【名古屋コミティア62】試し読み『女子高生、ドラゴンを飼う』
2023年3月26日(日) 名古屋コミティア62
スペースF-30 サークル『Lovers&Madmen』で参加します!
こちら拙著『女子高生、ドラゴンを飼う』の冒頭部分となっております。
読んで貰えて、当日に会場でお会いできれば嬉しいです。
表紙絵はAI生成したものです。
以下、本文の冒頭部分となります。
一体エサには何を上げればいいのか。
少女は途方に暮れていた。
ドッグフードは食べるだろうか。キャットフードの方がいいだろうか?
この得体の知れない生き物は一体何を食べるのだろうか?
全く検討がつかない。
(いっそのことペットショップにでも連れていこうかな)
少女は数年前、最後にペットショップに入った時の事を思い出した。ハリネズミやらフクロウやら、珍しいペット専用のエサが売っていたはずだ。この生きものに合う何か良いエサがあるかもしれない。
と、そこまで考えて、
(待て待て待て待て)
少女はかぶりをふった。
この生きものをペットショップに連れて行く?
そんな馬鹿な。何を考えているんだろう。そんな事できるはずがない。
少女は自らの部屋に持ち込んだこの奇妙な生き物を見た。
爬虫類めいた鱗、蛇のような長い首、コウモリそっくりの膜の張った羽。そしてその生き物は犬のような四つ足歩行だ。
その姿はどう見たって・・・。
「ドラゴン、だよねぇ」
少女が拾ったのは、小鳥ぐらいの竜だった。
「大伴さぁん」
少女——大伴美由希(おおともみゆき)は自分を呼び止める声を聞いて、死にたいような気分になった。
ものすごく嫌な予感がするし、多分その予感は当たっているからだ。ライオンに見つかった子シカが自分の死を予期したような感覚。まだ一限目が始まる前だと言うのに。早朝から勘弁してほしい。
「大伴さん」
教室の自席で読書に勤しんでいた美由希を呼んだのは、クラスメイトの杉山薫だった。
「・・・・・・・」
美由希は顰め面のまま薫を見た。
バトン部の期待の二年生である薫は今日もメイクがばっちりだ。どこそこの有名店でセットして貰ったとか、いつも自慢する髪は艶やかで美しい。化粧っけのない美由希とは全く違う種類の生きものに見える。
「おはよう、大伴さん」
そうしている間にも、薫とその取り巻きたちが、美由希の座る机を取り囲んでいた。
スクールカーストの頂点に位置する薫には、いつも数人の召使いめいた取り巻きがいる。薫の仲間でいることで自分のカースト内での地位を担保している連中だ。クソくだらない取り巻きども。カースト頂点への憧れか、もしくは同一視されたいのか、連中は薫のファッションや髪型を積極的に真似していた。
似たような見た目の少女の群れ。美由希からするとそれは不気味な光景であった。
「おはよう、大伴さん。返事ぐらいしてよねぇ」
薫が言った。カーストの女王の口元はいじ悪く吊り上がっている。
「おはよう、杉山さん」
美由希は声の震えを務めて抑えようとする。彼女は出来るだけ平静を装おうとしていた。ビビっていると相手に悟らせてはいけない。あくまで平静でないと、相手を調子に乗らせてしまう。しかし今からされるであろう事を考えるとどうしてもビクついてしまう。
変な汗が溢れた。薫を前にするのはいつまで経っても慣れない。慣れるものではない。
何が起きようとしているのか、他のクラスメイトも気付き始めたようだった。クラスメイトたちは美由希と薫から一定の距離を保っている。ちらちら彼女たちを見る者、完全に無視を決め込む者、不安そうに見る者、薄ら笑いを浮かべながら見物を決め込む者。色々な反応があるが、助けてくれない時点で美由希にとってはどいつもこいつも似たようなものだ。
「朝食は食べた?」
薫がにこやかに言った。その声はあくまで親しげである。
「朝食を食べないと頭がしっかり動かないんだって。栄養が足りなくて」
「・・・・・・」
