冗談は笑いの夢を見るか ~ 冗談とは、笑いとは ~
概要
冗談を「論理的な誤り」と見て、「緊張の緩和」説をもう半面で補強し、統合した仮説が、あらゆる冗談と笑いに妥当することを示します。
冗談は論理的な間違い
笑い、冗談とは何でしょうか。最も広く考えると、笑えば、それは笑いです。従って、その直前には冗談があったと解釈します。しかし、最初から対象を広げ過ぎても考えにくいので、典型例に絞りましょう。
いきなり結論から入りますが、冗談とは論理的な間違いです。例を挙げます。
神は光である。光はエーテルである。よって、神はエーテルである。
これは論理学の「媒概念曖昧の虚偽」の例として示されていました。
論理学の解説のための例文であり、笑わせる意図があるかどうか不明ですが(あると思いますが)、初めて読んだ時には笑ってしまいました。
A=B、B=C、しかし、A≠C。
「神は光」の光は、希望の光というほどの意味であるのに、「光はエーテル」の光は波の意味です(エーテルは光という波を伝える媒質として想定されていた)。光という言葉は同じでも、前者と後者で意味が異なるため、神とエーテルは同じ意味にならず、虚偽だということです。
冗談には、これと同様の論理的な虚偽が含まれています。以下、この仮説を基盤に笑いと冗談について考えます。
謎掛け
インターネットから例を拝借しました。
「スープ」と掛けまして「いい夢」と解きます、その心は? どちらも「さめて」欲しくありません。
スープ(A)=さめて欲しくない(C)、いい夢(B)=さめて欲しくない(C)。よって、A=Bとなる筈ですが、前者のCは「冷めて欲しくない」、後者のCは「覚めて欲しくない」であるため、A≠Bとなります。
冗談を聞いても、瞬時にこのような図式が分かるわけではありませんが、謎掛けは例として分かり易い方です。ちなみに、私は、この仮説を思い付いた当時(二十年ほど前です)、一か月ほど、自分が笑う度に全て検証しました。
オシム元監督の冗談
サッカー日本代表の元監督、イビチャ・オシムさんは、「真実というのは辛いことが多いから、私は冗談ばかり言っているんだ」と言った、と思っていたのですが、私の記憶違いだったようです。
実際は、「世の真実には辛いことが多すぎる。だから真実に近いこと、大体真実であろうと思われることを言うようにしている」のようです。
しかし、気に入っていた言葉なので、記憶違いのまま例にします。
「辛い真実は受け入れ難い」(A)ということと、「真実を発見することは難しい」(B)ということは、どちらも「真実は直面し難い」(C)という意味ではあります。それぞれ、「辛い真実を人は冗談で紛らわせる」、「真実は発見し難いから、人は冗談(虚偽)ばかり言っている」というほどの意味です。A=C、B=Cですが、やはり、媒概念曖昧の虚偽のため、
A≠Bになります。
尚、BやCについて、異なる解釈をする人もいるでしょう。解釈は複数あり得るわけですが(従って笑いは複合的)、笑いがあれば、図式はある筈なので、置き換えて読んで下さい。
笑いは好意を示す表現
では、冗談が論理的な誤りだとして、何故それで笑いが起きるのでしょう。
子供の頃の、実体験を一つ紹介します。ある時、数人で、所謂ギャグ漫画の話をしていました。あの場面が面白かった、この場面も笑えたという話です。そこで、ある同級生が、同様の話をしたところ、それまで楽しく笑っていたのに、誰も全く笑わなかったのです。正直なところ、私はこの同級生が好きではなかったのですが、他の人達も笑わないのを見て、「みんなも好きじゃないのかな?」と思ったのでした。
その同級生が挙げた場面自体は、私も覚えていて(今も覚えています)、読んだ時は笑いました。つまり、笑うとは好意を示すということなのです。日常生活でも、好意を示した方がいい場合は笑顔が多くなり、好意を示したくない場合は笑顔が少なくなるのではないでしょうか。
例えば、政治家の失言がよく非難されますが、あれは冗談や軽口の場合が多いようです。支援者等の前で話した冗談が、その政治家に好意を持っていない人に伝わり、冗談が論理的な虚偽と解釈されるわけです。こう考えると、政治家が非難されやすい理由を説明できます。
そのまま受け取れば、論理的には間違っているのですから、意図的な冗談だと解釈するのは、好意を示すことなのです。
