『糞尿の海で殺し合う』冒頭試し読み C102にて頒布予定
俺の人生は爺さんと婆さんによって回っている。
もっと言えば、俺という人間は爺さん婆さんのために生きているし、爺さん婆さんによって生かされている。
最近ますますそう思うようになった。
まず、俺の給料の大半は祖父母の介護の費用に充てている。花の20代後半、未だ遊びたい盛りな俺の月給の大半は、我が愛すべき祖父母のオムツ代に消えているというわけだ。
しかし一方で、俺の職場といえば介護施設だった。認知症の老人のお世話が俺の生業だ。朝から晩まで、ひたすら爺サマ婆サマがたのオムツを交換する。
俺はオムツ交換で稼いだ金で、オムツを買っているって事になる。人様の爺さん婆さんを世話して稼いだ金で、自分の爺さん婆さんの世話をする。
俺の人生は老人たちを中心に回っているんだ。
奇妙な歯車の中に取り込まれた気分だが、別に求めてこうなったわけじゃあない。いつの間にかそんな風になっていたんだ。
考えてみれば、その始まりは俺が8つのガキだった頃に遡る。
小さい頃の俺はそりゃあもう幸福そのものだった。金持ちとまではいかない家庭だったが、不自由なんて感じた事はなかった。とくに両親の仲が良くてさ。子どもにとってそれ以上素晴らしいことはないよな。
週末には家族でよくショッピングモールに行ったのを覚えている。ああ、俺の人生の黄金時代。麗しの時代だ。あれ程楽しかったことは未だない。
「今夜はハンバーグにしましょうか」
食品売り場でカゴをいっぱいにした母。
母はそう言いながら俺の頭を撫でてくれた。
フードコートで食べたソフトクリーム。親父は鼻にクリームを付けておどけてた。
帰りがけに1パックだけ買ってもらった遊戯王カード。レアカードなんて出なかったが、それでも満足だった。
くり返し思い出す記憶だ。俺の脳内に再生回数をカウントする機能があれば、間違いなく百万回は再生している記憶。俺の小さい頃の原風景。休日の家族とのひと時。
そのショッピングモールからの帰り道、両親は死んだ。
両親と俺の乗った車は、逆走してきた軽トラックと正面衝突した。
車のフロント部分はぺしゃんこになり、半ば消滅していた。親父の自慢の愛車はケツの下に敷いたタバコ箱めいて潰れてしまった。
そして、後部座席にいた俺だけが助かっちまった。
お相手の軽トラの運転手は85歳のジジイ。いつもの畑仕事に行くはずが、全然違う道に入り込んだらしい。もしかしたら認知症で、道に迷ったのかもしれない。だが、それも今では確かめようがない。ジジイもまた平らに潰れて死んだのだから。
あの事故のことは鮮明に覚えている。
母さんは来週に行くはずのピクニックにサンドイッチを持っていく話をしていた。その十秒後、自分自身が潰れてサンドイッチみたいなるとも知らずに。
事故を経て俺が学んだことは、人間ってのは俺たちが思っているより、ずっとずっと柔らかいって事だ。
さっきまで幸福の只中にいた人でも、ほんの少しの不運に見舞われば、次の瞬間にはミンチのパテと化しちまう。
人間、不運の前には誰しも平等ってことだ。
家族の事を思い出そうとすると、まるで紐付けらてるみたいに、事故の記憶が顔を出す。幸福な思い出に浸っていたら、いつの間にか事故の事を思い出し、引き裂かれるような気分になる。家族の記憶ってやつは、俺にとって剃刀の埋まったショートケーキなんだ。
両親が死んで、俺の最も幸福な時代は終わった。あっけないもんだ。俺と両親が過ごしたのはたったの8年間。なんてこった。両手で数えきれるじゃないか。
さて、公道逆走クソジジイに人生ぶっ壊された俺だったが、そんな俺を救ったのもまたジジイだった。捨てるジジイあれば拾うジジイあり。
父方の祖父母たちが俺を引き取った。
この祖父母・・・とくに祖父の方はしっかり者だった。元々、地域の自治会長をやっていたような人だ。
息子の忘れ形見を一人前にしようと腹を括ったのだろう。祖父母は俺に惜しみなく金と愛情を注いでくれた。
両親を亡くすという強烈な不幸に見舞われた俺だったが、爺さん婆さんのおかげで何とか生きていくことが出来た。
後で知った事だが、自分たちの年金も俺の教科書代や制服代にぶち込んでくれていたらしい。二人が今の俺の現状を知ったらなぁ。身銭を切った事を激しく後悔するだろうなぁ。
しかしながら、仲の良かった両親と違い、祖父母の二人には一定の距離感があった。
頑固で融通の効かない祖父。昔堅気なんて言い方をすれば聞こえはいいが、要は家父長制に囚われた骨董品みたいなジジイだった。身の回りのことを女にして貰って当然、みたいな男だ。米も研げないし、洗濯物も畳めない。逆に何ができる人だったんだろうな? 小学生の方がまだ生活力があるぞ。飯一つにしても、米が硬すぎるだの、味噌汁の味が薄すぎるだの、口を開けば文句ばかり。自分では何もできないくせに、やたら尊大に振る舞うジジイだった。
祖母いつもそんな祖父の顔を伺っていた。祖母はいつも自分の行いが夫の気に触らないか怯えていた。危険を察知したビーバーめいてビクビクしていた。
俺はそんな祖母が哀れだった。
二人はたびたび喧嘩もしたので、俺はその都度家を飛び出した。
そんな家庭だ。正直、気まずかったんだよな。
引き取ってくれた祖父母に感謝さえすれど、日に日に家を出たいという気持ちは強まる。
俺の目標は、なんと恩知らずな事か県外での就職となった。
しかし時間は進み、祖父母と俺の関係性は変わり始める。
爺さんの大きな欠点の一つに、耳がクソ遠いと言うのがある。TVの音はいつもライブ会場みたいな爆音だった。
祖父が一階でTVを観ていると、二階の俺には祖父が何の番組を観ているか分かったし、2時間サスペンスなんて観ようものなら、犯人が誰か推理さえできた。宿題の邪魔ったらなかったね。俺は学校の成績は悪かったが、多分その三割ぐらいは爺さんの責任だ。
そんな難聴持ちだったからな。
ある日、爺さんは自転車で中学生と衝突し、腰の骨を折った。
我がもの顔で道路のド真ん中を走っていた祖父だったが、難聴のせいか、背後を走る自転車に気づかなかったらしい。前触れなく左折した祖父は、追い抜こうとしていた中学生の自転車と衝突した。
全く中学生には同情するね。彼には塩の一粒ほどの落ち度もない。
転倒した祖父は腰を痛め、入院する羽目になった。
爺さんは病棟ではひたすら不機嫌だった。無理もない。今までは婆さんという忠実なしもべが24時間つかえてきたのに、病院ではそうも言えない。
終始ごきげん斜めの爺さんは、看護婦相手に考えうる限りのひどい悪態をついていたし、同室のジジイと大喧嘩した挙句、そのジジイが気に入らないから部屋を変えろと散々ゴネたりした。自分もジジイのくせに何を言っているんだろうな。同族嫌悪ってやつかしら。
しかし、これは爺さんの人生において尊大に振る舞える最後の時間だった。
足の骨を折ったわけだし、入院期間はそれなりに長かった。それが良くなかったんだろうな。病院での動けない生活は爺さんの脳みそには毒だったのだ。
我が祖父は光の速さでボケだした。
俺と婆さんが様子を見に行くたび、爺さんは活発さを失っていった。口数が減り、ぼうっとし始めた。前開きのシャツのボタンを付けるのにひどく時間がかかるようになった。