美由希は薫が何の話をしているのか分からない。
しかし碌な事にはならないだろう。彼女は無言で文庫本を机の中に片付けた。本を汚したくはない。
「大伴さんっていつもボンヤリしてるし、心配なの。朝ご飯しっかり食べてないんじゃない?」
「・・・・・・」
美由希はやはり薫が何をしたいのかが分からない。
正直、朝食をしっかり食べているかというと自信がないが。
「大伴さんは朝食が足りてないと思うの。差し入れがあるの。もっとしっかり食べた方がいいと思って」
薫はビニール袋の中から、一本の薄汚れた瓶を取り出した。タンブラーほどの大きさの瓶の中には、尿みたいな黄色の液体が詰まっている。そこに浮かぶのは、ぶよぶよした肉めいたもの。死体の肌みたいに白いそれは、腹を裂かれたヒキガエルだ。薫が取り出したのは、ホルマリン漬けのカエルの瓶だった。薄汚れたその瓶に美由希は見覚えがあった。理科準備室の戸棚の中にあったやつ。茶色く変色したラベルには昭和四十五年との記述がかろうじて見て取れた。
「ほら、これアタシからの差し入れ」
その瞬間、取り巻きどもが美由希を押さえつけた。
美由希は悲鳴をあげる。
薫のすぐ横にいた召使いの一人——丸井夏美とか言うやつ——が瓶の蓋に手をかけた。丸井はご丁寧にゴム手袋をしている。
「硬い、硬いよ薫!」
丸井は楽しそうに言った。
「この瓶の蓋、硬ぁい。開けらんない!」
(開けないで!)
羽交い締めにされながら、美由希は思った。
彼女は自分が何をされるのか想像がついていた。
薫は「朝食を食べた方がいい」と言った。
朝食を——ヒキガエルを無理やり食べさせるつもりなのだ。
(お願い・・・諦めて)
美由希は目に涙を溜めながら懇願した。
「夏美、ちょっと貸してよ」
いい加減焦ったくなったようで、薫は夏美から瓶を取り上げる。
そして次の瞬間には、瓶を机に叩きつけていた。ガラスの割れる音。そして中のホルマリン液が派手にぶち撒けられる。
「うわっ!」
「ちょ、ちょっと!」
周囲の取り巻きどもが一息に飛びのく。ホルマリンの飛沫をモロに浴びたのは、机に座っていた美由希のみだった。
教室の中をツンとした薬品の匂いが駆け抜けて、一気に充満した。
「臭っ!」
「なんだこれ!」
「くせぇぇ〜!」
周囲のクラスメイトたちから声が上がった。
昭和の時代から瓶の中に溜まっていたすえた臭気。そして目の前にあるヒキガエルの開き。美由希に吐き気を及ぼさせるには充分だった。
少女は胃の中の内容物が競り上がってくるのを感じた。今朝食べた菓子パンが喉の中を駆け上がる。溶岩のような煮え立つ胃液が食道を灼いた。トイレまで走ろうとしたが、間に合わない。
彼女は床にゲロをぶちまけた。
「うわっ!」
「吐いたぞ!」
「窓開けろ! 窓!」
ホルマリンと吐瀉物の臭いが混ざり、今や教室内は阿鼻叫喚の有様だった。
その強烈な臭気のために、教室から出ていく者や窓を開けに走る者など、部屋の中には蜂の巣をつついたようになった。
美由希は自分のしでかしたことが信じられなかった。喉が痛み、呼吸が荒くなる。
薫は床にへたり込む美由希を眺めていた。
「せっかく用意してあげたのに」
薫は美由希を嘲るように言う。
『せっかく親切にしたのに、なんでこんな事しちゃうの?』みたいな口調。
美由希の鞄の中を、薫が勝手に弄る。中からタオルを見つけ出すと、カーストの女王はそれを奴隷に向けて投げてよこした。
「自分のゲロぐらい自分でなんとかしてね。学校の雑巾なんて使わないで。これ以上備品を汚しちゃ駄目よ」
タオルは吐瀉物の上に落ち、じんわりとそれを染み込ませた。
その瞬間に、チャイムが鳴った。
8時半。朝のホームルームが始まる合図。
教室の外にいたクラスメイトたちが、ぶつくさ言いながらも帰ってくる。
「まだ臭ぇよぉ〜」
「こんなので授業を受けるの嫌よ」
耳障りなチャイムとクラスメイトの声の中、真弓は薫を睨みつけた。
(死ねっ・・・死ね死ね死ね死ね死ね・・・!)
