し、意識を失ったまま病院へ搬送される。
それきり、二度と学校には戻らない。波瀾万丈の学校生活ならぬ、波瀾万丈の入院生活を送ることになるのである──その命日まで。
そんなドロップアウトは、彼がこれまで苦しんでいた学校生活からの解放を意味するのだが、しかし我々の知る学校がそんな容易に手を引いてくれるはずもなく、その魔の手は、彼が見る夢の中まで進出してくる。
夢の中の教室。そこにも、両作品の繋がりが窺える。
『めだかボックス』におけるそれは、平等なだけの人外・安心院なじみが作り上げた空間となる。封印を受けて、外の世界の移動が封じられた彼女が、人々──人吉善吉や、封印した張本人である球磨川禊らの夢の中、心の中に侵入して、彼らへ干渉するための(暇潰しの)場である。
対して、『症年症女』での教室は、少年くんがひたすら悪夢を見る場、と言えようか。
夢の内容は、謎の存在感を放つ『先生』と、無数の生徒達が織り成す、授業風景。
⋯⋯学校を主要な舞台とする『めだかボックス』ではとうとう描かれなかった授業描写が、学校から外れた『症年症女』で描かれるといった倒錯っぷりが何とも可笑しい。
教室についてはさておき、ここまでを総括(?)すると、学校という閉ざされた世界で個性を輝かせ、少年少女が満ち足りた青春を送る『めだかボックス』に対する、学校という正規のコミュニティから外れた場で、正規の人間関係から外れたまま、少年少女が大切なものを手にする『症年症女』、といった対比が浮かび上がる。
あらゆる個性を受け入れる場所と、受け入れられなかった個性の生き場所(死に場所)。
西尾維新さんは、異常な人間が異常なままに生きていく、道を踏み外した人間が道を踏み外したまま幸せになる物語を書く作家であるが、この2作品は、学校という空間を軸に、2通りの希望──2通りの救済を書いていると言うことができるだろうか。
さて、『めだかボックス』と『症年症女』に通底する重要な舞台が、学校に加えてもうひとつ存在する。先述の、病で倒れた少年くんが搬送された先──病院である。
『症年症女』における病院は、ふたつ挙げられる。ひとつは、少年くんが運ばれた病院として、もうひとつは、物語のもうひとりの主要人物であり、少年くんと同じ病を抱える“少女ちゃん”が入院している病院である。前者は、恐らくは彼の通っていた小学校と同じく、何の変哲もない民間の病院で、後者は、病院と言うよりは、病院としての側面を持った広大な規模の研究施設(ふたりの個性の違いが窺える──少年くんにとっては酷なことに)。第1症(第1話)で、少年くんと少女ちゃんは前者の病院で出会いを果たし、第2症以降は後者に舞台が移行する。
そして、『めだかボックス』における病院とは、箱庭総合病院に他ならない。その名称から分かる通り、箱庭学園──延いてはフラスコ計画と関わっている。研究施設といった点においては、少女ちゃんの病院に近いか。
それから、めだかと善吉が出会ったのも、この病院である──当時2歳、異常(アブノーマル)として診察にやってきためだかと、シングルマザーの母親が同病院に勤務している都合で、託児所に預けられていた善吉の、思わぬ邂逅。
めだかと善吉が出会った場所も、少年くんと少女ちゃんが出会った場所も、病院であるといった共通点。
その意味では、『めだかボックス』と『症年症女』は、共に病院から始まった物語、病院を始まりの地とした物語であると言えるが、そんな彼らの出会いは、実は何者かによって意図されたものであったというところまで共通している。
仕組まれた運命の出会い。
Heroine/Hero
『めだかボックス』の主人公は黒神めだかと人吉善吉の2人であり、『症年症女』の主人公は少年くんと少女ちゃんの2人である。⋯⋯まあ、解釈は人それぞれあるだろうが、個人的にはそう認識している。
この2組のダブル主人公の大まかな共通点として、天才の少女と、凡人の少年の組み合わせ、といった点が挙げられる。
処女作『クビキリサイクル』から一貫して、異端者たちの物語を書き続ける西尾維新作品には、天才キャラが多く登場するし、天才と凡人(いわゆる落ちこぼれだったり、凡人ではなくとも、天才には及ばない人物)のコンビもよく登場している。玖渚友と戯言遣いしかり、水倉りすかと供犠創貴しかり、病院坂黒猫と櫃内様刻しかり。男女逆なら、空々空と剣藤犬个、失井と妬良などが当て嵌まるか。