爺さんが俺を見る視線も徐々に変わり始めた。妙によそよそしい。見舞いにきた孫を見る視線ではなかった。
年齢も年齢だったので、立ち歩きは危険と判断され、爺さんは車椅子で家に戻った。
家に戻った祖父はさらに無口になり、話しかけても反応が悪くなった。まるで回線が重たいパソコンみたいな反応の悪さだった。
車椅子での移動がし易いよう、家にはスロープやら手すりやら設置したが(それにももちろん金がかかった)、活発さを失った爺さんはそもそもあまり動かなくなった。スロープまで付ける価値があったのか、かなり微妙だ。
そして変な話だが、爺さんは目の前のものをやたら弄りまくるようなった。ティッシュ箱を見れば中身を全て出し、食卓にヒマワリが飾ってあればその花びらを一枚残らずもぎ取った。
祖父には目の前のものが何か分からなくなったようだった。
例えば、夕食を出したりしても、そちらを見もしない。
それが食べ物だと認識していない。
祖父の大好物だった麻婆豆腐だと分かっていない。
「爺ちゃん、ご飯だから食べてよ」
俺がそう告げても
「分かってる」
とだけ言って手もつけない。
スプーンを持たせても、それが「食事を掬って食べるもの」だと認識していないようだった。現在の祖父にとって、スプーンは「なんか先が丸っこい棒切れ」ぐらいのものなのだ。よって食事にやたら時間がかかるようになった。
俺はそんな祖父を見て『2001年宇宙の旅』を思い出していた。
あの映画の冒頭。人間の祖先が骨を武器として使うシーンがある。有名な場面。『ツァラトゥストラはかく語りき』が高らかに鳴り響く、あの象徴的なシーンだ。モノリスに触れて進化した猿たちは骨の棒切れで同族を殴り殺す。「ただの骨」を「相手を殴るための武器」としてはじめて使用したのだ。道具という概念が生まれる瞬間を描いた非常に有名なシーンだが、祖父に起こったのはその逆だ。「道具」を「道具」として認識できなくなる。認知症とは脳の退化にも近いのかも知れない。
全く、ボケた爺さんから名作SFを想起することなんてあるんだな。あの作品の素晴らしさを俺は再確認した。
俺が人間の進化に思いを馳せる一方、祖母は祖母で徐々におかしくなってきていた。
爺さんがボケると同時に婆さんもボケてきたのである。
ずっと一緒に過ごしてきた夫婦。ボケるのも一緒ってことなのかな。迷惑この上ない。
祖母はまず、同じ話をくり返すようになった。まるで壊れたカセットテープみたいに。
とくに婆さんのお気に入りだったのは「ホウレンソウを食べると昔観たポパイのアニメを思い出す」と言う話。1回の夕食の間にたっぷり5度はくり返した。「ブルータスというヒロインが可愛かった」という間違った知識と一緒に。
「ハァァァイ、ぶるぅうぅたぁす!」
婆さんは「ヒロインのブルータスを呼ぶポパイ」という存在しないはずのシーンの真似をした。くりかえし、くりかえし。子どものオモチャが壊れたみたいに。
俺が「ヒロインの名前はオリーブじゃなかったか」と指摘すると、婆さんは烈火の如く怒った。口から夕食の煮豆の食べカスを吐き散らしながら「そんなはずない!あの子の名前はブルータス!」と怒鳴りつけた。
怒る祖母が隣にいるのに、祖父はぼぅっと中空を見ていた。
ひどい食卓だ。飯の味なんて分からなかった。
ヒロインの名前とかいうクソどうでもいいことで祖母は怒り狂った。感情のコントロールができていない。今思うと明らかに認知症の片鱗だ。
大口を開けて怒鳴り散らす祖母。俺はその時に見えた彼女の口内を未だに覚えている。痩せて膨らみを失った歯肉の上に、転々と歯が植っている。墓石みたいな歯の間はひどく隙間が空いていて、まるで寂れた墓地だ。昔はもっと並び生えていた。
俺は否応もなく、祖母の老いを感じたのだ。
さて、リピート機能の故障により舌が止まらなくなった祖母だったが、そのうちに発声機能まで壊れてしまったらしい。
突然口数が減った。あまり話さなくなり、活発さが失われた。
この無気力な感じは爺さんにも見られた症状だ。活発さがなくなるのは、認知症の人間が一度は通る道なのかも知れない。
婆さんの習慣の一つに、朝起きたらまずばっちり化粧をキメるというのがあった。見栄っ張りの祖母らしく、弾丸でも跳ね返せそうな厚化粧。風呂上がりの婆さんに遭遇するたびに、化粧というものがここまで人相を変えるものなのかと驚愕したね。
そんな彼女が化粧をしなくなった。
これは大きな変化だった。
家事もおざなりになり、洗濯もせずにTVばかり眺めていた。
「台風来てるんでしょ」
ある時、TVを観ながら祖母が言った。
9月の半ば、確かにその日は台風が近づいてきていた。
「台風のこと・・・してる番組に変えて」
俺は告げられなかった。今まさに彼女が観ている番組こそが台風情報のニュースだということを。
遂に祖母をデイサービスに通わせることにした。
俺が学校に行っている間とか、1人の時間が多かったから、刺激が足らず、ボケ始めたのかと思ったからな。
しかしもう既に遅かった。
一度始まった認知症は進行を遅らせても治すことはできない。
今の祖母はほとんど意思疎通が不可能になった。
獣めいて意味のない言葉を叫び続けていると思ったら、次の瞬間には銅像みたいに動かなくなる。そしてたまに恐ろしく乱暴になる。
身の回りのものを俺に投げつけてくる。皿、スプーン、湯呑み、そして自らの大便もだ。
自慢じゃないが、うちの婆さんはコントロールが良いんだ。何度顔面に糞のストライクを食らったものか。プロ野球のスカウトが未だに来ないのが驚きだね。甲子園もいいが、スカウトマンの皆様は特別養護老人ホームなんかを見て回るべきだと思うね。今まで見たこともない才能に出会えるはずだ。
デイサービスでも祖母は自慢の豪速球を披露しているようで、頻繁にストラックアウトに興じているらしい。その場合、ボールは湯呑み、標的は他の老人だ。
祖母が湯呑みを誰かに投げつけ、そのままその誰かと大喧嘩。そうやって早々にデイから帰ってくるのは日常茶飯事だ。
祖母は外出も大好きだ。
昼夜問わず雨の日も晴れの日も外出しようとする。活動的なのは良いことだが、深夜に探しに行くはめになるこちらの事も考えて欲しい。
ある豪雨の夜には、近所の野菜畑の中に侵入していた事もある。俺が探しに行くと、祖母は畑の中に転がり、泥まみれになりながらナメクジめいてのたうち回っていた。当然、そのレタス畑はめちゃくちゃになり、俺はあくる朝に菓子折りを持って平謝りにいく羽目になったのである。
家のドアの鍵をかけていても、調子のいい時は自分で開けるし、開けられない時は泣き叫びながらくり返し扉に体当たりする。夜中に家全体が揺れる勢いで体当たりするものだから、結局俺の眠りは妨げられる。
宥めすかして落ち着いて貰おうとすると、祖母は容赦なく犬めいて噛み付いてくる。おかげで俺の手や腕には生傷が絶えない。下手なブリーダーになった気分だ。
とっとと死んでしまった俺の両親だが、ボケてしまった祖父母を目の当たりて済んだという一点は幸せなのかも知れない。
爺さんが事故して入院した時、俺はむしろ幸運じゃないのかと思った。婆さんにとっては良いことなんじゃないかと思ってさえいた。
だってそうだろ?