美由希はひたすらに薫を呪った。目に涙を溜めながら、心の中でありったけの罵詈雑言をぶつけた。
しかし女王はにべもない。無表情に美由希を見た後に、自席へと颯爽と帰っていく。まるで何事もなかったように。取り巻きにしても同じ事だ。彼女たちは蜘蛛の子でも散らすみたいに、自席や自分のクラスにさっさと帰って行った。
「おはよう、みんな~」
担任の吉川がクラスに入ってきた。痩せた男性数学教師は、教室の中を見回した。
「早く席に着け~」
吉川は床に膝をつく美由希を見た。明らかに視界には入っていた。しかし彼は美由紀を一瞥したのみで、まるで何事もなかったかのように、教壇についた。彼の瞳には何の感慨も浮かんではいない。教室には未だ悪臭が充満している。それに対してもこの教師は何も言わなかった。
(クソ教師・・・)
この吉川という数学教師は、見て見ぬふりをするのが一番の処世術だと言うことを知っている。
美由希はタオルでそのまま床を拭き始めた。床に広がるのはホルマリン液と吐瀉物のミックスジュース。さっさと片付けてしまいたかった。地面に這いつくばるのはもう充分だ。
その時、彼女は頭上からの視線を感じた。見ると、机に座る男子生徒が、上から美由希を見下ろしていた。彼は心底迷惑そうに美由希を見ていた。『なんで俺がこんな臭い思いしなくちゃならない?お前のせいだぞ』とでも言いたげな視線。
(なんで私がそんな嫌そうな顔を向けられなきゃいけないの)
美由希の瞳からついに涙が零れ落ちた。
(悪いのは、薫なのに)
教師はもはや美由希を見もしないのに、見る者がいたと思えば、こんな見下す視線だ。
「出席を取るぞー」
能天気な吉川の声が聞こえた。
大伴美由希。
彼女の名前は出席簿でもかなり上の方だ。その名前はすぐに呼ばれることとなる。
「大伴〜」
吉川が美由希の名を呼んだ。彼は手元の出席簿から顔も上げない。
「・・・はい」
美由希が涙を流しながら言った。
少女は汚物の只中にいた。
暗く、埃臭い部屋。
その四畳ほどの空間の中には、所狭しと本が積まれていた。たださえ狭いのに、そのスペースの大半は本によって占拠されている。どの本も古いようで、ページは傷んだ果実のような色に変色していた。カーテンの閉まった部屋は光も入らず、地下室かと思うくらいに暗然としている。
図書準備室は、まるで死んだ本の霊安室だ。
その部屋に美由希はいた。
彼女は本を退けて、床に自分が座れるだけのスペースを確保している。
時間は正午過ぎ。
教室で昼食を食べたくはなかった。彼女は鞄からコンビニで買ったサンドイッチを取り出すと、スマホのイヤホンを耳に着けた。
今日のBGMは、お気に入りのツイキャス配信者の過去配信。イヤホンで外界から閉ざされる瞬間。それは美由希にとって最もリラックスできる時間だ。
部屋の中は古い紙のすえた匂いで充満している。空調もなく、決して快適な場所とは言えない。しかし教室よりはマシだ。この学校の中で、美由希にとって唯一の平和を感じられる場所だった。
その時、扉の軋む耳障りな音がした。
美由希は驚いて、サンドイッチを取りこぼしそうになる。
薫か、もしくはその取り巻きでも入ってきたのか?
