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ピアス
ベッドルームに落ちていたピアスを拾った。濃い紫と淡い紫が混じりあった小さな宝石がシャラシャラと揺れるピアス。
指でつまんで陽にかざしたら、キラキラ光った。
私のピアスじゃないピアス。
見たことのないピアス。
そっと口にふくんだ。
優しく舌で転がすと、舌触りが悪かった。
口から出して、手の上に乗せたら、私の唾液でもっとキラキラ光った。
綺麗だ。
キッチンからガラスのグラスをとってきて、ダイニングテーブルのまんなかに置いた。そのなかにピアスをゆっくり落とす。
チャリンという音が静かな部屋に響いた。
今日は一日リビングで過ごそう。
ハーブティーを入れて、雑誌を見よう。ファッション誌がいいかな。ブラウスが欲しい。ふんわりと裾が揺れる優しい色のブラウス。
あなたが帰ったら、今日一日かけて選んだ素敵なブラウスを買ってっておねだりしよう。
あなたはきっと「いいよ」って微笑みながらキスをくれるだろうな。
大好きなあなたの帰宅が待ち遠しい。
あなたを待ちながらダイニングテーブルにもたれてうとうと寝てしまった。
「ただいま」という声に起こされて顔を上げたら、あなたが目の前にいた。
「おかえり」
壁にかかっている時計に目をやるともうすぐ11時になろうとしていた。
「遅かったのね」
「あー、うん、ごめんね」
「夜は?」
「外で食べてきた」
「そうなの。うん」
ぼんやりした頭で立ち上がってキッチンに向かう。冷蔵庫に夕食をしまわなくちゃ。
「コーヒーでも入れようか?」
「そうだね、もう少し起きていたいからお願いしようかな」
コーヒーを2つ、カップに注ぎテーブルに並べて置いた。ピンクとプルーのカップが仲良く並ぶ。
そのそばに紫のピアスの入ったグラスも並んでいる。
一度、自室にいって戻ってきたあなたが「ありがとう」と言って椅子に座った。一緒にコーヒーを口にする。あったかい。
「おいしいね」
「うん、そうだね」
お互い優しく笑いあう。
私は1日かけて選んだ優しい色のブラウスの写真を見せて「ねぇ、どう思う?」って聞いた。
「君によく似合いそうな色だね。買ったらいいよ」
私が買って欲しいとお願いしなくても、そう答えてくれた。私はそのふんわりしたブラウスを着てあなたに微笑む自分を想像して、幸せな気持ちになった。いつもあなたは私の欲しいものをくれる。
きっと次はキスをくれるだろう。
あなたがカップをそっと置いて、私を引き寄せる。髪を撫でながら唇を重ねてきたから静かに目をつむった。
あなたの唇はあたたかいコーヒーを飲んだ後とは思えないほどひんやりしていた。
だけどあなたが私の口にすべりこませた舌は熱くて、情熱的だった。あなたと舌を絡めながら、私はあのピアスの舌触りを思い出す。
陽の光でキラキラしていたピアスは、口のなかではジャラジャラしていて、なんだか心がざわついた。
あの感じがいま、ある。
背中が波立つ。よく分からない感情、嫉妬とも嫌悪とも快楽とも区別のつかないような何かが体のなかを蠢いている。
あなたの舌とピアスの感触と、誰かの情念が私のどこかを刺激する。
グラスのなかのピアスは、きっとあなたの目にも入っているはず。
でもあなたは何も言わない。
私も何も言わない。
二人でキスを味わうだけの優しい生活。
あなたはいつも私の欲しいものをすべてくれる。
次の朝起きたらピアスは消えていて、テーブルにはガラスのグラスだけが残っていた。
私の唾液でまみれたあの紫のピアスは誰の耳に戻るんだろう。
そんなことを考えながら、キッチンで朝食の支度を始めた。あなたの大好きなスクランブルエッグを作るために卵をぐちゃぐちゃと混ぜる。透明の液が黄色と混じりあう様を見つめながら昨夜のあなたのキスを思い出す。
フライパンに少し薄まった黄色いそれをとろりと垂らして、かたまりかけた瞬間にまたぐちゃぐちゃと混ぜた。
スクランブルエッグは素敵だ。
私がぼんやりしていても、作るのを失敗しない。ぐちゃぐちゃな出来栄えが正解だから。
「おはよう」
あなたが爽やかな笑顔で私に声をかけた。テーブルに朝食を運ぶ私の頭を軽く撫でる。私はあなたに向かってふわっと微笑んだ。
優しいあなたが大好きだ。
朝食を食べながらあなたはこう言った。
「ごめんね、また今日少し遅くなるかも。ちょっとはっきり分からないけど」
私はあなたを心配する表情で答える。
「うん、そっか。お仕事大変だね。一応夕食は作っておくね。安心して帰ってきてね」
「ありがとう。いつも感謝してるよ」
あなたが出かけたあと、私はピアスが入っていたグラスもシンクに運んだ。ほかの食器と一緒に洗うつもりだった。
でもそのグラスだけが手から滑り落ちた。
ガチャンと大きな音がして、ガラスが粉々に飛び散った。
私はリビングから新聞紙を取ってきて床に広げた。ガラスの破片を一つ一つ丁寧に拾って新聞紙の上に並べていく。ふと、あのピアスのように口にふくんでみたくなって大きめの破片を口元に近づける。