二人が結婚してから五十年以上、婆さんは爺さんに尽くしてきた。かしづいてきたと言ってさえいい。
だから、爺さんが家に居なくなって、ようやく婆さんは自由になったと思った。もう厳格な祖父はいない。祖母はもはや誰にも怯えなくていいのだと思った。
しかし、なかなかどうして人生ってやつはうまくいかない。
まさかここまでボケてしまうとは。
孫に糞便を投げるつけるのが趣味とは、俺が想像していた婆さんの幸せにはかなり遠くなっちまった。
だが、婆さんは俺のことも爺さんのこともさっぱり忘れているので、自由と言えばもの凄く自由なのかもな。
さて二人がボケてしまって、俺の人生はさらに一変した。何度、一変すりゃいいんだろうな。
祖父母を放っておけず、地元から出るのは断念せざるをえなかった。
祖父祖母とも施設に入れたかったが、料金が比較的安い特別養護老人ホームはどこもかしこも満員だ。数年は待つことになるだろうと言われた
まったく、日本はジジイとババアが多すぎる。
料金の高いグループホームなら空いていたが、俺の給料と年金だけでは二人分の月賦を払うことはできない。
そこで、爺さんはグループホーム、婆さんは家で世話をすることになった。
なんで爺さんの方を施設に入れたのか?
昼夜問わず暴れまくる婆さんの受け入れを施設側が難色を示したからさ。
金が必要になり、俺は手っ取り早く就職しなくてはならなかった。それで選んだのが介護士だったというわけだ。
なんせ慢性的に人手不足の業界だ。
介護に関する勉強なんてしてなかった俺だが、採用自体は簡単にして貰えた。
きっと他にも選択肢はあったんだろうけど、祖母の介護に追われていた俺は就職活動なんてしちめんどくさい事をやる精神的な余裕はなかった。
安易な決断だったと思うよ。
「家で婆さんの介護してんだから慣れてるし、大丈夫だろ」なんて思っていた当時の俺を蹴って蹴って蹴り殺しに行きたい。祖父と祖母の糞尿だけでなく、その他多数の糞を処理するのがこんなにキツいとは。
正直後悔しているが、後の祭りだ。
かくして俺は家では祖母の、職場では人様の家の大事な爺さま婆さまの世話をしている。
365日24時間、俺は老人に囲まれている。
老人を世話した事で得た金で、老人を世話している。
そう、今や俺の人生は俺のためのものじゃない。ジジイとババアを中心にして回っているのさ。
そんな俺が夜中に婆さんのオムツを代えている時だった。
突然スマホが鳴った。
こんな時間に誰だ? 深夜の2時だぞ?
しかしながら、こちらは喚き散らす祖母のケツにべっとり付く大便を拭き取っている最中だ。
電話は取れない。
スマホは鳴り続ける。
そのうち止まるかと思ったが、鳴り続けている。
必死でこちらを引っ掻こうともがく婆さんの手を抑えながら、俺はオムツのマジックテープを止める。
スマホは鳴りっぱなし。
俺が祖母のベッドに柵を設置し、オムツのゴミを捨て終わってもまだ鳴っていた。
わざと取らなかったんじゃない。
両手を石鹸で洗うまではスマホに触りたくなかっただけさ。手袋してても洗わないとやっぱり嫌でね。
散々待たせたのに、まだコールしている。
そんなにも俺と話したい人間がいるとは。
どこの誰だろう?
・・・俺がスマホの表示を見た時の顔を誰かに見せてやりたいね。
この世の終わりみたいな顔をしていたはずだ。
俺はこの電話を取るべきかどうか少し思案した。
話したって、きっと良いことなんて一つもない。そんな相手からの電話なのだ。
しかし取らないと延々と電話を鳴らされるのは目に見えている。
着信拒否してもいいのだが・・・仕方ない。話だけでも聞いてやるか。
「もしもし?」
「ああ、ようやくかかった! 取るならさっさと取って下さいよ! 何度鳴らしたと思ってるんです?」
「夜中の2時っていうのは基本的には誰だって寝てる時間だぞ、下水(げすい)」
「ああ、起こしちゃいました?」
「いや、起きてたけど」
「じゃあ何も問題ないじゃないですか。何を言ってるんですか。変な人だなぁ」
電話越しで減らず口を叩くのは下水という男。本名は忘れた。苗字に下って漢字が入っていた事は覚えている。故にあだ名が下水。俺たちの間ではそう呼ばれていた。何のきっかけでそんなあだ名が付いたか知らないが、下水管みたいな酷い名前だ。俺が親ならイジメを疑う。しかし本人は全く気にしていないようだった。
下水は俺の知り合いの中でも最も信用ならない男の1人だ。
名は体を表すではないが、下水というあだ名に相応しい悪臭漂うドブ野郎。
奴は元々、俺の幼なじみの後輩だった。
直接の後輩でなく、友達の後輩って言うユルい関係性。
要領のいい下水は、後輩というポジションをフルに活かして俺の幼なじみにくりかえし飯を奢らせていた。
下水のクソな部分の一つに女癖が悪いと言うのがある。
奴は俺の幼なじみの彼女と寝ていた。高校の教室で、しかもその幼なじみの机の上でヤッたらしい。これ以上ない寝取りプレイ。さぞ気持ちのいい射精だったろう。
当然、怒り狂った幼なじみは下水と絶縁状態になったわけだが、奴はちゃっかり俺との関係性は保ち続けた。何食わぬ顔で俺を飯に誘うことさえあった。
俺は奴以上にツラの皮が厚い人間を他に知らない。
下水のクソな部分は、それはもう星の数ほどあったが、とくにクソだったのは他人ってものをATMかなんかと勘違いしてる点だ。
「先輩、また少しばかり金を無心してくれませんかねぇ」
下水はいつもそう言って金を借りに来た。
無心。そう、無心だ。あいつはいつもそういう言い方をした。
人懐っこく笑いながら金をせびってくる。
そこそこ色男なものだから、貸す人間は結構いた。
俺も何度か貸したが、その金はついぞ返ってくることはなかった。
金は専らパチンコとデート代に消えているという噂だった。
借りた金をパチンコでスるって言うのは果たしてどんな気持ちなのかね? 善良な俺には全く想像もつかないな。
下水は誰かから金を借りると、同じ相手にくり返しせびった。しかし金は返ってこないから、当然相手はそのうち金を貸し渋る。そうしたら、別の誰かに金をせびる。もちろんまた貸し渋られるまで。クレジットカードを限度額まで使い切ったら、別の会社でカードを作るようなもんだ。
まるで人間関係の焼畑農業。
自分の信用とか友情とかその他諸々を素材に、奴は遊びの軍資金を錬成していたわけだ。
そんなクソ野郎からの突然の電話。
警戒するなって方が無理な話だよな。
「・・・何の用事? こんな時間に。緊急?」
「いや別に。全然」
下水は平然と言ってのけた。
ああ、クソ。コイツこんな奴だったな。
「深夜に電話をして迷惑じゃないかな?」とか、そういったことには全く頭が回らない奴なのだ。
「いい儲け話があるんですよ、先輩」
3年ぶりに電話がかかってきて、何事かとおもったら・・・。
儲け話だって?