少女の背筋が一気に凍った。
しかし開いた扉から顔を出したのはよく見知った顔。
「美由希、またここにいたの?」
入ってきたのは、フレームのない眼鏡をした長い黒髪の少女。
「・・・里絵」
美由希は胸を撫で下ろしていた。
眼鏡の少女——工藤里絵は美由希の数少ない友人の一人だった。
同じ美術部員で、放課後はよく一緒に絵を描いて過ごす仲だ。
里絵は扉を閉めると、そのまま窓の方に足速に向かう。素早くきびきびした動き。美由希は彼女の機敏な動きを見るのが好きだ。
「カーテンぐらい開けなよ。暗すぎる」
眼鏡の少女はスカートが捲り上がるのも構わず、本の山をいくつも踏み越えた。山の先の窓に到着すると、里絵は一息にカーテンを開け放つ。太陽の光がモルグを照らした。舞い上がる埃がキラキラと星屑めいて輝く。彼女がそのまま窓を開けると、ごう、と風が入ってきて、埃と同時に里絵の長い黒髪も巻き上げた。
「いくら教室に居づらいからって、こんなとこでご飯食べちゃ駄目よ。埃吸って病気になっちゃう」
そう言うと眼鏡の少女は美由希の側にストンと座った。
「今朝、大丈夫だった?」
里絵の眼鏡の奥の大きな瞳が美由希を見ている。
「隣の教室から凄い臭いがするから、どうしたのかなって・・・そしたら、また美由希が何かされたって聞いて・・・」
彼女の心配と気遣いに満ちた視線を美由希は感じていた。
こんな目で見てくれるのは里絵だけだ。
「ホルマリン漬けのカエルを食わされそうになった」
「はぁっ? 何それ?」
眼鏡の少女が声を上げた。
里絵の声はよく響き。そして透き通って聞こえる。すごく綺麗な声だと、美由希は思う。彼女にもっと大きな声を出させたいさえと思っていた。
「あんたに嫌がらせするために、わざわざ理科準備室からホルマリン漬けを持ってきたって言うの?」
里絵は呆れたようにそう言った後、「どうかしてる」とボソリと続けた。
「実はホルマリン漬けは二回目」
「なに?」
「二回目」
「うそ」
「三ヶ月ぐらい前に、ホルマリン漬けのカエルの瓶を鞄の中で割られたの」
「・・・・・・」
里絵は顔を顰めた。
「その時の瓶には平成三十年に作られたってラベルには書いてあった」
「ラベルがなに?」
「今日のビンには昭和って書いてあった。それで・・・今日の方が臭かったんだよね・・・。古い方が匂いがキツいんだね、きっと」
「・・・何を言ってんの、あんた」
「ちょっとした気づきを得たってことだよ」
「何の得にもならない気づきだね」
里絵はほんの少しだけ笑った。
彼女が笑ってくれたことが、美由希には何よりも嬉しい。
そのまま美由希と里絵の会話は途切れた。
二人の間には、美由希がサンドイッチを咀嚼する音しか聞こえない。
しかし気まずさはなかった。
美由希と里絵の間には、このような沈黙に任せる時間がままあった。この沈黙の時間こそが、二人にとって気持ちの良い時間だった。
だが、そのうちに外の生徒たちの五月蝿い声が聞こえてきた。図書準備室の前で男子たちが噂話をしているようだ。誰が好いたの惚れたの、誰の胸が大きいかだの、品のない会話が聞こえる。BGMにしておくにはあまりにも耳障りだ。
美由希はこれ以上、クズどもの会話を耳に入れたくはなかった。
彼女が沈黙を破ろうとした時、
「そう言えば」
里絵が口を開いた。
「さっきまでイヤホンで何を聴いてたの?」
彼女もまた美由希と同じ気持ちだったのかも知れない。
「ツイキャスのアーカイブ聴いてた」
「ツイキャス?」
「そう、ツイキャスで、怖い話をひたすら収集して披露してる人達がいてね」
「怖い話って、怪談話?」
「そう、そんな感じ」
美由希の楽しそうな言葉に、里絵が顔を顰めた。
「うぇっ、そんなの聴くの?」
「里絵は嫌い? 怖い話」