ここでは、天才と凡人といった観点を起点として、めだかと少女ちゃん、善吉と少年くんの共通点や相違点を比較しつつ、2組の少年少女の関係を見ていこうと思う。
まずは天才少女サイド、めだかと少女ちゃんの共通点としては、以下のものが挙げられる。幼少期よりその天才性を存分に発揮しているところ、天才性のベクトルが多方面に渡り、かつ世界を揺るがすレベルに規格外であるところ──ひとりの少女が背負うにはあまりにも重過ぎる業を有しているところ。そして何より、凡人の少年に運命を大きく変えられるところ。
一方の相違点は、精神性になるだろうか。『十三組の十三人』編で言うところの、異常性を支える心。
めだかは自らの才能を、見知らぬ他人のために活用し続ける(その信条・精神性は劇中において変動しているけれども)のに対し、少女ちゃんはそのような殊勝さとは無縁というか、余命僅かである中、心の赴くままに、趣味である芸術活動を楽しんでいるように感じられる。⋯⋯余命僅かなのに他人の為に人生を費やせるかって思うけれど、命をすり減らしてまで人を助けるのがめだかだったりするわけで。
奇病を患う以前の少女ちゃんについては、その偉業、所業が劇中で少し触れられていて、そちらに関しても使命感というよりは、好奇心で動いている風に感じられる(内面描写がないため、憶測に過ぎないが)。その活動が巡り巡って、彼女に奇病を患わせるに至るのだが⋯⋯。
自由奔放な性格に反して、不自由な制約に縛られた少女である──そこはめだかと共通しているか。あるいは、西尾維新作品の“少女”像とも。
次に、凡人サイドである善吉と少年くんについて。
まず相違点から述べると、己の凡人性に対する胸中、向き合いかたになるだろうか。善吉はめだかとの長い付き合いの中で、自身の無力感やアブノーマルな彼女との格差をひどく思い知らされ続けることになる一方で、ノーマルであることへの意地や誇りを有している──どれだけ挫けても、何度も立ち上がってきたのが彼である。『黒神めだかの後継者』編での与次郎次葉との面談や、『不知火不知』編での僅かな過去回想などに顕著か。
対する少年くんは、長らく、自身が凡人であること──無個性であることに激しい劣等感、絶望感を抱いていて、それが少女ちゃんが自分より先に病気で死ぬ前に彼女を殺害する──自身が奇病での初の死者となることで、唯一無二の個性を獲得する──といった、狂気的な動機に繋がっている。善吉と異なり、無個性な自分自身に一切の価値を見出せなかったのが彼なのだ。
ところで、少年くんが少女ちゃんを殺そうとするのなら、善吉はめだかを守ろうとしているといった違いもある。
少女を殺そうとする少年と、少女を生かそうとする少年の違い──偶然なのか否か、綺麗に分かれている。
一方で、そんな2人の共通点もまた、対なる少女との関係の中に見出せる。
それは、彼女(達)のキャラクターに振り回されながらも、振り切れられずそばにいる、付いて行く存在であること──そのことが、孤高の少女を孤独でなくさせている。
先を走る天才に対する、後に続く凡人(この場合、後に続くとは、後始末・フォローといった意味でもある)。
後者の存在の重要性は、『黒神めだかの後継者』編での枷を外しためだかや、未練を残したまま失命しためだかの母親・黒神(鶴喰)鳩などの例を踏まえると、わかりやすい──鳩さんは、めだかにとっての善吉に値する存在がいなかった女性なのだと思う。愛する者とか、そういった意味ではなく(それなら舵樹さんがいる)。
⋯⋯と、ここまで、めだかと少女ちゃん、善吉と少年くんについて比較してみたけれど、少年くんのネガティブな性格、少女ちゃんの僕っ娘などといった要素からか、2人に球磨川禊と安心院なじみを見出す読者が一定数いるようである。個人的には、それを言うなら戯言遣いと玖渚友のほうが近いと感じている。まあ、別シリーズだが。
Worldview