「・・・アムウェイかネズミ購の勧誘なら他を当たってくれない?」
「なにを言ってるんですか。そんな胡散臭いものに俺がハマるわけないでしょ」
どうだかなぁ。
「俺の儲け話は、マジの儲け話です」
「・・・何で俺にその話をするんだよ」
「どうせ金ないでしょ、先輩。話を聞くだけでも損じゃないと思うんですけどね」
「・・・どうして金がないって思うの?」
「だって先輩ですよ。金を持っているわけないじゃないですか。持ってないでしょ?」
電話越しで良かったな。面と向かって話してたらぶん殴ってるところだ。
「一度会ってくれませんか先輩。そこで詳しく話をしましょう」
「悪いけど、他を当たってくれ」
俺がそう言って電話を切ろうとした時だった。
「『金華亭』で会いませんか?」
「・・・・・・」
『金華亭』といえば、駅裏にある高級焼肉店だった。
この近辺じゃあ最も高い店だ。常連客は政治家と社長ばかり。クズどもとゴミどもに大人気の店。
「俺にそんな店に行く金があると思う?」
「今回はボクが出しますよ」
おいおい、あのたかり屋がどういった心境の変化だ?
「お前、ほんとに下水?」
「どういう意味です、それ?」
下水は「何を疑われているのかさっぱり検討もつかない」って感じの口調だ。こいつは自分の信用がストップ安だということが分かってない。
変だ。これは絶対に変だ。あの下水が高級焼肉を俺に奢るなどと・・・。
下水を騙る別人じゃないのか。なんかの新手の詐欺じゃないのか。
儲け話というも胡散臭いのに、焼き肉を奢るというのも胡散臭い。
「胡散臭い」の二乗に、俺の中の警戒センサーが激しいアラート音を上げている。
行くべきじゃない。絶対行くべきじゃない。絶対ひどい目に合う。
しかし・・・しかしだぞ。ここで行かなくては、あの『金華亭』の焼肉なんて一生食べられない気がする。
「どうします? 来てくれるでしょう?」
思案する俺に対して、電話越しの下水が言った。
「肉食べたくないですか?」
こいつ、足元見てやがる。
もういい。もう何だっていい。詐欺で構うものか。俺は焼肉が食べたいんだ。
「・・・いつ会う?」
「明後日の夜とかどうですか?」
「昼がいい」
「何ですって?」
「明後日の昼にしてくれ」
「昼ぅ? 夜じゃ駄目なんですか?」
「夜じゃ駄目なんだよ」
夜は祖母が家にいる。
徘徊癖のある婆さんだ。夜に家を空けるわけにはいかない。
「昼にしてくれ。仕事が休みなんだ」
昼だと祖母はデイサービスに行っている。安心して外出できる。
「昼か〜〜〜」
下水は何事かを思案していたが、
「分かりました。昼にしましょう。明後日の昼ですね。12時でいいですか?」
なんとか折れた。
「12時でいい」
「分かりました。じゃあ細かい話は後日」
こうして電話は切れた。
果たして会うことにして良かったのかどうか。
しかしあの『金華亭』だ。正直興奮する。
「儲け話」って話も一応聞くだけ聞いてやろうじゃないか。焼肉の代償なら安いもんさ。
『くり返す日常』
『変わり映えのしない毎日』
クソ下らないJ-POPの歌詞みたいな言葉だが、俺の日常というのはまさにそれだ。
毎日がループしてる。
そんな日常だからかもな。
下水なんぞの誘いに安易に乗っかってしまったのは。
今思うと変化が欲しかったのかも知れない。
「ここはどこかしら?」
俺の職場のグループホーム。
簡単に言えば、認知症の爺さん婆さん向けの老人ホームだ。
暖かみを感じさせるための木造りのフローリング。清潔そうな白い壁。
しかし、その建物の中は奇妙な匂いが漂っている。糞尿の匂いと、それを消すための芳香剤の匂い。それが混じり合い、他にはない個性的な香りを醸し出している。
「わたし、こんなところに居られないわ。帰らなきゃいけないの。出口はどこ?」
俺はそこで利用者の婆さんに話しかけられていた。
洗濯物を干しに行きたいところだったんだが、
俺が対応するしかないな。
「まだ昼前の10時ですよ。まだ帰るには早いんじゃないですか? お昼ご飯を食べてからでもいいんじゃないですか?」
俺はこの半年の間に何百回とくり返されてきたやりとりを始める。
「家にはお父さんがいる。お昼の準備をして上げなきゃ」
この老婆の旦那はとうの昔に亡くなっている。
しかしそんな事は記憶の彼方に追いやられている。
「そうなんですね」
否定するのはご法度。彼女の中では、旦那が家にいるのは全く疑いようのない真実なのだから。
「出口どこ?バスが出ているでしょう?」
バスなど出ていない。どこかの病院と勘違いしてんのかな。
「バスはないんです」
「じゃあ歩いて帰るわ」
ここがどこかも知らないのに老婆はそんなことを言う。
「お家まではちょっと遠いですよ」
歩いて帰りたいならそうしてもいいが、徘徊老人として連れ戻されちまうぜ。そうなったら俺も怒られるし、お互い損だよ、婆さん。
「タツさん」
俺は老婆の名前を呼んで、姿勢を低くした。
腰が曲がった彼女と視線の高さを合わせる。
「何であたしの名前を知っているの?」
老婆はギョッとしている。
「今日ここにはじめて来たのに」
既に半年もこの施設で寝泊まりしているのに、この老婆はそれも忘れている。
彼女にとっては毎日が新しいのだ。ある意味では羨ましいね。
「三浦タツさんでしょ?」
「よく知ってるわねぇ」
この名前のやりとりも多分一千回目ぐらいだ。
いやもっと多いかも。
「私たちとしては、タツさんにもう少しここにいて欲しいんです」
老婆が顔を顰める。
「何で? あたし帰れないの?」
「息子さんと娘さんに、ここで様子を見るように頼まれたんです」
「息子と娘? ここに来たの?」
「今日じゃないです。しばらく前に。息子さんは県外にお住まいでしょ? 娘さんは東京に」
「あなたよく知ってるわねぇ」
「もし何かがあっても、二人とも遠くに住んでるから、すぐに向かえないでしょ? それが心配だって。タツさんは80歳も過ぎてるし、足腰にも自信がないでしょ? いつ何があるか分からない。だからここでしばらく様子を見るように頼まれたんです。私たちが生活のお手伝いをさせて頂きます」
出来るだけ丁寧に、疑念を持たれないように説明しなきゃならない。そうでないと混乱させてしまう。彼女は「帰りたい」と駄々をこね、暴れ回り、職員に噛み付いた事もある。
「そんな、息子が・・・あたし、ここに預けられたの?」
「言い方は悪いですが・・・」
タツさんは「息子がそんな事をするはずない」と言って暴れた事もあったな。その時はこちらを詐欺師呼ばわりし「警察に行く」と言って聞かず、鍵のかかった玄関にくり返し体当たりした。
今回はそんな風にならないでくれよ。
「困ったわ。わたし、家に帰らないといけないのに・・・。お爺さんとお婆さんもいるのに」
タツさんの言う「お爺さんとお婆さん」は旦那の両親のことだ。
彼女は自分が80歳を越えているというのは理解している。なら、その両親なんてそうそう生きているはずがないよな?