論理的に間違っていれば、相手はそこを突いて攻撃して来るかも知れません。意図的に間違うとは、弱みを見せ、自分が危険な人間でないことを示す意味になります。また、相手の好意を期待し、誘ってもいます。冗談を言い、相手が笑えば、一方が危険な人間でないことを示し、もう一方は好意を示すことになり、緊張が緩和されます。
枝雀師匠の卓見
落語家の桂枝雀師匠の慧眼は、笑いの周辺に緊張と緩和ありと察しました。その上で、緊張からの緩和が笑いを生むと見ます。
強面の屈強そうな男が急に近付いて来たら、緊張しても不思議はありません。そこで、礼儀正しく、道を聞かれたらどうでしょう。よく見ると、有名なラグビー選手です。聞かれた方は自ずと笑顔になるかも知れません。緊張からの緩和が笑いを誘います。
ここには、強面の危険な男(A=C)から礼儀正しいラグビー選手(B=C)という図式もあります。
一方、ラグビー選手は、自分が怖がられるかも知れないと心配(緊張)していますが、相手に笑顔があれば、安心(緩和)します。
お店の人達の笑顔は、あなたが見知らぬ怪しい人物(A=B)ではなく、歓迎されるお客様(A=C)だと示すためということです。
このように、緊張からの緩和が笑いを生み、笑いが緊張を緩和します。
笑えば、それは笑い
対象を拡張して、境界的な例を挙げます。
映画等で、突然、銃を向けられた人物が、少し笑みを浮かべながら「冗談だろ?」と言う場面があると思います(銃は突き付けていませんが、私も言われたことがあります)。
何故、笑うのでしょう。信用していた人物(A=B)と、銃を向ける人物(C=B)。人物(B)は同じですが、信用(A)と銃(C)を等号では結べません。従って、これを冗談にしたいわけです。もし、冗談なら、緊張緩和です(大抵は撃たれてしまいますが)。
もう一つ境界的な例です。意外ではあるものの、事実だったというような時です。(肯定的な事実の場合)思わず、笑ってしまうことがないでしょうか。
それまでの認識(A=B)に対し、新しい認識(A=C)で、B≠Cですが、事実は事実ですから間違っているのは自分です。笑ってしまうのは間違っていた自分に対し好意的だからです。
叱られた子供(大人も)が「失敗、失敗」とばかりに笑うのも、理屈は同じです(笑うと更に怒られますが)。叱る方は論理が整合的、一貫しているので笑いません(若しくは次の通り)。
付け加えると、情動は笑いだけではありません。否定的な事実の場合、怒ったり、悲しんだり、肯定的な場合でも感動して泣いたりします。
好意を示す表現(の一つ)が笑いであることの理由は本論の範囲外です。生物的、歴史的なものなのでしょう。
嘲笑するのかしないのか
ここまで書いて来たことからすると例外的な笑いがあります。それは嘲笑です。嘲笑に好意は無さそうです。誰かが転んだのを見て笑う場合はどうでしょう。
ある人がまだ転んでいない状態(A)と、ある人が転んだ状態(B)。
Aは相対的な高評価、平常の評価で、Bは相対的な低評価、一時的な低評価で、転ぶ前後の評価が一致しません。典型的には、その人物への評価が低くなったことを喜び、納得するということで、笑うのは、評価を高めに見積もり、誤っていた自分への好意でしょう。
一方、転んだのを見て、笑わない人もいますが、誰にでもその程度の失敗はあるということで、評価が変わらないからと考えられます。
もう一例、「某国人は生まれてから死ぬまで嘘ばかりついている」という冗談はどうでしょう。
「某国人は嘘をつくことが多い」(A=B)という世評から、「嘘をつくことが多い=生まれてから死ぬまで嘘ばかり」(提喩、B=C)とおいて、「某国人は生まれてから死ぬまで嘘ばかり」(A≠C)が導かれます。
これを聞いて笑う人はいるかも知れませんが、当事国の人は笑わないかも知れません。そういう人は、「某国人は嘘をつくことが多い」を認めないため、また、内心で肯定したとしても、不愉快に思っています。従って、好意を示さず、笑わないことになります。
譬喩と冗談
冗談と譬喩の関係を考えます。
昔の人は、露が山の木々を紅葉させると思っていたそうですが、なかなか雅なので例にしましょう。