数えてみたところ、『めだかボックス』コミックス計22巻+ノベライズ計5巻(『ジュブナイル』はここでカウント)+アニメオリジナルエピソード計2話+読切版『めだかボックス』⋯⋯における、登場した人名の総数は、135である。『箱庭辞典』参照⋯⋯その中には奄美大島や十島、螢川といった架空の存在と思しき人物や、複数の(姓)名を持つ3名などがカウントされているため、正確な登場人物の数とはならないが。
ここで私が注目したいのは、そうした人名のある人物⋯⋯ではなく、人名のない人物である。すなわちモブキャラ。西尾維新さんは『箱庭辞典』において、「脇役を描くのがとても苦手」と述べていたけれど、実際に西尾維新作品において、モブキャラ・通行人A的なものの存在(感)は、極めて希薄である──ように感じられる(例えば、処女作一連の戯言シリーズなんて、モブキャラと言える存在は『クビシメロマンチスト』の食堂のおばさんと、『サイコロジカル』の警備員さんくらいしかいないんじゃないか)。
⋯⋯モブキャラが希薄ということは、言い換えれば、登場人物の殆どが主人公級の個性・存在感である、ということにもなるだろうか。
さて、『めだかボックス』のモブキャラとして、真っ先に思い浮かぶのは、雲仙冥利との対峙で妙な存在感を放っていたオーケストラ部の部長だろうか。あるいは、第一箱でめだかの噂話をしていた生徒とか、善吉と不知火半袖の仲の良さを囁いていた生徒とか──ごく初期の話である。
後は、集会シーンというか、生徒たち・群衆が一堂に会する場面がそこそこあるので(『モブキャラのみなさんこんにちは。』)、そこでよく描かれているとは言えるか。
⋯⋯学校を舞台にしているのにモブキャラが珍しいというのも変な話だが、そもそも授業時間が描かれないような作品だし⋯⋯。
そして、話を重ねるごとにどんどんモブキャラの登場頻度が減っていく──めだかたちがだんだん人前で戦うことがなくなる現象を指して、西尾維新さんはストイックソルジャーなどと称していたが。
一方の『症年症女』だが、ここでは少年くんと少女ちゃんが患う奇病の性質が大きく関わってくる。
12歳での死が確定し──人の顔や名前、固有名詞や個人情報といった、個性のようなものが、黒いインクのごとく塗り潰されて(少年くんの場合)、布切れの貼り絵のごとく切り貼りされて(少女ちゃんの場合)、見えなくなる病。
視認できる個性は、同じ病気を患った互いのそれのみとなる。
そして本作は、主に少年くん(たまに少女ちゃん)の視点に沿って描かれるため、病気で遮られた彼らの見ている視界──見ている世界が、そのまま読者のそれと統一される。
そのため、作中に登場する人物は、顔も名前も分からない、まるで見分けが付かない(『めだかボックス』では、数々の個性的な人名・固有名詞が物語世界を彩っているけれど、この『症年症女』ではそれらに値するもの全てが隠される)。
その意味では──厳密には、『毒』や『先生』などといった、記号としての名前を持つ人物こそいるものの──少年くんと少女ちゃん以外の人物はすべてモブキャラであると言うことができる。
視点人物の少年くんにとって(少女ちゃんのほうはやや事情が複雑だが)、他の全てはモブに過ぎない、だろうか。
こうして最終巻の表紙を比較してみると、両作品の好対照と言える性質が浮き彫りになる。
『めだかボックス』は、めだかや善吉が箱庭学園で出会った(再会した)キャラクター達が2人を囲んでいるのに対し、『症年症女』は、(これまでの巻と同様に)少年くんと少女ちゃんのみが描かれている。
──めだかや善吉には、箱庭学園を通じて様々な出会いの扉が開かれているけれど、少年くんと少女ちゃんには、互いのみしかその瞳には映らない。
しかし、少年くんにとっては、少女ちゃんさえ認識できればそれでよくて、そして少女ちゃんにとっても、少年くんの存在こそが唯一で。
2人の世界で、閉じている。
⋯⋯このように、モブキャラが後退していく『めだかボックス』も、モブキャラしかいない『症年症女』も、西尾維新作品の性質が強く表れていると言えるけれど、個人的に、こうした閉塞的な視界・世界観は、他の作家が描く物語とはどこか一線を画しているように感じられる。浅学(浅楽?)ゆえに、数多の漫画や、あるいはライトノベルを含む小説などと比較して具体的にどうとは述べられないが⋯⋯、何かが「違う」、それでいてどこか「しっくりくる」というのが、西尾維新作品が作り出す視界に、一読者である私が抱く感覚である。