そんな事すぐに分かりそうなもんだが、老婆の中ではそれが結びつかない。
それが認知症ってもんだ。
「生きてるわけないでしょ。旦那の両親が」という言葉が喉まできていたが、何とか飲み込む。
彼女の思い込みを否定しても、百害あって一理なし。気分を害されて暴れられても困る。
「お金は?わたし今、財布持ってないの。ここの料金払えないわ」
「息子さんに払って貰っていますから、大丈夫ですよ」
「そうなの?料金払ってあるの?」
「払って貰っています。大丈夫ですよ」
「じゃあもう帰っていいのね。出口はどこ?」
「・・・タツさん」
「何であたしの名前を知ってるの?」
そう。ここで話は最初の方に戻る。
ひたすらループする。
認知症ってこういうもんだ。
ゆえに話を打ち切るタイミングが難しい。
『くり返す日常』なんて言っていたが、俺の毎日は驚くほどに同じだ。だって文字通り同じことをしているんだから。
タツさんの話が3ループ目に突入した時、俺は「少し待って頂けますか?その後に話しましょう?」と話を切り上げる。
「話なんてせずに無視したらいいじゃないか」とも思うが、それもまた問題だ。職員が捕まらなければ、老婆は他の老人に話しかける。
そのまま質問攻めにして、相手を混乱させてしまう。混乱ってものは感染するんだ。「自分はなんでここにいるだ」と皆が言い出す。だから、適度に話は聞いて上げなくてはならない。
ただ正直、聞きたくない話もある。
話がループするのはまだいい方。
不愉快な戯言を吐き続ける婆さんもいる。
「あのアバズレがまた今日もいる・・・どの面下げて私の前に・・・」
洗濯物を干して帰ってくると、ある個室から大きな声が聞こえた。
いつもの事だ。
ある老婆が、一人の女性職員に向かって悪口を吐きかけている。
「あんたは男が欲しいんやろ! このアバズレ!」
婆さんはベッドの上で横向きに寝て、尻穴を晒している。
下品な罵詈雑言を投げつけられた女性職員。彼女は黙々と老婆の尻に付いたどす黒い便を拭き取っている。
婆さんはこの職員のことを、自分の三男の不倫相手だと思いこんでいる。この四年間、ずっとだ。
理由は謎。実際にあったことを思い出しているのかも知れないが、本当のところ分からない。面会に来た三男に「不倫とかしてたんですか?」と聞くわけにもいくまい。
「性悪女め。うちのヒロキと一緒になって、うちの金を奪おうとしてるんやろ!」
今の老婆は下半身が裸の霰もない姿だ。
しかもお尻を綺麗にして貰ってる真っ最中。それなのに、その綺麗にしてくれている相手を侮辱する。
自分の尻穴を拭いてくれている相手に暴言を吐きつけるってどんな気分なのかな?
しかも口だけじゃない。たびたび手も出る。その女性職員の腕には、ミミズめいた引っ掻き傷が絶えない。
「〇〇〇のくせに! 〇〇〇がこんなところにいていいのか!」
古い人間だから差別的な発言もガンガンに飛び出す。SNSなら即炎上レベルのひどい言葉だ。この婆さんは野蛮な時代の最後の生き残りなのだ。
「×××が〇〇○して××か!」
悪口を吐きかけられた女性職員は聞こえないフリをしている。
だって相手は認知症だから。
婆さんの中では、この職員は三男の不倫相手。それは絶対に変わらない。
ここで職員が何か言い返したりしても、何の得もない。
同僚は何があろうと、何もなかったみたいに振る舞っている。
模範的な介護士の姿だ。まったく見習いたいね。
「代わりますよ」
俺は個室に入ると、同僚に告げた。
「任せていい?」
髪を括った40代の女性職員。彼女は化粧っけのない顔をこちらに向ける。派手な化粧は職場では禁じられている。あまり女性的だと、ボケたスケベジジイ達にセクハラされるからだ。
恐ろしいもんだ。老いさらばえ、さらにボケても性欲ってもんは健在なのだ。
「最初から俺に任せてくれたらよかったのに・・・」
「今日は機嫌が良かったから大丈夫かと思ったけど、駄目ね」
俺もこの職員と同じように、職場で理不尽に罵倒されることはある。
ある爺さんは「お前に財布を盗まれた」と主張し、俺のことを大声で罵った。
理不尽に罵倒されながらも、その罵倒してくる相手のケツのウンコを丁寧に拭き取る。
その時の気持ちが分かるかい?
生まれた理由とか考えたくなるよね。
「代わります。別の人の対応をしてください」
「ありがとう」
自分が世話している相手からの罵倒、暴言。そして暴力。
これも毎日のことだ。
俺の『くり返す日常』の一部だ。
職場には色んな爺さん婆さんがいる。
話が無限ループする婆さんや、理不尽罵倒クソババアだけではない。
自分の部屋で小便して、その海でスイミングするのが趣味の爺さん。
ひたすら一人で歌を歌っている婆さん。
他の利用者や職員に対して、食器を投げつけるのが趣味の爺さん。
自分の糞をポマード代わりにして髪を固める爺さん。
そして、その人たちは変わらない。
認知症の人たちは変わらない。悪化することは簡単だが、改善することはほとんどない。
毎日同じことをくり返す。
俺たちは毎日同じように対応する。
これが俺にとっての『くり返す日常』だ。
J-POPの歌詞が想定している『くり返す日常』とはだいぶ違うだろうけどな。
俺が下水に会うことにしたのは、なにも高級焼肉が食いたかったからだけではない。変化が欲しかったからだ。
いや、違うな。
爺さん婆さん以外の誰かと、ループしない会話を楽しみたかったからかもな。
糞の臭いのしない、職場以外の場所で。
下水との約束の日。
俺が『金華亭』に向かうと、下水は店の入り口で待っていた。
「軽なんて乗ってるんですか。やっぱり金ないんですね」
3年ぶりに会った後輩の開口一番の言葉がこれだ。
「俺が軽に乗ってるって何で知ってる?」
「駅前の駐車場に先輩が駐車してるのを見てました」
「・・・軽自動車だってお前を轢き殺すには充分な馬力があるぜ」
俺がそう言うと、下水の奴は鼻で笑いやがった。
中肉中背にくせっ毛の髪。痩せた細身の体に、趣味のいい眼鏡。女みたいな顔。
下水は以前と変わらずそこそこの色男だった。
店に入ると、通されたの個室だった。
『すたみな太郎』以外の焼肉屋を知らない俺にとって、焼肉屋の個室に入るなんてはじめての経験だ。『金華亭』が高級店だというのは知っていたけど、まさか個室だなんて。
「ええと・・・上カルビに、ハラミ・・・。あとここは内臓系もなかなかイケるんですよ、ミノとかハツとか。先輩も食べたいものがあったら頼んじゃって下さいね」
知らない世界に戸惑う俺を尻目に、眼鏡イケメンは慣れた口ぶりで店員に注文をしていく。
「そんなポンポン頼んで大丈夫なのかよ」
不安だよ。めちゃくちゃ不安だ。
メニューなんて見るんじゃなかった。
一皿だけでも俺の一週間分の昼飯代ぐらいしやがる。
「最終的に俺も金を出す羽目になったりしないよな?」
「心配しないで下さいよ。金ならマジであるんですから」
そう言って下水はまた鼻で笑った。
そうしているうちに憧れの高級肉が机に並び始める。肉はどれもこれも美しい。
TVのグルメ番組で見る肉にそっくりだ。まるで芸能人とか外国人タレントに会ったような気分。「テレビで見たあの肉じゃん!」って感じだ。
しかし下水は肉に関して何の感慨もないようだ。それらを雑にトングで掴むと、雑に網の上に乗せていく。
「待て、待て、待て」
見てられなかった。テキトーに置かれた肉が団子みたいになっている。安い肉ならまだしも、Aなんとかランクの高級和牛だぜ? 勘弁してくれ。
「俺が焼く」
俺が焼いた方がまだマシだ。
「はぁ〜、先輩はやっぱり優しいっすね!」
下水が言った。
「後輩の手を煩わせたくないって事っすね!」
その後も「やっぱ先輩は出来た人だぁ」なんて、奴は一人で納得していた。
言うまでもないが肉は旨かった。
俺が普段食ってる100グラム96円の豚肉がドッグフードか何かに思えてくる。しかも他人の金だから旨さも三割り増しだ。
これで下水のいう「儲け話」とかなんとか言うのがなかったら最高なのに。
その話、聞かなきゃダメかなぁ?