「そんなに得意な方じゃない」
「さっき聴いていたのはコックリさんの話。放課後、忘れ物を取りに行った生徒が、真っ暗な教室の中でコックリさんをしている生徒たちがいるのに気づくの・・・そして」
「あーあーあー!!」
里絵は大仰にかぶりを振ってみせた。
「待って、待ってよ! 話さないでよ! 苦手だって言ってるのに!」
その嫌がる動きがあまりにも大袈裟なものだから、美由希はつい笑ってしまう。
「そっか・・・でも、これ凄く面白いんだよ・・・それに、」
「なに?」
「聴いてると、落ち着くの」
「落ち着くぅ?」
里絵が言い返す。理解し難い、と言わんばかりだった。
「落ち着くって、わけわかんない。怖いんじゃないの?」
「怖いよ〜。すごく怖い。でもそれが落ち着くの」
「あんたさぁ」
里絵はまた呆れている。今日の彼女は呆れてばかりいる。
「『蔦の家』にぶち込まれすぎて、頭おかしくなっちゃったんじゃあないの?」
「・・・そうかもね」
『蔦の家』とは、高校から美由希の家までの数キロの間にある廃屋の通称だった。古い住居の廃墟で、もはや二十年以上空き家になっている。管理は行き届かず、小さなボロ屋は緑の蔦にぐるぐる巻きにラッピングされていた。蔦に巻かれたその見た目から、『例の緑の家』や『グリーンハウス』などとも呼ばれている。というのも、『蔦の家』は心霊スポットとしてそこそこ有名だった。
「あそこに住んでた夫婦の・・・妻が夫を刺し殺して、自分も自殺したんだって噂じゃん」
里絵が眉を顰めながら言った。
「その夫婦の幽霊が出るって」
その廃墟だったが、美由希は薫に無理やり連れ込まれて、閉じ込められてしまった事が何度もあった。
「幽霊は見た事ないなぁ。それにあの家、もう慣れちゃったよ」
「・・・・・・」
美由希がケロリとした顔で言うので、里絵は本日何度目かの呆れ顔をした。しかしその顔は同時に悲しみに満ちている。
「ごめん」
いじめられっ子は友人に心配をかけていることに気づいた。
「心配かけるね」
「担任が何もできないなら」
里絵は美由希を見つめている。
「やっぱりあたしがPTAとかに言って・・・」
「やめてよ。そんな事したらターゲットが移るかも・・・」
「でも、でもさ、なんとかしないと。里絵がカエル食わされるところなんて、あたしは見たくないよ」
眼鏡の少女は申し訳なくてたまらない、と言った顔をしている。
美由希は自分のためにそんな顔をしてくれる里絵が好きだった。
「じゃあさ、じゃあ、いい加減、親に言おう。それなら大丈夫だよ!」
「それも駄目」
美由希がピシャリと言った。
「なんで?」
強い断言に、里絵は困惑するしかない。
「何で? お母さんに伝えれば大丈夫だよ。心配かけたくないっていうのは分かるけど、もう限界だよ。今まで言わなかったのがおかしいぐらいよ」
「駄目、駄目」
美由希は里絵から目を逸らすと、首を千切れんばかりに横に振った。
「駄目なの、それも」
昼休憩を終えて、美由希が教室に戻ると、教科書やら荷物やらが一式まるまる消え失せていた。机の中は伽藍堂だし、バッグなんてものもない。美由希なんて元々登校してなかったみたいだった。
薫の取り巻きたちがニヤニヤしながら見てきたので、何をされたのかは検討がついた。しかし首謀者であるはずの薫は美由希の方を見もしない。
ズルい、と美由希は思う。自分だけは汚れていないつもりなのか。
かくして、教科書のない状態で午後の授業を受けた美由希だったが、五限の古文教師も六限の英語教師も彼女に何も言わなかった。ただの一言もなかった。
彼女の方も決して隣席の生徒に「教科書を見せて欲しい」なんて言わない。無視されるか、害虫を見るみたいな目で見られるかのどっちかに決まっているから。
