あまいが消えた。
あまい気持ちをくれる翔が出ていった。
夫との関係は別にどうでもいいとなんとなく思っていたときに翔と出会って、なんとなく付き合いが始まった。
私が夫には黙って小さなアパートの1室を借りて、気が向いたらそこに行った。翔はそこがまるで自分の部屋のように毎日そこにいて、たまにバイトに出かけてまた帰ってきた。
翔は気まぐれで、気分が乗らない日はソファーに寝転がったままバイト先に「休みます」と電話をする。よく休むわりにはクビにならないゆるいバイト先をうまく見つけているのが翔らしい。
私がその家に行くと、ソファーの上から優しい笑顔で「あぁ、いらっしゃい」って言う。家賃だって名義だって私だから、ここはあなたが「いらっしゃい」って言う場所じゃないんだよってちょっと思うけど、そういうのは私もあんまりどっちでもいい。
どうせここのお金は夫のお金なのか私のお金なのか分からないところから適当に出ていて、それは夫も特に気づかない金額で、だからこの部屋の存在理由だとか住人が誰だとかなんて興味ある人はどこにもいない。
あぁ、でも夫が私に離婚届を渡してきた理由ってなんだったんだろうと思うと、もしかしたらこの部屋がバレてたのかも。
「離婚、別にしたくないんだけど」
って離婚届を手渡し返したら
「分かった」
ってスッと受け取って丁寧にたたんでスーツの胸ポケットにしまったときの夫の顔はどうだったのかな。
いつもと変わらないきちんとした表情で、何も変わらない歩き方で玄関で靴を履いて出かけていった。後ろ姿に寂しさも悲しさも憤りも何も感じなかったから、私もいつものゴミ出しがひとつ終わったくらいの気持ちで、食べかけていたクロワッサンを手にとってまた食べた。
翔は私の気だるい気分をなんとなく包み込むように抱きしめてくれる男だった。ゆるくてあまくて、いつも何を考えて生きているのか分からないような男だったから、ある日、ふといなくなったときにも特に驚きはなかった。
結婚は重くてしんどいのかって聞いたり、君を僕だけのものにするってなんか違うよねって言ったり、私のやんわりした要求をやんわりとかわしながら、いつもあまく微笑んでいた。
翔がいなくなったらこの部屋の空気が変わるのかと思ったけど、ここに漂うものは何も変わらず、翔がいたころのままにふんわりとしていた。翔がたまに水をやっていた、ソファーのそばの観葉植物も静かに穏やかにそこにある。
私はあんまり泣かないんだけど、ちょっとだけ涙がでたみたい。
なんでだろ。
私って寂しいのかな。
離婚届を渡されたとき、もしかしたらあのときに私は泣きたかったのかな。「君はもういらないよ」って無言で語る紙を渡されたときにね。
でもそういうのもよく分からなくて、よく分からないから、よく分からない翔が必要だったのかもしれない。
もう翔はいないけど、この部屋はこのまま。
私は何度もここに来て、翔に優しく包まれたベッドで一人、静かに眠る。
「あぁ、いらっしゃい」って翔がまた言ってくれるかもしれないなって、たぶんちょっと期待しながらドアを開き、たぶんちょっと絶望してドアを閉じ、ベッドにもぐって静かに眠る。ここはよく眠れる。
でもなんとなく、なんとなくだけど、もう少し時間が経ったころに、「ただいま」って翔がドアを開けてこの部屋に入ってくる気がしてるんだ。
だってここは翔の部屋だから。
朝、起きて、あまいマカロンを半分だけ口に入れた。
あれ、あまくない。
あー、そうか、しょっぱいんだね。涙が思ったよりもたくさん落ちている。
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#短編小説 #あまい #ドア #部屋 #離婚届 #アンスリウム
4話完結です(翔が帰ってこなかったら、たぶん)。こちらが第1話です。この4話が一番長いくらいでほかはとても短いです。
お気持ち嬉しいです。ありがとうございます✨