もうそんなの、うっちゃって肉だけ食って帰っちゃダメかなぁ?
「いやぁ、先輩が今日来てくれて助かりましたよ」
下水が唐突に口を開いた。
彼の胸元には焼肉のタレが飛び散っている。小学生でももっと綺麗に食べるぜ。育ちの悪さがよく出てる。
「何で?」
「だってメッセージ送っても誰も反応してくれないし、電話も取ってくれないんですもん」
下水の悪評は知れ渡っているし、皆関わり合いになりたくないんだろう。
それに比べてなんと俺の愚かな事よ。迂闊にも電話を取ってしまうとは。
「先輩のおかげで3人揃いましたよ」
なんだって?
「後1人メンバーが欲しかったので、先輩が電話を取ってくれて良かった。これで3人です」
「・・・もう1人いるの?」
「そうです。今日の焼肉代を出してくれるのはその人なので・・・来てくれないとマズいんですが・・・ 」
「お前、さっき金ならあるって・・・」
「金はありますよ。ただ、ボクが持っていないだけです」
呆れた。
お前が奢るわけじゃないのかよ!
「その3人目が来なかったらヤバいんじゃないの?」
「そうですねぇ。ボクは金持ってないし」
俺はここに来た事を既に後悔し始めていた。
「さっきからLINEしてるんだけどなー。まだ寝てるのかなー」
それからたっぷり15分の間「3人目」が来るまで俺は生きた心地がしなかった。財布の中身が吹き飛ぶ未来がこちらをチラ見してる気がしたからだ。
そんな俺の不安もどこ吹く風で、下水は脳天気に好きなユーチューバーの話なんかをしていた。全く話が入ってこねえや。
そしてついに俺が食い逃げの決行を考え始めた時、個室の扉が勢いよく開いた。
「よお」
突然部屋に入ってきたのは、大柄でやたら顔のデカい男。
「ああ、おはようございます。起きられたみたいでよかったですね」
安堵する下水の隣に、大柄な男がドサリと座る。
髪を真っ赤に染めた派手な男だった。デカい指輪と金鎖のネックレス。金持ちの放蕩息子か、もしくは繁華街のチンピラか、そんななりをした大男。
「そうだよ、何で集合が昼なんだァ? おかしいだろ? 昨日もクラブでオールだったって言うのに。こんな早い時間に起きるハメになっちまったよ」
男が耳障りな大きな声で言った。
「ああ、先輩。紹介しますよ。この人は今回の仕事に参加する・・・」
「知ってるよ」
俺はこのチンピラのことを知っていた。
「久しぶり・・・鍋蓋」
「よぉ、久しぶり」
チンピラ・・・鍋蓋はニヤリと笑った。
まさか下水と鍋蓋が知り合いだったとは。
俺の知り合いの中でも、信用できない人間のツートップが目の前で並んでいた。
俺は相当げんなりした顔をしたと思う。
もうほとんど焼肉の味はしなかった。
鍋蓋。
平たくてデカい顔をしていたために、あだ名は鍋蓋。本名は全く覚えていない。鍋とも蓋とも掠りもしない名前だった気がする。
鍋蓋は中学のクラスメイトだった。
やたら見栄っ張りで、自分を大きく見せたがる奴だったことを覚えている。
やれ自分の親戚に社長がいるだの、やれ家系図を遡ると織田信長に行き着くだの、うそ臭い自慢話ばかりしていた。
鍋蓋がそんな話ばかりくり返すものだから、周囲はいつの間にか彼を信用しなくなっていた。鍋蓋が自慢話をしても「またやってるよ」ってクラスメイトたちは嘲笑していたな。
こいつの見栄っ張りは異常な域で、人から盗んだ遊戯王のレアカードを自分のものだといって自慢していたことすらある。
最終的に友達をなくした鍋蓋は、奴のことをよく知らない後輩にひたすら自慢話をくり返していた。気前よく飯などを奢り、後輩たちにはそれなりに慕われていたようだ。しかしその飯代すら、当の後輩の財布から盗んだものらしいと専らの噂だった。
鍋蓋は高校に進学せず、中学を卒業してからは疎遠になっていた。
最後に会ったのは俺が高二の冬。
髪を金髪に染めた鍋蓋と駅前の本屋で偶然出会った。
その時、奴は大量の本の束を抱えていた。まるで子供でも抱くみたいに。
「めちゃくちゃいっぱい本買うんだな。いつ読書家になったんだよ?」
「まぁ、これも勉強かと思ってさ」
高校に進学しなかったけど、自分で勉強する意思があるって凄いことだ。
俺は正直感心していた。
しかし奴が持つ本を見てみると、それは参考書でも学術書でもないようだった。
それらの本には、
『付き合う人を変えれば、あなたの人生も変わる』
『幸運を呼ぶ10のルーティーン』
『ゴールへの最短距離。成功者の習慣』
『億稼ぐ美学』
・・・などといった扇状的な見出しが踊っている。
参考書でもなんでもない。所謂、自己啓発本だった。しかもひどく胡散臭そうなやつ。
勉強か?それ。
「俺さ、上京するんだ」
鍋蓋が嬉しそうに言った。
「えっ?」
「東京に行って、ホストになるんだ。ナンバーワンのホストになって、金持ちになる」
あまりの突拍子のない発言に俺は何も返せなかった。嘘であって欲しいという気持ちもあった。
俺は「お前・・・その顔でホストは・・・」と言う言葉をすんでのところで飲み込んだ。
ルッキズムに囚われた発言を恥じたからではない。ここで彼を否定しても何も変わらないと思ったからだ。
鍋蓋とはそれっきりだった。
地元に帰って来てる辺り、ナンバーワンホストの夢はどうやら叶わなかったらしい。
あの自己啓発本の束がどこまで役に立ったのかぜひ聞きたいところだ。
「いやー、鍋蓋さんと先輩が知り合いだなんて驚きましたよ」
下水が肉を網の上に並べながら言った。
・・・下水も鍋蓋のこと鍋蓋って呼ぶんだな。中学時代のクソくだらん仇名は未だ健在らしい。
「同級生って言ってなかったっけ?」
鍋蓋は訝しんでいる。
「言ったと思うけどな。中学のクラスメイトだったって。誰を誘うか考えている時に」
「そうでした?」
なんだか白々しい。下水の奴は素知らぬ顔でビールを飲んだ。
・・・こいつ、鍋蓋が関わっているって俺にわざと伝えなかったんじゃないか?
鍋蓋までいるとしたら俺が参加しないって思ったんじゃないか?