葉=露、葉=赤。よって、露=赤? 露と紅葉を等号で結べるでしょうか。露は赤くありませんし、春先や盛夏に数滴の露を垂らしても葉が赤くなることはありません。しかし、気温が下がれば、それだけで紅葉するわけでもありません。栄養や水、日照時間が足りなければ、木は枯れてしまいます。台風で倒れるかもしれません。つまり、まずまず無事に春から夏、秋、冬へと季節が移るから紅葉するのです。露をその象徴と思えば、成立するのではないでしょうか。
あるイタリアのサッカー選手(A)について、フランスの記者が「金の鎖の最後の環ではない」(B)と書いていました。「金の鎖」とは素晴らしいパス・ワーク、「最後の環ではない」とは、「シュートするだけの選手ではなく、巧妙なパスも出せる」(C)という意味です。
私は、日本語訳の注を読んで、「金の鎖」が「素晴らしいパス・ワーク」だと知ったのですが、良いものが繋がっているという点で共通しています。
つまり、A=B、B=Cから、冗談がA≠Cなのに対し、譬喩はA=Cを認めることができるようです。
等号で結べる筈が結べない冗談と、一見全く違っているようで共通点のある譬喩(共通点がある=同等と見做し得る、から譬喩になる)。
人間関係の改善が目的の冗談と、物事の理解を深めることが目的の譬喩。冗談と譬喩はこのような関係にあります。
好意が解釈を可能にする
論理的な誤りは全て、正しい論理の冗談として解釈することができるでしょう。
ある対象のある面と別の対象のある面が等しいと見做し得る。これが論理です。1+1=5-3。しかし、1+1と5-3は違うものです。表記も異なっています。それを同じだと見做すことはある種の好意なのです。
同語反復以外の全ては論理的な誤りと見做すことができます。しかし、好意が意味のある解釈を可能にします。狭義の論理系は、一定の規則への好意(同意)によって成立し、ある種の誤りは好意によって冗談となり、また別の誤りは、好意から譬喩として見出されます。
譬喩は巧い冗談か
ここで伏線を回収しましょう。上記のオシム監督の冗談(記憶違い)をもう一度例にします。
「辛い真実は受け入れ難い」(A)と、「真実を発見することは難しい」(B)は、どちらも「真実は直面し難い」(C)と解釈できます。そのため、A=C、B=Cとなるものの、媒概念曖昧の虚偽のため、A≠Bです。しかし、A=C、B=Cを重視し、A=Bと見做した場合は、譬喩だということになります。
重視する理由は、「真実は直面し難い」という解釈を示唆している点が、なかなか巧いと感心するからかも知れません。
上記の謎掛けも同じです。「冷めて」=「さめて」=「覚めて」は単純ですが、巧いと思えば、好意的になります。
反対に、譬喩で笑うこともあります。上記の「露で紅葉する」例では、「露=紅葉」を好意に解釈すれば譬喩、言葉通りに解釈すれば冗談です。「神=エーテル」のように、譬喩とはならないような冗談もありますが、強い好意で譬喩と見做される冗談はあると考えられます。
一般に、所謂、巧い冗談は、笑いが大きくならない傾向にあるのではないでしょうか。それは冗談であるのと同時に譬喩だと解釈されるからかも知れません。
面白い冗談の条件
面白い冗談の条件を考えてみます。大体、結論は出ているようですが、それは等号で結べそうなほど似ている、近いのに全然違うということです。
神とエーテルがそうですし、所謂駄洒落も発音がほぼ同じなのに意味は違います。物真似も、声はそっくりなのに話の内容が違ったり、という具合です。
冗談は複雑に展開し、多様な笑いを生んでいますが、これが根本なのではないでしょうか。
正しい論理でも誤った論理でも笑いは起き得ます。笑いが起きた時には、ここまで書いて来たような図式を見出し得ることでしょう。実際、物語の登場人物や冗談を考える時等は、このような図式を何となく目指しているかも知れません。
しかし、人は、図式で笑いませんし、感動もしません。図式を考え過ぎず、具体的な発想を重視した方がいいと思います。面白い冗談が思い浮かぶどうかは、冗談をつい考えてしまう性向であることと、才能に因ります。
そして、残念ながら、冗談にも限界があり、いくら面白いと思われる冗談を言っても、相手に関係を改善する気がなければ無効です。
附記
「スキ」も有難いですが、是非、気軽にコメントして下さい。
追記
近日中に、補論を公開します。
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