教科書と鞄がどこにいったのか検討はついていた。おそらく校舎の近くの空き地だろう。
放課後、美由希は足早に空き地に向かった。薫の取り巻きどもの視線から一刻も早く逃れたかった。
その空き地は高校の校舎のすぐ裏にあった。幾年も整備されてないその平野は、敷地から溢れんばかりに雑草が生い茂っている。まるでミニチュアのジャングルだ。
美由希は空き地に面した道路の側溝に、自分の鞄が打ち捨てられているのを見つけた。中身は空っぽだったので、ここから空き地に向かって教科書類を投げたのだと簡単に想像できた。
美由希が草の壁をかき分ける。むっとした草いきれに、少女は思わずえづいた。
もう十月に入っていたが、まだまだ気温は高く、残暑が立ち去る様子はない。こんな日に草むらの中に入っていくなんてどうかしている。
正直、このまま年度末までに教科書なしで過ごしても誰も何も言わないだろう。しかし捨てられた中身の中には、図書室で借りたスティーブン・キングの短編集も含まれている。
(あれ、面白いんだよね・・・『ミルクマン』)
あの名著が図書室から無くなるのは大いなる損失だ、と美由希は思った。
少女が雑草の大渋滞の中に分け入る。スカートだったため、ふくらはぎやふとももを大量の草が撫でて、引っ掻いた。ひどく汚い感じがするし、足が痒くなる。聞こえるのは耳障りな蚊のハウリング音。草むらにいる間に、どれだけ刺されるかわからない。
(最悪・・・)
そんな中、緑の中に白い背表紙が見えた。英語の教科書だ。
こんな思いをして最初に見つかるのがあのクソ担任の教科だなんて。
正直、このままうっちゃっておきたい衝動にも駆られたが、見つけてしまったのならしょうがない。少女は教科書をカバンにしまった。
(『ミルクマン』さえ見つかったら帰ってもいちのに)
しばらく本は見つからなかった。しかしその代わりに打ち捨てられた大量の家電を見つけた。
この空き地は不法投棄の天国であった。周辺の住民たちは、この草の海に不要なゴミを沈めていく。
扉のない電子レンジ、画面の割れた液晶テレビ、土に半ば埋まった電気ポット。何故あるのか、自動車のドアまである。古びた冷蔵庫はだらしなく口を開き、中には雨水が溜まっている。少女が何気なく覗くと、汚水の中でうねうねと大量のボウフラが踊っていた。
「うげ・・・」
この中に本が落ちてなくて良かった、と少女は心の底から思った。
誰が管理しているかも分からない土地だ。いくらゴミを捨てたって、誰も何も言わない。不要な荒地をゴミ捨て場として使っているのは、ある意味で土地の有効活用だとも言えた。
かくいう美由希も小さい頃、母に命令されて、壊れた炊飯器をここまで捨てにきた事があった。小学三年生で、彼女は何も分からなかった。
母親。
子どもに不法投棄の片棒を担がせようとするような人間だ。最初からどこか頭のネジが飛んでいたのかもしれない。
美由希はもうひと月ほど母と言葉を交わした記憶がなかった。同じ家にいるのに、もはや他人のようだ。
父と母は昔から不仲だった。顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたが(朝食中に取っ組み合いの喧嘩を始めるのは勘弁して欲しい)、ついに父はもう限界まで来てしまったらしい。父は早朝に家を出て、深夜に帰宅するようになった。母と出来るだけ顔を合わせないように。
それをきっかけに母も変わった。
家事がひどく雑になった。
ほとんど放棄と言えるかもしれない。
朝食は菓子パン、夕食はスーパーの出来合いのものを買ってくるだけ。昼食だって、昔はお弁当を作ってくれていたのに、今では美由希は毎日購買に走らなくてはならない。
母はパートに出る時はほとんど部屋に篭っている。そのため一緒に食卓を囲むこともなくなった。