舌にそっと乗せてみた。
そのまま口を閉じて舌で転がしてみようかと思ったけど、舌を怪我したらあなたとキスできなくなる。だから転がすのはやめた。また手に戻して、新聞紙に並べられたほかの破片の横に置いた。最後にまるめてゴミ箱に捨てた。
今日は何をして過ごそうかな。
そうだ、少し手の込んだお料理を作ろう。あなたが食べるかもしれないから、じっくり時間をかけて夕食を準備しよう。きっとあなたは喜んでくれるだろう。
ちょっと遠いけど高級な食材が手に入るお店に出かけよう。ワインも買いたいな。二人で「チアーズ」なんて言いあって、クスクス笑うのも楽しそうだな。
今日もおだやかな一日が始まる。
夜の10時を過ぎた。
あなたはまだ帰らない。
ダイニングテーブルにはお料理の本を見ながらたくさん作った夕食と赤ワインが並んでいて、私はテーブルに頬杖をついてそれらを一人でゆったりと眺めていた。おいしそうにできたなって満たされた気持ちになる。
あ、チーズもあったほうがあなたは喜ぶかもしれない。前に一緒に行ったレストランで食べたチーズがおいしかったことを思い出した。こんな時間だけどコートを着て買いに行こう。遅い時間に出歩くとあなたが心配するかもしれない。でも急いで行って帰ってくればきっと大丈夫だろう。
玄関を出たら冷たい風が強く吹いてきて、体が震えた。外はとても暗くて少し怖い気がしたけど、食後にワインと一緒にチーズをうれしそうに食べるあなたを想像すると不安はなくなった。
マンションからは5分ほどでコンビニに着く。ここのコンビニはちょっとこだわりのチーズをいくつか置いている。まだ残ってたらいいのにと祈るような気持ちで足を速めた。
吐く息がうっすら白い。いつの間にかもう冬なんだ。
あと少しでコンビニというあたりの通りで人影が見えた。二人いる。男女が抱きあっているように見える。女性の甘えるような声もかすかに聞こえた。あまり見るのも失礼かと思って下を向きながら通り過ぎようとした瞬間、シャラシャラという音が小さく聞こえた。いくつもの宝石が揺れる音。
聞き覚えのある音に思わず顔をあげて目をやったら、あのピアスが女性の耳元で揺れていた。街灯のほのかな明かりのなかで、濃い紫と淡い紫が混じりあった小さな宝石たちが互いにこすれて音を立てている。男性に顔を近づけるたびに揺れるそれはまるでウインドチャイムのように美しい。
私は男性の顔を見ずにコンビニにまっすぐに向かった。チーズがなくなる前に買わなくちゃいけないから。背後から男性のくぐもったような声が聞こえた気がした。その声は私の名前を呼んでいるようにも聞こえたけど私は振り向かない。それは聞き慣れた声じゃないはずだ。
体の奥が凍える。冬だからだろう。冷たい風から身を守るためにコートの首元を合わせなおす手に力を込めた。
コンビニに入ると暖房がよく効いていて、とてもあたたかい。チーズの棚に直行すると運良く1つだけ残っていた。ホッとして気持ちが緩む。力が入っていた手をほどきチーズに手を伸ばした。それを持ってレジに向かったら、レジの近くで何かが床にポタポタ落ちてきた。それが自分の涙だと分かるまでに時間がかかった。涙かどうかもうそんなことは関係ないほどの悲鳴が耳に飛び込んできたからだ。どうやら自分自身が叫んでいるらしい。自分でも聞いたこともないような甲高い叫び声がコンビニのなかの空気を振動させ、店内の誰もがその振動に驚き、弾かれたようにこちらを見た。驚いて慌てて店から外に逃げ出した人もいた。自動ドアが開いた瞬間に悲鳴が外にまで轟いた。私は大きく目を開けたまま叫んでいた。チーズを握りつぶしながら、涙と鼻水でまみれながらすべての感情を吐き出すように叫んでいた。ドアの向こうから誰かが走ってくる。その誰かの目も大きく見開かれて表情が凍りついている。
あぁ、あれはあなただ。
私の夫、私の大好きな夫。
いつも私の欲しいものをすべてくれるあなただ。
止まらない悲鳴に自分自身も怯えているのか全身がガクガクと震えている。視界は白で覆われ始め、意識が薄れてゆく。
こんな感情は欲しくない。こんな感情は見たくない。私はいつも微笑んでいたい。夫の前ではかわいい妻でありたい。夫が毎日抱きしめたくなるような愛らしい妻でありたい。いまの私は私じゃない。見ないで欲しい。来ないで欲しい。受け止めて欲しい。一人にして。私だけを見て。嫌だ。嫌だ。助けて。
矛盾する感情がかたまりになって一気に押し寄せる。
強張っていた体がぐらりと傾き、後ろにのけぞるように倒れていく。床に打ちつけられる瞬間に、店内に飛び込んできた夫が私の体を抱きかかえた。今度ははっきり聞こえる。私の名前を呼ぶあなたの声が。
私の愛しい人。
震える手であなたにぐちゃぐちゃになったチーズを差し出したあとには、もう何も聞こえなくなった。
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