#16 透明の壁
「どうしたらいいんだろう・・・」
私の前で結子は泣き崩れている。
日曜日の夕方に、私は大学時代の友達の春菜からカフェに呼び出された。春菜と結子は入学してすぐのセミナーでたまたま横に座った子たちで、3人とも知り合いがいなくて不安だったこともあってあっという間に打ち解けた。
それからずっとの付き合いになる。
結子が泣いている原因は彼女の夫の和也くんの浮気。結子は卒業前にバイト先で出会った和也くんと5年前に結婚した。私たちも彼には何度も会ったことがあるので彼の人柄はよく知っているけど、結子から彼の浮気を聞かされて本当に驚いている。彼がすごく大切にしていた結子を裏切るなんて信じられない。
泣き崩れる結子に春菜はこう言った。
「勘違いじゃないんだよね? ラインのやりとり見ちゃったんだよね?」
「うん。もう数ヶ月前から・・・。おかしいなって思って偶然ラインが鳴ったときに見たら知らない名前が通知されてて、男性か女性か分からなかったけど、通知内容は女性っぽかったから・・・それからずっと帰りも遅かったり、ラインが鳴ったら和也が少し慌てることもあって・・・」
肩を震わせ声を詰まらせながら、結子は涙を流し続けた。
「うん。大丈夫。大丈夫だよ」
そう言いながら春菜は結子の背中をさする。
「和也くんには何も言ってないの?」
「言えないよ。怖くて。もし認められたら、もしあの女のほうを選ぶなんて言われたら怖い」
泣き続ける結子の全身から和也くんをどうしようもなく愛している空気が伝わってくる。結婚式で愛しそうに見つめあっていた二人の笑顔が思い出された。
私は何も言えなかった。
苦しくて泣いている結子の姿を見ながら、自分のことを考えていた。私は中山さんの奥さんをこんなに苦しませるかもしれないことを続けている。
中山さんは奥さんがいる人だけど、ずっと彼を好きだった私の思いを受け止めてくれて、今は週に1度のペースでデートをしている。続けてはいけない関係なのに彼を好きな気持ちが大きくなりすぎて、もう彼の手を離すことができない。中山さんが自分のものにはならないことを分かっているからすごく苦しいけど、彼をただ一途に思う気持ちだけで自分を支えている。
「その女の人、和也くんの会社の人なの?」
春菜が結子の乱れた髪をそっと整えながらさらに尋ねた。
「たぶん、会社の人だと思う。後輩じゃないかな。文章の感じから。ラインが鳴るたびにビクビクしてしまう・・・苦しいよ。何もできなくてただじっと祈るしかなくて。あの女の存在が怖くて」
何度も繰り返す結子の「あの女」という言葉が私の胸に強く刺さった。結子は他人をそんな言い方で呼ぶ子じゃないのに、和也くんの浮気相手への憎しみと怒りがその言葉を使わせている。それほど許せないんだと感じる。
春菜が私をチラッと見た。何も言わないと変に思われそうで言葉を探す。
「結子、つらいよね。気持ち、分かるよ。どうしてあげればいいか分からないけど・・・、その・・・」
相手の女性を責める言葉はどうしても出てこないし、彼女を励ます言葉もうまく出てこない。自分のしていることを考えたら、妻の立場である結子の気持ちを慰める言葉なんて簡単には見つからなかった。
それどころかその浮気相手は親友の結子を苦しめている人なのに、彼女だってきっと和也くんを愛してしまったんだろうな、どうしようもなかったんだろうな、と思ってしまう自分もいて、結子に申し訳ない。
それ以上、黙ってしまった私を見て、春菜は小さくうなずいてまた続きを引き受けてくれた。
これからどうしたらいいかとか、以前に浮気された知り合いがその後どうしたかとか、浮気してる男性の行動の特徴とか、そんなことを春菜がいくつかゆっくり話す間中、結子は泣いたり落ち着いたりを繰り返した。
結子はとても疲れていた。お化粧も落ちて、目の下にはうっすらクマも見えて、もう何日もちゃんと眠れていないんだろうと思う。
熱心に結子の気持ちに寄り添おうとする春菜を見て、私は中山さんとの間にどんなつらいことがあっても結子にも春菜にも相談できないし、もし別れることになっても誰も慰めてくれないだろうと思うと、ふいに不安と孤独が襲ってきた。
結子の今にも消え入りそうな姿を目の当たりにして、踏み出してはいけない道を歩んでいる自分の愚かさと孤独に気づいたけれど、もう私は戻れないところまできている。
結子と春菜の二人と私との間に、今まではなかった大きな透明の壁がいつのまにか生まれていることも感じ、少し指先が冷たくなった。
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中山さんはシリーズ化しています。マガジンに整理しているのでよかったら読んでみてください。同じトップ画像で投稿されています。
続きはこちらです。
第1作目はこちらです。ここからずっと2話、3話へと続くようなリンクを貼りました。それぞれ超短編としても楽しんでいただける気もしますが、よかったら「中山さん」と「さやか」の恋を追ってみてください。
『中山さん』シリーズ以外にもいろいろ書いています。よかったら覗いてみてください。