今の母は四六時中呑んでいる。
ベロベロに酔ったままスーパーのパートに行く。そして帰ってきたらまた呑む。ゲロを吐くまで呑んで、泥のように眠る。アル中のフリーターめいた生活を既に一年近く続けていた。
掃除洗濯もほとんど美由希がやっているのだが、ゲロまみれのシャツが床に放り出されているのだけは勘弁して欲しい。
母にとって家事とは「妻」だからやっていた事であり、夫との関わりが極限まで薄まった現在、それをやる理由もなくなったという事かもしれない。
母は美由希の事を気に留めなくなった
二人が関わるのはひと月に一度、お小遣いを手渡しするタイミングぐらい。
もし・・・もしだ。
美由希は考える。
もし母に現在の自分のいじめの事を訴えたとして、彼女はちゃんと取り合ってくれるだろうか。いじめに対処してくれるだろうか。
美由希の事を気にしていない彼女だが、こう言ったことにはさすがに対処してくれるかもしれない。
しかし、もし、何もしてくれなかったら。
『嫌がらせ?なに?そんなのいい我慢しなさい。すぐにおさまるわよ』
なんて、一言で済ませられたら・・・。
父もそうだ。全く顔を合わせてない父。
相談する事は可能だが、もし彼にも何もして貰えなかったとしたら。
美由希はそんなことばかり想像していた。
いじめについて相談するということは、両親からの愛情を確認するということだ。
もしそれで、愛情などもはやない、と証明されてしまったら・・・。
(わたしはどうしたらいいの?)
故に美由希はいじめについて両親に話せずにいた。
(まるで幽霊みたい)
彼女は自分が幽霊になったように思えた。
同じ家に住んでいるのに、両親は美由希を気にもしない。そんなのまるで幽霊じゃないか。
(あの『蔦の家』に幽霊がいるとしたら、多分幽霊同士で引かれあっているのかもね)
ぼぅっとそんなことばかり考えている間も彼女は黙々と教科書やノートを探し続けていた。
いつの間にか空き地に入ってから既に二時間が経とうとしていた。西の空には燃え上がるような夕日が見える。
露になった足や腕は雑草に擦れる事で既に傷だらけだったし、虫にも刺され、至る所が腫れ上がっていた。無防備に草の海に飛び込んできた彼女は蚊やノミにとってさぞいいご馳走だったろう。
『ミルクマン』はまだ見つからない。
(なんでこんな事になっちゃったんだろう)
少女はいい加減うんざりしてきた。
(学校・・・あんなところがあるからいけないんだ)
美由希は校舎の方向を見た。
高校の校舎の背後から夕日が上がる。影になった校舎は墨で塗りつぶしたみたいに黒々としていた。そこに赤く輝く夕日が重なる。
(そのまま燃えちまえ)
少女は学校が太陽のような炎に焼かれる様を夢想した。
炎は全てを蹂躙し、あのクソのようなクラスメイトもゴミ教師どもも全て焼き尽くしていくのだ。クズの見本市めいたあの連中はどいつもこいつも苦しみ悶えて消し炭になる。
綺麗さっぱり消滅するのだ。
少女はそんな事を考えて、
「・・・・あーあ」
大きく嘆息した。
怒りに猛った気持ちが一気に萎んでいくのを感じる。
こんな想像をしたってなにも変わらないのは知っている。連中が死ぬところを想像しても大してスッキリしないことも知っている。しかし少女は不健康な夢想に浸らずにはいられなかったのである。
ふと目をやると、草の中に文庫サイズの本を見つけた。
『ミルクマン』だった。
少女は安堵した。溺れかけていた人間が、救助されて浜に上がったような気分。
(わたしにはこれが必要なんだな)
本を拾い上げて、泥を払う。大して汚れてもなかったので、彼女は安心した。
目当てのものは見つかった。
漢文と数学Ⅱの教科書とノートが見つかっていないが、正直もう帰ってもいいのかもしれない。