「まぁ、久しぶりに会えてよかったじゃないですか」
話をはぐらかす限り、だいぶ怪しい。
「お前らこそ、高校時代の先輩と後輩とは。世間は狭いよなァ」
鍋蓋は焼けた肉を自分の取り皿にひょいひょいと入れる。
こいつ俺が育てていた上ロースを・・・。
来て早々に無遠慮な奴だ。
「自分の焼いた肉を食えよ。追加で頼んだだろうが」
「腹が減ってんだよ、焼けるまで待てって言うのか?今日の焼肉代は俺持ちだぞ?」
たしかにそう言われると何も返せん。
「感謝しろよ?『金華亭』なんてなかなか来られないだろ?入ったこともなかったんじゃないのか?」
「まぁ、確かに始めてだけどさ」
「感謝しろ、感謝」
鍋蓋の奴、最後会った時は金髪だったのに今は赤髪だ。アクセサリーもやたらしているし、より派手になってチンピラ感が増している。横に平たいデカい顔は変わってないが。
「お前、ビールは? 酒は? せっかく奢ってやるのに!」
デカ顔チンピラが楽しそうに言う。
「先輩は下戸なんスよ」
俺が答える前に、下水の奴が口を挟みやがった。
「だから今日も近くまで車で来てんすよ。軽自動車で」
余計な事を。
「軽だぁ?お前ほんとに金ないんだなァ」
なんでこんなに軽自動車をディスられなきゃならんのだ。燃費の良さを知らんのかアホどもめ。いつか本当に轢き殺してやるからな。
「せっかくの焼肉なのに、酒が飲めないってのは人生損してるぜお前」
鍋蓋は豪快にビールを仰ぐ。
昼間から酒が飲めるのは俺が時間を昼を指定したからだぞ。感謝しやがれ。
ビールを持つ鍋蓋の手首に、きらきら輝く腕時計が見えた。
おそろしく高そうな時計。ブランド品なんてよく分からないが、高いものだってことぐらいは分かる。
「なんだよ、この時計が気になるかよ」
俺の視線に気づいたらしい。
鍋蓋はニヤニヤ笑っている。
「この時計はなァ、ロレックスだよ! ロレックス! ロレックスのヨットマスターってやつだ。知ってるか?」
「いや、ブランドものは詳しくないし・・・」
「幾らだと思う?」
「分からねえよ」
「当ててみろって」
そんな事言われたってな・・・。マジでブランドものとは縁がないんだ。
俺は当てずっぽうで答えるしかない。
「・・・5万ぐらい?」
「はぁぁぁ?」
鍋蓋は呆れた顔をした。
俺はこの顔デカ糞野郎の目を箸で突いてやりたい衝動に駆られたが、すんでのところで抑え込んだ。
焼肉だ。焼肉代は鍋蓋持ちなのだ。
怒りを抑えろ。こいつの機嫌を損ったっていいことはない。
「この時計はなァ、20万するんだぞ! 20万! 5万だなんて・・・お前見る目が無さすぎるぞ?」
鍋蓋はひどく上機嫌だった。腕時計のことを自慢するのが楽しくて仕方がないらしい。
「20万! 凄いっすね! 鍋蓋さん、儲けてますねぇ!」
ああ、下水よ。お前はそうやって太鼓持ちが得意な奴だったな。ヨイショしまくって良い気になった相手から金をせびるんだ。鍋蓋にもそうするつもりなのが見え見えだよ。
「腕時計ってのは名刺代わりなんだよ。それを見るだけでその人間のステータスや地位が分かる。お前も腕時計しろよ。できるだけ高いやつ」
「そうだな」
介護士の業務は水仕事も多いし、何より汚物に触れる機会が多い。腕時計はそこそこ邪魔だ。
故に俺は普段から腕時計はしていない。
「買うよ、腕時計」
多分買わないだろうけど、話を合わせた。
こいつらに買わない理由を説明するのが面倒くさい。
しかし「名刺代わり」とか言っていたが、20代後半のクソガキにロレックスの時計は分不相応だと思うぞ。
だいたい鍋蓋ごときがよくそんな高級時計を買えたもんだ。
さっきからジャラジャラと耳障りな音をさせているネックレスも多分高いやつだし、人差し指にしている金歯みたいな指輪もきっとブランド品だろう。
その上、この焼肉代も鍋蓋持ちときた。
こいつ、何でこんなに羽振りがいいんだ?
「皆さん、そろそろ仕事の話をしませんか?」
下水が言った。
「儲け話の話です」
「そうだな」
チンピラは口に付いたビールの泡を拭き取った。
「・・・店員は近くにいないよな」
そう言うと、鍋蓋は顔をぐいとこちらに近づける。
「タタキだ」
鍋蓋が小さな声でそう言った。
「ジジイとババア、二人暮らしの家を狙う。ボロい仕事だ」
・・・なんだって?
タタキ?
タタキって何のことだ?
「なんだよ、お前、タタキわかんねぇのか?」
ピンと来てない様子の俺を見て、鍋蓋が呆れている。
「困ったやつだなぁ?そんなことも分かんないで来たの?」
「先輩、タタキって言うのは」
下水が自慢げに話し出す。
「タタキって言うのはね。盗みのことですよ。強盗のことをヤクザや半グレとかじゃそう言うんスよ」
犯罪者同士の符号なんて知ってたところで何の自慢にもならんと思うが。
・・・ちょっと待て。
下水のやつ、今なんて言った?
盗みだぁ?
俺に強盗をやれって言うのか?
「お前、盗みとか、そんなの聞いてないぞ・・・」
「言ってないですからねぇ」
下水はどこ吹く風だ。
「言ってたら来なかったでしょ?」
それは確かにそうだが。
「なんて事に誘うんだよ・・・」
「何だよ、やらねーの?」
困惑する俺に対して、鍋蓋は軽い。
「話だけでも聞けよ」
正直、今すぐに店を出て行きたい気分だったが・・・焼肉食わせて貰っているしなぁ。
網の上で育ててるホルモンを食うまでは聞いてやるか・・・。
「下水が持ってきた仕事なんだよ」
「狙うのは、三島っていう老夫婦の家です。市内の家です。家主の三島明は会社役員をやっていたので、そこそこの資産家。家は古いけど大きくて、離れもあるし、庭には東屋もある。調べた限り息子と娘が1人ずついて、それぞれ県外に住んでますね」
東屋のある庭?
子どもが2人?