しっくりくる──世界や人間を、上手く認識できない、私のような人間にとっては。
Personality
(※両作品の終盤・最終盤に踏み込みます)
『症年症女』最終巻収録の第12症では、個性の墓場といった舞台が登場する。
少年くんが夢の中で、頭だけの着ぐるみを着た何者かに連れられ、たどり着いた場所のひとつである──そこでは、『妖精が見える 享年十三才』『ギターの才能が 享年十五才』『超能力が使え 享年十二才』⋯⋯などと記された墓の数々が、乱雑に並んでいる。
その概要を説明しようとする着ぐるみの人物を遮って、少年くんは辟易するように「捨てられて⋯なかったことにされた個性でしょ?」「少年少女はここで個性を捨てて みんな大人になっていくってわけだ⋯⋯」 と述べる。すると、着ぐるみの人物はそれを訂正する。
「実際は個性なんて捨てられないんだよ 死なないしね」
「ここに捨てたフリをしてなかったことにして みんな無個性を演じているだけなんだよ」
「個性を隠さないと生きにくい世の中だもの」
ここで私が連想したのが、『めだかボックス』の最終話における、スキルの喪失である。
『めだかボックス』には、異常性(アブノーマル)や過負荷(マイナス)といった、スキルと総称される異能が存在する。
「過剰な反射神経」などの人間の能力の延長上にあるものから、「すべてをなかったことにする」といったような人間を遥かに超越したものまで──それらは決して一様に有用と言えるばかりではなく、どころか、先天的に抱えた異常性によって悲惨、凄惨な人生を送ることになったり、逆に、過酷な生育環境で歪んだ心から禍々しいまでの過負荷を発症したりと、いずれにせよ当人の人生や人格に強く関わるものとなっている。
そんなスキルが、成人を過ぎた辺りで、多くの者の中から喪失したということが、最終話、高校時代から10年が経過し、大人になった善吉の口から語られる──「苦労しなければ手に入らないものがあるように 満たされることで失うものもある」と、彼なりに結論付けながら。
そんな『めだかボックス』におけるスキルの喪失と、『症年症女』における個性の墓場は、極めて近しき概念であるように感じられる⋯⋯と共に、スキルの喪失に対する善吉の捉えかたと、個性の墓場に対する少年くんの捉えかたが、何とも対照的である。
子供が大人になるということ──その過程で、それまでにあった何かを失うこと。
それは、『めだかボックス』で言えば「みんなスキルを必要とせずとも生きられるようになった」といった感じで、『症年症女』で言えば「みんな生きるために個性を捨てざるを得なくなった」⋯⋯といった感じになるだろうか。
そして、この2つは、実のところ同じことを言っているのだと思う。
違いがあるとすれば、視点の違いである。大人の視点と、子供の視点の違い──かつて少年時代を全うした大人の視点と、病によって、決して大人になることのない少年の視点の違い。
だから前者は喪失に肯定的・達観的であり、後者は否定的・悲観的になるのだろう。
もっとも、たとえ大人になることを肯定できなくとも、自分の人生を肯定することはできる──少年くん、それから少女ちゃんは、最終的にそれを可能にしたのだと言えよう。
色々述べたけれど、『めだかボックス』と『症年症女』は、生と死といった観点で二分できるのかもしれない。
西尾維新さんはかつて、『化物語』は生の物語で、『刀語』は死の物語、両者は好対照な作品だとインタビューで語っていたけれど、それと同じことが、『めだかボックス』と『症年症女』においても言えるんじゃないか。⋯⋯『めだかボックス』、あれでほとんど死人がでないしね。
「世界は平凡か? 未来は退屈か? 現実は適当か? 安心しろ それでも生きることは劇的だ!」
(『めだかボックス』)
「きみは死ぬことなんかに怯えているのかね? だったらきみもほっとしたまえ!」 「僕がきみより先に死んで おっかなかぁねぇって教えてあげるよ」
(『症年症女』)
そして何より、どちらも、結局のところは少年と少女の物語に収束し、帰結する。以上が、両作品に対する現在の私の認識である。
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