そんな事を考えていた時だった。
きぃ、きぃ・・・。
古い蝶番が軋むような音が聞こえた。
そのか細い声は、小さな獣か、小鳥の鳴き声に聞こえた。
ネズミでもいるのだろうか。
だとしたら不潔だし、出会いたくはない。彼女は素早く立ち去ってしまおうとする。
きぃ、きぃ・・・。
また聞こえた。
ネズミではないような気もする。さっさと草の海から去ろうとしていた彼女だが、その音の事が気になって仕方がない。
小動物の鳴き声など放っておけばいいのに、この時の彼女はその音の発生源が気になって仕方なかった。一体何の生き物の鳴き声か突き止めたいと思った。
草の城の中をかき分ながら彼女は進む。雑草を踏みしめ、打ち捨てられた扇風機を踏み越え、錆で変色したスクーターを跨いだ。
きい、きい・・・。
鳴き声が近くなってきた。
少女の目に入ったのは、画面の割れた古いTVだった。前時代のブラウン管のやつ。美由希の頭ぐらいの大きさがあった。
その割れた画面の中の空間に、何かがいた。
その生き物には羽があったので、最初は小鳥かと思った。TVの中に、スズメかなんかが巣を作ったのかと思った。しかし、その羽には羽毛はなく、コウモリに似た肉の膜が張っている。鳥なら足は二本だ。しかしこの生き物は四本足。さらにその生き物には鱗があった。黒々とした鱗は黒曜石めいて輝いていた。
その生き物が首をもたげる。首は蛇みたいに長い。ただ、頭には角のような突起があった。
「きぃ・・・」
生き物が鳴いた。
「う、わ」
美由希は変な声を出した。
羽、鱗、蛇みたいな首、頭に角・・・。
その生き物は竜にしか見えなかった。
小鳥ぐらいの竜がいた。
少女は混乱した。自分の目が信じられない。
何かの見間違いじゃないか。勘違いじゃないか。トカゲやコウモリの死体の上を蛇が這っているだけなんじゃないか。
彼女は再びじっくりその生き物を眺める。
・・・やはり竜にしか見えない。
ファンタジー世界の住人がそこにはいた。
美由希はなんとなくスマホを取り出した。もの凄く俗っぽいが、とりあえず写真を撮ることに心が至った。
一枚撮ると、シャッター音に竜が反応する。
首が素早く美由希の方を見た。
その生き物の目はワニに似て、黒目がアーモンドみたいに細長かった。そして、白目部分は血のように赤い。
竜は興味深そうに少女の方を眺めていた。
次の瞬間には、美由希は鞄を広げていた。教科書やノート類を鞄の底に敷く。
そして少女は竜に恐る恐る手を伸ばした。
噛まれるだろうか。いや、噛まれても構わない。ただ、触れてみたい。
しかし竜は少女を噛む事はなかった。美由希の両手の中に、大人しく包まれたのである。
まるでガラス細工でも扱うような繊細な動きで、彼女は鞄の中に竜を入れた。
教科書を敷いて生まれた平らな面に竜を乗せる。
小さな竜は未だ美由希の方を見上げていた。
鞄を抱えて、少女は足早に空き地から脱出を図った。草で足が切れようが、泥で汚れようがもうどうでもよかった。何冊か教科書は見つかっていないが、そんなどうでもいい事は既に記憶の彼方に追いやられている。教科書を探していた事なんて何百年も前の太古のことのように思えた。
急ぐ必要なんてないのに、彼女はいつの間にか走り出していた。
私は何をしているんだろう?
なんでこんな分けの分からない生き物を拾った?
彼女は自分自身なぜそんな行動をしたのかさっぱり分かっていなかった。
考える前に身体が動いていた。
こんな生き物、危険じゃないか。持ち帰ってどうするんだ。捨て置いた方が楽なはずだ。自分自身の冷静な面が心の中で訴えた。
しかし美由希はそんな声を振り切るように、さらに足を早めた。
何故かは分からない。ただそうしたかったのだ。