羨ましい家庭だな。
俺がこの先、一生持ち得なさそうなものが揃ってるじゃないか。
「この仕事のヌルい部分は、この老夫婦がボケ始めてるってことです」
「なに?」
「ボケてんすよ、ここに住んでる二人」
認知症の夫婦が二人だけで住んでるなら危険だな。・・・その、強盗とかに入られる恐れがあって。
「宗教の勧誘のフリして婆さんに会いましたが話がトンチンカンでした」
なにやってるんだこいつは。
なんでそんなことには行動力を発揮するんだ。
「息子のこととか聞き出そうとしてんのに、突然自分の出身地の漁師町の話とか始めてくるし・・・『伊勢にまで真珠の養殖に行ったのよ』ってね。そんなこと聞いてないのに。まぁ、全然話が通じないんですよ」
「爺さんの方は?」
「婆さんが話してる後ろの方で声だけ聞こえてるんですよ。ずーっと大声で歌を歌ってる。多分『瀬戸の花嫁』かなぁ。参りましたよ。ありゃ相当ボケてますね」
下水は呆れと困惑が入り混じった顔をしている。
勉強になっただろ、下水。あれが人の行き着く先さ。長生きすればほとんどの人が通る定番コースだ。お前もああなる覚悟をしておけよ。
「あそこまでボケてると盗みに入ったとしてもバレにくいし、見つかっても通報すらされないと思いますよ。じっくり金目のものを漁れそうです」
確かにそうかも知れない。ボケた老夫婦はこちらを強盗犯だとは認識しないかも知れない。
「家族は知らないんでしょうね、ボケてること。知っていたら普通、施設に入れるでしょう。それぐらいの金はありそうな家でしたよ。気づいてないのかな?」
多分コロナだろうな。
外出が制限された事で、夫婦はおそらく一気にボケたんだ。坂を転がるみたいに。県外移動も制限されていたから、息子や娘もしばらく会っていない。だから多分家族は現状に気づいていない。
「なぁ? どうだ?」
鍋蓋がまた顔をこちらに近づけた。
「楽そうだろ?」
「・・・・・・」
強盗が楽かどうかって聞かれたら絶対楽じゃないと思うけど。
老夫婦に見つかっても見つからなくても、どちらにせよ前科が付くのは正直ごめんだ。
俺は網の上のホルモンを皿に取った。
育てていたのに焦げちゃったじゃないか。ほとんど墨だ。勿体ねえ。
「焼肉奢ってくれたのは感謝するけど」
俺の言葉に二人の顔が曇るのが分かった。
「盗みなんて、そんな大それたことは俺にはできないよ。・・・今日の話は聞かなかったことにするから、俺抜きでやってくれ」
下水は「まぁそうなるか」って顔。
鍋蓋は不満げな顔。
「・・・焼肉はありがとうな」
俺はもう一度付け加えた。
「あーあー」
大男が嘆息する。
悪かったな、がっかりさせてさ。
「全く・・・そんなだからお前はまだ軽自動車に乗ってんだ」
鍋蓋がこちらを睨め付けながら言った。
何だって? 何の話をしてんだこいつは。
「はぁ?どういう意味だよ」
「決断ができてねぇって言ってんだ」
「決断って何のことだよ」
「お前、仕事は今なにしてんだ?」
その質問、盗みの話に何か関係あるか?
「介護士だけど・・・」
「月給いくら?」
「それ今、関係ある?」
「介護士の給料なんて、安いだろ? 安いよなァ? 手取りいくらだ? ええ?」
鍋蓋は嗤っている。嘲笑っている。こいつ喧嘩売ってんのか?
「何が言いたいんだよ!」
「お前がこのままマトモに働いたとしても、金持ちになんて絶対なれねぇってことだよ」
「・・・・・・」
まぁ、それはそうだろうな、きっと。
「普通に働いて稼ぐって言うのはな・・・コスパが悪いんだよ」
鍋蓋は得意げだった。
「コスパ?」
「そう、コスパだよ。コスパが悪い。考えてもみろ? お前がひと月、みっちり働いたとして、得られる金はどれくらいだ? えぇ? 15か18万ぐらいだろ? 違うか?」
悔しいが、だいたい合っている。
「だが、オレオレ詐欺の受け子を一回するならどれくらい稼げると思う?獲物にもよるが、30万はカタい」
・・・こいつオレオレ詐欺なんかに関わってんのか?
「分かるか? 普通に働くのはコスパが悪いんだ」
こいつの羽振りの良さの理由が分かったよ。なんて奴だ。
こんなクズの誘いに乗ってたまるか。
「鍋蓋・・・お前、コスパ、コスパって言うけどさ」
「なんだよ」
「だったら犯罪はコスパがいいのかよ?」
俺はさっきから頭の中に浮かんでいた疑問をぶつけることにした。
「なに?」
「もし捕まったら、仕事もクビになるし、刑務所にも入らなきゃいけない。それってコスパいいか?」
「馬鹿だなぁお前は」
鍋蓋は俺の言葉を鼻で笑う。
「捕まらなきゃいいのよ、捕まらなきゃ」
したり顔で奴はそう言った。こんなにウザったい顔の人間を見るのは久しぶりだ。
「捕まるようなことする方が悪い。捕まるような連中はただのアホさ。それに比べてどうだよ、俺と下水の計画は? 家にいるのはボケボケにボケたジジババ二人。俺らが侵入しても、家族だと思って歓迎されるぜ? 捕まりようがない!」
確かに、その計画ならうまく行くかも知れない。
金は欲しい。
正直、本当に金は欲しい。
しかしそれでもなぁ・・・捕まった時のリスクを考えると・・・。
「お前、そろそろ覚悟を決めるべきだぜ。このままじゃ一生貧乏暮らしだぞ。シミズの舞台から飛び降りるつもりでやってみろよ!」
清水だよ馬鹿野郎。慣れない言葉を無理して使うな。アホだってバレるぞ。
「先輩はね、見方を変えるべきなんですよ」
下水が口を開く。
「爺さん婆さんたちは金を貯め過ぎなんです。貯めて貯めて・・・でも老いたから使う機会が少ない。これじゃいけませんよね。これじゃ経済は回らない」
「そうだ。そうだよなぁ」
鍋蓋はわざとらしく同意する。
「金を回してやらないと経済は発展しないんですよ。使われない金を見つけて回す。これは社会貢献なんです」
社会貢献とはまたデカく出たな。強盗風情が偉そうに。盗人猛々しいってこういう時に使う言葉なんだな。
「先輩、俺の話に納得してませんね」
あら、顔に出てました?
「見方を変えないと。見方ですよ先輩。・・・方便とも言いますね」
なるほどね。そう思っておくと強盗が精神的にやり易くなるってことか。
「それにね、ジジババどもは恵まれすぎてると思いませんか? 俺たちの払ってる税金が、あいつらの年金になってるんスよ? 今回盗みに入る三島のジジイどもだってそうです。そもそもたんまり貯め込んでんのに、その上でまだ年金なんて貰ってる。ボケて話が通じないババアや、喚き散らして大暴れするジジイのために・・・あんな連中のために税金を払っている。そんなのおかしいですよ」
それは、その、確かにそうかも。
「若いボクたちがカネを得るべきなんです。あのボケ老人たちはボクたちに道を譲るべきです」
傲慢な言いようだけど・・・正直ちょっと分かるな。俺たちはカネが欲しい。
老人たちからちょっとばかりちょろまかしても許される気はする。
オレオレ詐欺や闇バイトに関わる連中の気持ちが百分の一ぐらいは分かった気がした。
しかし、それでもな・・・。老人の家に強盗なんて・・・。
「・・・三日だけ待つ、っていうのはどうですか?」
渋っている俺を見て、下水が言った。
「この仕事が楽なのはこの夫婦がボケてることを県外にいる息子たちが知らないからです。そいつらが気づく前に仕事をしなきゃならない。だからいつまでも待てません。3日だけ待つから、それまでに返事がないなら別の奴を誘う・・・って言うのは?」
「それいいな下水。そうだな、3日だけ待ってやるよ」
鍋蓋が同意する。
「先輩、いい返事待ってますよ」
どうかな下水。今回ばかりは決断が難しそうだ。
「よっし! 話は終わりだ! 久しぶりに会ったしなぁ! カラオケで時間を潰してから、クラブにくりだそうぜ! 俺が奢ってやるよ!」
「さっき言ったじゃないですか〜。先輩は下戸ですよ」
「関係ねぇよ。酒飲めなくても来るよなぁ?」
「いや、ごめん・・・パス」
こいつら、俺が何のために焼肉を昼にしたと思ってんだ。
「うちの婆さんがボケてて・・・夜中に徘徊するんだ。近くにいてやらないと・・・」
「なに、そうなの?」
鍋蓋の表情には隠しきれない哀れみが篭っていた。
可哀想な奴だ。奴はそう思ったに違いない。
「そりゃあ大変だなぁ」
鍋蓋は残っていたビールを煽った。
※挿絵は全てお絵描きAIのMidjourneyに描いて貰ったものです。
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